。。。つづき

木造 蔵王権現立像
鎌倉時代 金峯山寺
蔵王権現を本尊として感得した小角は、
山を下り衆生を救うための活動を始める。
ある時、
箕面山に村人の子をさらっては食う夫婦の二鬼がいることを耳にする。
村人たちの話では、
もう何人もの子どもがさらわれ、
二鬼の仕業と分かっているがどうすることもできないのだと言う。
夫は赤眼、婦は黄口といい、
五つの鬼の子どもを生んでいた。
そこで小角は、鬼の住みかに行き、
二鬼が深く愛していた鬼彦という名の鬼の子を呪で岩屋に隠してしまった。
二鬼はたちまち驚いて、
必死になって鬼彦を探した。
しかし、いくら探しても居場所は分からなく、
小角のところに来て礼拝して言った。
「どうか小角尊者のご慈悲によって、わが子の居所を教えて下さい。」
小角は「それでは二度と村人の子を殺すな。必ず約束は守れ。」と厳しく命じた。
二鬼は頭を地にこすりつけ、
小角の言葉を心から聞き入れた。
すると、空から不動明王があらわれ
「我は悪魔を降伏させる。もし我の言葉にそむくと必ず害する。」と告げ、
鬼彦を二鬼に渡した。
二鬼は泣きながら「我らを済度して下さい。害心を反省し、師としてお仕えしたい。」と願った。
小角は二鬼の名を改め、
夫を前鬼、婦を後鬼とした。
この夫婦の鬼は、
小角に従い山の開拓のために尽くしたといわれる。
(役行者像は、この二鬼を伴う像が一般的である。)

前後鬼坐像
室町時代 金峯山寺
小角は庶民の生活を助けるため、
山に道を開いたり、
川に橋をかけたり、
堤防を築いたりした。
それまで、
国のためだけに土木作業をしてきた庶民たちにとって、
自分達の生活を考えはたらきかけをしてくれる小角はどれほど有難い存在であっただろうか。
人々は小角を慕い、
皆で協力し合い一生懸命に土木作業をおこなった。
葛城修行と大峯修行の両山を開いた小角は、
ある時、諸国の鬼神を集めると
「金峯山と葛城山との間にに橋を架け渡し、通行できるようにせよ」と命じた。
鬼神たちはさっそく石を運び橋をつくり始めたが、
葛城の一言主の大神は「わが顔形は醜いから、橋は夜の間につくりまする。」と言った。
小角は「昼でも遅いのに、まして夜だけとは許さん。速やかにつくって渡れるようにせよ。」と命じたのである。
しかし一言主神はいうことを聞かなかったため、小角は怒り、
一言主神を縛りあげると深い谷底に放置した。
一言主神は小角の呪力には勝てないので、
宮人にのり移り
「小角は天皇の位を傾けようとしている」と朝廷に密告したのである。
それを聞いた役人たちは小角を捕らえようとしたが、
空に飛びあがって消えてしまったり、
山に入るとその足のあまりの速さにどうしても捕らえることができなかった。
それゆえに、
小角の母を人質として捕らえ獄舎に入れてしまったのである。
それを知った小角は、母を救うため、
自ら役人の前に出ていき捕らえられるという道を選んだのである。
金峯山と葛城山の橋掛けは、
小角が弟子達に命じた修行ではないかともいわれている。
ここでは一言主神とされているが、
これはときの役人を示していると考えられる。
小角は多くの庶民から尊崇される存在であった。
権力者たちににとってはそれがねたましく、
また小角の優れた能力や、
山岳修行で得たといわれる薬草の知識を何とか盗み取ろうとする者があらわれるのである。
それを自分の出世のために役立てようと企み、
弟子入りする者も少なくない。
小角にとってそのような心はみなお見通しである。
不可能ともいえる厳しい修行を命じることで、
弟子達の本性はすぐにわかる。
金峯山と葛城山の橋掛けなど一生かかっても無理である。
こんなことをしていたら、
出世をする前に人生など終わってしまうではないか。
安易な考えで弟子入りした者は、
楽をしようと言い訳をし修行をさぼったり、
教えて欲しい知識をなかなか教えてくれないと逆恨みをするようになるのである。
そんな小角を、
権力を使い滅ぼそうと企んだのではないだろうか。
文武天皇3年(699年)5月、
小角と母は伊豆の大島に配流された。
小角は昼間は島にいて命令に従い、
母親に孝行をしていたが、
夜になると富士山に登り修行をした。
さらに、霊地を見つけると海の上を踏み渡り、
大空を飛んでその地に向かったといわれている。
そして、
夜が明けるとともに島に戻っているのである。
小角は配流先の地でも人々から篤い尊敬を得るようになり、
その評判はまたたく間に広まったことはいうまでもない。
これほどの能力を持つ小角なら、
大島から逃げ出ることも簡単であったかもしれない。
しかし、
小角は自分の置かれた状況から決して逃げるようなことはしない。
修行を欠かすことはなく、
そして常に、母への孝行、
弱者に対する優しさを忘れることのない人物である。

大島に配流されてから3年が経とうとしていた。
小角の評判の良さを耳にした一言主神は、
それをねたみふたたび
「小角をすみやかに死罪にせよ。」と告げるのである。
派遣された勅使は、
大島に到着すると小角を浜辺に引き出した。
刀を抜き小角に向ける。
その刃を振り上げようとしたときである、
小角は刀を左右の肩・面・背に三度触れさせ、
最後に舌で刀をねぶり
「さあ、早くわれを斬れ。」と言った。
小角の妙な行いを不思議に思った勅使が、
その刀を今一度よく見てみると、
何やら文字が浮かび上がっている。
紙に写しとると、
それは富士明神の表文であった。
勅使は大変に恐れおどろいて、
早速天皇に上奏し、
その裁下を待つことにした。
天皇は博士を召し出して表文を説明させると、
博士は
「天皇も謹んで敬い給うべし。小角は凡夫ではなく、まことに尊い大賢聖である。早く死刑を免じて都にお迎えし、敬い住まわせ給うべきお方である。」と言った。
天皇は早急に使者を島に送り、
小角の死刑を免じた。
故郷に戻った小角は、
母を鉢に載せ五色の雲に乗って天に昇ったと伝えられており、
大宝元年(701年)6月7日が、
役小角と母の白専女が冥界に旅立った日とされている。
また、一言主神は小角によって呪縛され、
今でもそれは解かれないままであるという。
つづく。。。