大神神社
拝殿(重要文化財)
所在地 奈良県桜井市三輪1422
位置 北緯34度31分43.56秒
東経135度51分10.84秒
主祭神 大物主大神
神体 三輪山(神体山)
社格等 式内社(名神大)
大和国一宮
二十二社(中七社)
旧官幣大社
別表神社
創建 不詳(有史以前)
本殿の様式 なし
別名 三輪明神・三輪神社
札所等 神仏霊場巡拝の道21番(奈良8番)
例祭 4月9日

三輪山(神体山)と大鳥居

ニの鳥居
大神神社(おおみわじんじゃ)は、
奈良県桜井市三輪にある神社。
式内社(名神大社)、大和国一宮、
二十二社(中七社)の一社。
旧社格は官幣大社で、
現在は神社本庁の別表神社。
別称として「三輪明神」、
「三輪神社」とも呼ばれる。
概要
神武東征以前より纏向一帯に勢力を持った先住豪族である磯城彦が崇敬し、
代々族長によって磐座祭祀が営まれた日本最古の神社の一つで、
皇室の尊厳も篤く外戚を結んだことから神聖な信仰の場であったと考えられる。[1]
旧来は大神大物主神社と呼ばれた。[2]
近年、
大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の1つに数えられている。
平等寺、大御輪寺、浄願寺(尼寺)の三つの大きな神宮寺があったが、
現存する平等寺以外は明治時代の廃仏毀釈で廃絶した。
三輪山そのものを神体(神体山)としており、
本殿をもたず、
江戸時代に地元三輪薬師堂の松田氏を棟梁として建立された拝殿[3]から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。
拝殿奥にある三ツ鳥居は、
明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式のものである[4]。
例年11月14日に行われる醸造安全祈願祭(酒まつり)で拝殿に杉玉が吊るされる、
これが各地の造り酒屋へと伝わった。
摂社の檜原神社は天照大神をはじめて宮中の外に祀った「倭笠縫邑」の地であると伝えられ、
元伊勢の始まりの地となっている。
また、
作者不詳の能「三輪」ではキリ(終りの部分)の歌に
「思えば伊勢と三輪の神。
一体分身の御事。
いわくら(磐座・言わくら)や」の言葉があり、
伊勢神宮の元であることが伺える。
全国各地に大神神社・神神社(美和神社)が分祀されており、
既に『延喜式神名帳』(『延喜式』巻9・10の神名式)にも記述がある。
その分布は、
山陽道に沿って播磨(美作)・備前・備中・周防に多い。
吉備国を征服する時代孝霊天皇御代に分祀された[5]。
なお、
福岡県夜須郡大三輪村(現福岡県朝倉郡筑前町)の大神神社は、
最も古い神社の一つといわれ、
日本書紀に
「仲哀天皇9年庚午己卯、
神功皇后諸国に令して船舶を集めて、
兵甲を練らんとせし時、軍卒集い難し。
皇后曰く必ず神の心ならんとて、
大三輪社を立て、刀矛を奉りたまいしかば、
軍衆自ら聚る」とある。
祭神は大己貴命で、
氏子は、大神大明神(おんがさま)と呼ぶ。
祭神
主祭神
大物主大神 (おおものぬしのおおかみ、倭大物主櫛甕玉命)
配神
大己貴神 (おおなむちのかみ)
少彦名神 (すくなひこなのかみ)
大物主神は蛇神であると考えられ
水神または雷神としての性格を合わせ持ち
稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として特段篤い信仰を集めている。
また日本国の守護神(軍神)、氏族神(三輪氏の祖神)である一方で
祟りなす強力な神(霊異なる神)ともされている。
大物主神にまつわる伝承は多い[6]が、
その中には、
当社の付近にある箸墓古墳と関連するものもある[7]
歴史
伝承
記紀には、次の記述がある。
大国主神(大己貴神)は少彦名神とともに国造りをしていたが、
大国主が、
「お前は小さな神だな」と愚弄したために国造りなかばにして少彦名神は常世に帰ってしまった。
大国主神が
「この後どうやって一人で国造りをすれば良いのだ」と言うと、
海原を照らして神が出現した。
その神は大国主の幸魂奇魂(和魂)であり、
大和国の東の山の上に祀れば国作りに協力すると言った。
その神は御諸山(三輪山)に鎮座している大物主神である。
崇神天皇5年(紀元前93年)から疫病が流行り民が死亡し、
同6年(紀元前92年)には、
百姓流離し国に叛くものがあって、
憂慮した天皇は、
天照大神と倭大国魂神を祀るが安からず、
天照大神を豊鍬入姫命に託して笠縫邑に祀り倭大国魂神を渟名城入媛命に託して祀るが髪が抜け落ちてやせ細り祭祀が出来なくなった。
同7年(紀元前91年)2月、
巫女的な性格を持つ倭迹迹日百襲媛命に憑依してし、
大物主神を祀れば平らぐと神懸りし、
その後、天皇に大物主神が夢懸りして現れ、
その神託に従って同7年11月に物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)に命じ、
磯城彦後裔である三輪氏の祖である茅渟県(ちぬあがた)陶邑の意富多多泥古(大田田根子)を探し出して祭祀主として大物主神を祀らせた。
その結果、国内が鎮まり、
五穀豊穣して百姓が賑わった。
概史
国史には奉幣や神階の昇進など当社に関する記事が多数あり、
朝廷から厚く信仰されていたことがわかる。
貞観元年(859年)2月、
神階は最高位の正一位に達した。
また、『延喜式神名帳』には
「大和国城上郡 大神大物主神社 名神大 月次相嘗新嘗」と記載され、
名神大社に列している。
神階
六国史における神階奉叙の記録。
いずれも神名は「大神大物主神」と記される。
嘉祥3年(850年)10月7日、正三位 (『日本文徳天皇実録』)
仁寿2年(852年)12月14日、従二位 (『日本文徳天皇実録』)
貞観元年(859年)正月27日、従二位勲二等から従一位勲二等 (『日本三代実録』)
貞観元年(859年)2月、正一位勲二等 (『日本三代実録』)
* Wikipediaより一部抜粋、転載 *