★†汚名上等!!天下の為なり!!†★《9》 | みらくる☆彡

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。。。つづき


●そして最後の戦いへ


6月3日、
遠方の武将達は信長の死を知らず、
柴田勝家はこの日も上杉方の魚津城(富山)を落としている。

夜になって、
毛利・小早川の元へ向かった使者が秀吉軍に捕まり密書を奪われ、
「本能寺の変」を秀吉が知ることになる。

翌日、
秀吉は信長の死を隠して毛利と和睦。

勝家もこれを知り上杉との戦いを停止して京を目指す。

5日、
光秀の次女と結婚していた信長の甥・信澄は自害に追い込まれた。

後継者争いの最初の被害者だ。

午後2時、俗に言う
「秀吉の中国大返し」が始まる
(秀吉は“変”から10日で全軍を京都に戻した)。

安土城に入った光秀は、
信長が貯めた金銀財宝を家臣達に分け与えた。

同日、興福寺から祝儀を受ける
(仏敵・信長を倒した御礼か)。

6日、
光秀は上杉に援軍を依頼。

7日、
朝廷から祝儀を受ける。

8日、京へ移動。

6月9日、
信長に反感を抱く諸将は多いはずなのに、
一向に援軍が現れず光秀は焦り始める。

どの武将も秀吉や勝家と戦いたくなかったし、
信長が魔王でも「主君殺し」を認めれば、
自分も部下に討たれることを容認するようなものだからだ。

光秀が最もショックだったのは細川父子の離反。

旧知の細川藤孝とガラシアの夫・忠興は、
当然自分に味方すると思っていたのが、
なんと藤孝は自分の髪を切って送ってきた。

細川家存続を選んで親友光秀を裏切った藤孝は
「自分に武士の資格はない」と、
頭を剃って出家したのだ
(以後、幽斎を名乗る)。

忠興はガラシアを辺境に幽閉した。

光秀は最後にもう一度細川父子に手紙を書いた

「貴殿が髪を切ったことは理解できる…。

この上はせめて家臣だけでも協力してほしい。

50日から100日で近国を平定し、
その後に私は引退するつもりだ」。

引退。

光秀は人々の上に君臨したいという
野望や征服欲の為に信長を討ったのではない。

娘ガラシアが後に隠れキリシタンとなった背景には、
このように夫と舅が実父を見捨てたことへの、
癒されぬ深い悲しみがあった。

10日(「変」から一週間)、
光秀が大和の守護に推した筒井順慶も恩に応えず、
彼は完全に孤立した。

11日、
京都南部の山崎で光秀・秀吉両軍の先遣隊が接触、 
小規模な戦闘が起きる。

12日、
秀吉の大軍の接近を察した光秀は、
京都・山崎の天王山に防衛線を張ろうとするが、
既に秀吉方に占領されていた。

※天王山は軍事拠点となったことから、
以降、
決戦の勝敗を決める分岐点を
「天王山」と呼ぶようになった。

13日、『山崎の戦い』。

秀吉の軍勢は四国討伐に向かっていた信孝の軍も加わり、
4万に膨れ上がった。

一方、
光秀は手勢の部隊に僅かに3千が増えただけの1万6千。

光秀は長岡京・勝竜寺城から出撃し、
午後4時に両軍が全面衝突。

明智軍の将兵は中央に陣する斎藤利三から足軽に至るまで
「光秀公の為なら死ねる」と強い結束力で結ばれており、
圧倒的な差にもかかわらず一進一退の凄絶な攻防戦を繰り広げた。

戦闘開始から3時間後の午後7時。

圧倒的な戦力差が徐々に明智軍を追い詰め、
最後は三方から包囲され壊滅した。

「我が隊は本当によくやってくれた」
光秀は撤退命令を出し、
再起を図るべく坂本城、
そして安土城を目指す。

堅牢な安土城にさえたどり着ければ、
勝機は残されていた。

“あの城で籠城戦に持ち込み戦が長期化すれば、
犬猿の仲の秀吉と勝家が抗争を始めて自滅し、
さらには上杉や毛利の援軍も駆けつけるだろう…大丈夫!まだまだ戦える!”。

しかし、天は光秀を見放した。

同日深夜、大雨。

小栗栖(おぐるす、京都・伏見区醍醐)の竹やぶを13騎で敗走していたところ、
落武者狩りをしていた土民(百姓)・中村長兵衛に竹槍で脇腹を刺されて落馬。

長兵衛はそのまま逃げた。

光秀は致命傷を負っており、
家臣に介錯を頼んで自害した。

享年54。

その場で2名が後を追って殉死。

14日朝、
村人が3人の遺骸を発見。

一体は明智の家紋(桔梗、ききょう)入りの豪華な鎧で、
頭部がないため付近を捜索、
土中に埋まった首級を発見したという。

安土城を預かっていた明智左馬助
(25歳、光秀の長女倫子の再婚相手、
明智姓に改姓)は、
山崎合戦の敗戦を知って坂本城に移動する。

秀吉は三井寺に陣形。

15日、
坂本城は秀吉の大軍に包囲される。

「我らもここまでか」左馬助や重臣は腹をくくり、
城に火をかける決心をする。

左馬助は
“国行の名刀”“吉光の脇差”
“虚堂の名筆(墨跡)”等を蒲団に包むと
秀吉軍に大声で呼びかけた。

「この道具は私の物ではなく天下の道具である!

燃やすわけにはいかぬ故、
渡したく思う!」と送り届けさせた。

「それでは、光秀公の下へ行きますぞ」

左馬助は光秀の妻煕子、
娘倫子を先に逝かせ、
城に火を放ち自刃した。

光秀の首はこの翌々日(17日)に
本能寺に晒され、
明智の謀反はここに終わった。


自分の家臣全員を大切にした光秀は、
戦死者の葬儀に当たって、
侍大将も下っ端の足軽も同額の葬儀費用を出している。

足軽だからといって、
命の値段に差をつけたりしないのだ。

光秀は無防備な信長を急襲したことから卑怯者と呼ばれ、
「主君殺し」と非難されることも少なくない。

雑誌の“好きな英雄ベスト”を見ても、
信長が1位になることは多々あれど、
光秀がベスト10に入ることは少ない
(32位というのも見たことがある…)。

しかし、
領国では税を低く抑えるなど善政を敷いて民衆から慕われ、
歌を詠み茶の湯を愛する風流人であり、
また生涯の大半の戦で勝利し自身も射撃の天才という、
文武両道の名将だった。

側室もなく妻一人を愛し、
敗将の命を救う為に奔走する心優しき男。

織田家だけでなく、朝廷からも、
幕府からも必要とされた大人物だった。

物静かで教養人の光秀は、
エネルギッシュで破天荒な性格の信長にとって、
退屈で面白くない男であったハズ。

それでも家臣団のトップとして重用するほど、
才覚に優れた英傑だったのだ。