第二次世界大戦後 AMERICA・バブル到来 | アメリカ ヴィンテージ古着店 FUJIYAMA ブログ

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第二次世界大戦後 AMERICA・バブル到来

 

 

 

 

 

 

大日本帝国敗戦  玉音放送  マッカサー元帥 日本上陸 レイバンのティアドロップの

 

サングラスとパイプ姿で 東京を視察に 見まわった。

 

 

東京空襲で 焼野原になり 黒こげに なった日本の家や 建物。

 

無論 仙台も 空襲で 爆撃を受け 伊達政宗の歴史的建造物 青葉城も 消えた。

 

 

其のころ 自分の母親は 20歳そこそこで 戦時中の話を 聞くことも しばしありました。

 

 

その親も 東日本大震災で 亡くなり あれから 今年で 13年目であります。

 

 

よく 聞いたのが 「 サツマイモ 」であります。米が 入手が 難しいので

 

サツマイモを 細かくサイコロ状に 切り 米と混ぜて ごはんを炊くらしい

 

 

水を多く入れるので 炊きあがると 白菜のような菜っ葉類を入れて なるべく 多めに

 

 

 

見えるように お湯を足して おかゆのような 状態で 軽く塩を ふり 食べるらしい。

 

 

それも 1日 2食。 今でいう ホームレスの炊き出しより さらに貧しい生活。

 

 

毎日 空腹だったらしい。 なので 母親から サツマイモは 戦時中戦後を 思い出すので

 

 

当時積極的に サツマイモを 使ったオカズは 食卓に 並んだ記憶は ない。

 

 

 

 

 

 

戦後の日本は 貧しく 着る服 食べ物 住む家 何も ない。

 

 

あるのは 空爆から 逃れ 生き残った 命 だけである。

 

 

ある意味 大震災とも 似てるが あの頃は 支援物資が あったし なんとか

 

なった。 戦後は そうも 行かなかっただろう。

 

 

ゆえに 母親は 日本の子供の教育が 必要と考え 師範学校(宮城教育大学)に

 

行き 戦後 小学校の教職員となり 戦後の教育に 携わり オルガンを弾き

 

歌を歌い 運動会では 子供たちと一緒に 走り 毎日 大変忙しい日々が 続いたようです。

 

 

自分は 昭和37年生まれの 次男ですが 

 

戦後のことは 親から 聞いた 想像の世界でしか

 

ありませんので 具体的に どの辺まで 

 

大変だったのかは その当時は あまり わかりません。

 

というのは 我々の子供の頃は 昭和40年代は 

 

 

高度成長期で 1970年代突入時期であります。

 

つまり 日本の夜明けの始まりでもある時期です。

 

我々の年代は「ゴジラ 大魔神 ガメラ ウルトラマン・・・・・」 などなど。

 

 

小学校1~2年までは 木造の学校で 脱脂粉乳を飲んでた世代です。

 

 

 

話は 戻り そんな敗戦国 日本。 マッカーは まず 日本の武道を禁止に したそうだ。

 

 

 

日の丸精神の特攻隊の 人間魚雷(戦闘棺桶)や 神風 別れの水盃 

 

 

日本人は アメリカ人と比べれば 体格の違いは 歴然と劣っているが 武道で 培われた

 

 

精神力と気迫に 危険を 感じたという。

 

 

 

 

当時 相撲は 芸者遊びの 興行だったが 相撲が 戦後 国技に昇華されたのは

 

当時の親たちは 知っている。

 

戦後のどさくさに 土地 財閥 興行 など アメリカ文化を 真似て キャバレーや

 

飲み屋 飲食店など 徐々に 増えていき 

 

 

それらを 仕切る地元のヤ●ザ 用心棒代金など

 

 

戦後の負の文化も 出てきたのも この時期である。

 

 

学校教育にも 変化が 出てきた。 カタカナ 旧漢字の変更  國 → 国 など

 

給食も 米から パンに 多く変更 コッペパンなども この時期に 出てきたものと

 

推測される。 

 

 

 

 

 

 

 

昭和20年代 日本は 貧しかった。 長崎 広島 原子爆弾投下。

 

