★†汚名上等!!天下の為なり!!†★《2》 | みらくる☆彡

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。。。つづき




『信長の野望・オンライン』
智将・光秀ここに見参!


●夢を抱いて信長のもとへ~この男に賭ける!


足利義昭は幕府の復興を願っていたが、
朝倉義景には天下を取る器量も野心もなかったことから、
義昭は朝倉氏に見切りをつけて、
桶狭間の戦以来、
勢いに乗っている織田信長(33歳)を頼ることにした。

1567年、
義昭に見込まれた光秀は付き従う形で朝倉家を去り、
両者の仲介者として信長の家臣となる。

天下を狙う信長にとって足利家が手駒になるのはオイシイ話。

さっそく翌年(1568)に信長は義昭を奉じて上洛し、
14代義栄を追い出して15代将軍義昭を擁立した。

40歳の光秀は、
義昭の将軍就任を見届けて万感の思いだった。

光秀は朝倉家で「鉄砲撃ち」をしていた自分を重用してくれた義昭に深く感謝しており、
これで恩が返せたと思った。

こうして光秀は、
信長の家臣であり、
室町幕府の幕臣でもあるという、
実に特殊な環境に身を置くことになった。

光秀は荒くれ者が多い織田氏家臣団の中にあって、
和歌や茶の湯をよくした珍しい教養人。

京都に入った光秀は、
朝廷との交渉役となって信長を支え、
積極的に公家との連歌会にも参加して歌を詠んだ。

そして秀吉をはじめ重臣4人で京都奉行の政務に当たった。

注目すべきは、
まだ信長に仕えて2年目の光秀が、
織田家生え抜きの古参武将と同等の扱いを受けていること。

いかに信長が6歳年上の光秀のことを高く評価していたかが分かる。

しかし、
間もなく光秀が苦悩する事態に。

1570年(42歳)、
信長は義昭のことを最初から操り人形と思っていたので、
『書状を発する場合には信長の検閲・許可を得ること』
『天下のことは信長に任せよ』など脅迫的な書状を送り約束させる。

信長からの締め付けが強くなるにつれ、
義昭は影響力を排して自立したいと熱望するようになり、
諸大名に「上洛して信長をけん制せよ」と促した。

この呼びかけに応えて浅井・朝倉が挙兵し、
本願寺や延暦寺など宗教勢力も反信長勢に回る。

6月、『姉川の戦い』。

浅井・朝倉軍VS織田・徳川軍。両軍の死者は2500人を超え、
負傷者は数知れず。

この凄惨な戦いで姉川は水が真っ赤に染まったという。

光秀にとって朝倉義景は浪人時代に召抱えてくれた元主君。

それも、ほんの3年前の事だ。

非情な戦国の世とはいえ、辛い戦いだった
(救いだったのは、徳川軍が朝倉軍を担当し、自軍は浅井攻めになったこと)。

織田軍は激戦を制し、敵は敗走した。

※参考…この時点での有名武将の年齢は光秀42、信長36、秀吉34、家康28(若い)

1571年7月、
光秀は信長から滋賀郡を与えられ、
琵琶湖の湖畔に居城となる坂本城の築城を開始する
(信長は築城費に黄金千両を与える)。

これは織田家にとって大事件だった。

光秀は初めて自分の城を持っただけではない。

織田に来て僅か4年の彼が、
家臣団の中で初めて一国一城の武将となったのだ
(NO.2の秀吉でさえ長浜城を持つのは3年後)。
光秀の喜びは計り知れない
「織田に来て良かった…」。

坂本城は琵琶湖の水を引き入れた美城で、
宣教師ルイス・フロイスは後に
「信長の安土城の次に天下に知られた名城が明智の城だった」と絶賛している。


つづく。。。