☆†汚名上等!!天下の為なり!!†☆《 検証 》 | みらくる☆彡

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●通説の6つの謀反理由を光秀ファンとして検証


・『野望説』…光秀が天下取りを狙った。

→細川父子への手紙のように、
一連の光秀の言動から考えて野望はあり得ない。却下。

・『恐怖心説』…重臣・佐久間信盛のリストラをきっかけに、
結果を出さねば追放されると不安になった。

→武勲挙げまくりの光秀と比べること事態がおかしい。却下。

・『四国説』…本能寺急襲が四国遠征軍の出港予定日という点に注目。

光秀は長宗我部の仲介となって信長と交渉していたので、
侍の筋を通す為に謀反したというもの。

事実、四国遠征は中止になった

→複数原因のひとつとして採用

・『積年の恨み説』…人質となった母の死、
丹波・近江などの領地没収の他、
細かいことでは、髪が薄いことを
「きんかん頭」とオチョクられた、
酒が呑めずに断ると
「ならばこれを呑め」と口に刀を突きつけられた、
公衆の面前で髪のマゲを掴まれ引きずられた、
等々枚挙に暇なし。

→恨んで当然。

・『足利義昭黒幕説』…かつての主君・義昭の指令。

→義昭に長年仕えていた細川藤孝が味方になっていない。却下。

・『朝廷黒幕説』…皇室が滅ぼされると思った朝廷から指令

→光秀は連歌会や茶会で公家と親交が深く、
実に説得力あり。

そしてこれが事実なら、
暗殺後に朝廷がバックにいることを書けばもっと味方が増えたのに、
謀反の汚名を朝廷に着せない為に、
一言も書かなかったことになる。

天晴れというほかない。

この朝廷黒幕説は、
家康、秀吉の“見てみぬふり”説も生んでいる。

朝廷と光秀が暗殺を企てている事を知り、
両者はすぐに行動をとれるよう準備していたというのだ。

信長の死で誰が一番得をしたのか?
後に天下人になったこの2人だ。

信長がいる限り、
家康も秀吉も天下を取れずに死んでいたのは確か。

“信長の仇・明智を討った家臣”秀吉の発言力は格段に強まった。

家康には信長に妻子の命を奪われた恨みがある。

家康は事件当日に早くも信長の死を知っており、
秀吉も翌日に気づいてる。

そして家康は三河へ、
秀吉は京都へすぐに戻った。

幾らなんでも手際が良すぎる。

じゃあ、
光秀は利用された挙句に殺されたのか?

僕は“確実に死んだ”と確証が持てない。

光秀の死をめぐる秀吉側の記録は矛盾だらけなのだ。


【追記】

2014年6月、
“本能寺の変”直前に四国の王者・長宗我部元親が明智光秀の重臣・斎藤利三(としみつ)に送った手紙が岡山で見つかった。

その内容から光秀の苦悩が一層浮き彫りになった。

元親の正室が斎藤利三の妹ということもあり、
元親は良好な関係を信長と保つため光秀を頼っていた。

そして光秀の取りなしにより、
信長は元親の四国征服を容認してきた。

ところが本能寺の変の約1ヶ月前、
信長が突然四国制圧を決定し、
信長の三男・信孝率いる四国征討軍が派遣されることになった。

これにより、
元親から信頼されていた光秀のメンツは丸つぶれに。

新たに発見された手紙は元親が信長に屈服するというもの。



新発見、長曾我部元親の書状(2014.6.24 朝日)

本能寺の変が起きたのは、
四国征討軍の出港予定日。

つまり、
降伏の意志を示したにもかかわらず、
征討軍が組織されたということ。

光秀の胸には
「元親は屈服すると言ってきたのになぜ派兵するんだ」
という思いがあっただろう。

斎藤利三は
本能寺に斬り込んだ実行部隊を指揮。

結局、
信長の死によって出陣は取りやめになった。



http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic33.htmlより連載、転載