 

焼野原に なった 日本。 それが 現実であり それを 忘れては ならない。

 

 

だが!? 一方 アメリカは 日本と 真逆である。

 

 

 

1950年代の アメリカ !! 1950年代 若者に 

 

 

自由が 与えられた時代 ゴールデンエイジ。

 

 

第二次世界大戦に 日本に 勝利した アメリカは どんどん 世の中が 華やかに なっていった

 

 

ようである。 ライフスタイルは 派手になっていき 

 

 

人々は 宇宙に 憧れ 車や雑貨 インテリアなど

 

今までに ない ハイセンスなデザインのものが 数々誕生した。

 

其のころ 日本には その当時に アメリカ文化に 触れることが 出来ないくらい 貧困であり

 

明日の米を 確保するのが 大変な時代である。

 

 

1954年頃( 昭和29年 )までは 白人の カントリー 黒人のブルースは ハッキリ分かれて

 

いたが 1956年 (昭和 31年 ) カントリーミュージックとブルースも 混ざった

 

今までの アメリカ人も 聞いたことが ない ハチャメチャ音楽

 

ロックンロールの 幕開けが 始まった。

 

 

エルビスが 元祖であるが 日本人では 湯川れい子が その大きな影響を受け

 

ビートルズのジョンレノンも その一人である。

 

 

日本で ちょっと遅れて 昭和35年頃に ロカビリーブームが 起きてるが

 

それは あくまで 今でいう 歌謡曲ブームの1つに 過ぎない。

 

 

いわゆる 戦後の軟弱ナンパ野郎たちの ブームなので 大正生まれの当時の親たちから

 

見れば 日本を破壊する ハチャメチャ音楽である。

 

 

当時の 渡哲也も 当時 淡路島で 洋品店を 経営する 父親に 隠れて 購入した

 

ロカビリーの ドーナツ盤のレコードが 見つかり ハチャメチャに 破壊され ぶん殴れたと

 

自伝本に 記載さてありました。

 

 

戦後 昭和20年代の日本人 食べるのに 

 

 

必死で 靴磨き 畑から 持ってきた 白菜やら イモ

 

など 売り 生計を たてて いた時代。

 

おそらく 漁業も まだ そんなに できてない時代ですので 

 

 

河魚でも 釣って 食べてた時代

 

 

だと思います。 その時代に 20代だった親に 我々の年代は 

 

育てられているので 厳しい教育を受けました。

 

 

 

自分はと いうと 学校勉強以外に ドリルという 

 

参考書的 問題集なども やらされていました。

 

 

( 勉強 勉強 勉強 )世間的には 自分らは 勉強出来て 当たり前。

 

窮屈でもあり 自分の 宿命とも 思えた あの頃。

 

 

 

そういえば のちに 40年以上過ぎてから しるんですが

 

我々の年代 テキスタイル クールスの舘ひろしさんも 自分と同じ境遇だったとは 

 

知りませんでした。  クールス時代は 親に バレないように サングラスを

 

していて 妹に 見つかり 親に バレたと 何かの 本に書いてあった。

 

自分も まったく 同じであります。

 

 

 

 

 

 

 

高校時代は 家を出た 瞬間に ポマードを塗り クシで セットして 其処らへんで

 

リーゼントにして 皮の手提げカバンには 常に ブリキ缶の 柳屋グリースは 必需品です。

 

 

 

当時不良に 絡まれたら やられる前に  先に やっちまう。

 

 

逆に 痛い思いも 沢山 ありましたが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で・・・・何事もなく 家に帰るころは 横ワケにし オヤジが 帰る時間は 夜間高校の教師なので

 

夜10時30分ころなので それまで 風呂に 入り ママレモンで ポマードを落とすの

 

繰り返しです。 どうですか? 楽して ロックンロールやってた訳じゃないんですよ (笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ところが 今の時代は? どうでしょう!? 50代の親たちが こぞって

 

ロカビリーブームに 乗っけようと してる様子は 親が 楽しんで

 

子供らは そこまで 感じるものは ないような 気がします。

 

 

 

時代が 違うから それは しょがない感じですかね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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