藤原実方を訪ねて 宮城県多賀城市

 

 多賀城市陸奥国の国府があった所である。奈良時代724年に造られ、陸奥・出羽の両国の政治を監督する按察使(あぜち)が置かれた。東北各地に設置された城柵(じょうさく)の中心地として、東北北部の蝦夷を支配下に置くという任務の鎮守府もあった。しかし、869年に起きた貞観の大地震によって壊滅的な損害を被り、次第に衰退していったという。

(写真:国府多賀城模型)

 

 前九年の役が起こったのは1051年である。安倍一族が朝廷に盾突いて戦になり朝廷側が勝った出来事である。

藤原実方が陸奥守に任命されたのは995年であるので、まだまだ中央の権力が強かった時代であろう。国司館も存在していて、そこで政務を司っていたと思われる。実方は一条天皇から「歌枕見て参れ」と言われて陸奥守に赴任して、陸奥国各地を巡察しがてら、歌枕の地を訪れたのだろう。

西行が陸奥を旅する前に詠んだ歌

 陸奥の奥ゆかしくぞおもほゆる 

         壺の碑(いしぶみ)そとの浜風

は、実方が外ヶ浜(青森)に行ったとき詠んだ「ながめやる雲井の空はいかならむ今ぞ身にしむ外ヶ浜風」を思いながら詠んだのではないかと『美男貴族藤原実方と千歳山の謎』に書かせていただいたので、是非読んでいただきたい。

(写真:中に壺碑が入っている)

  多賀城の歌枕で有名なのは壺碑(つぼのいしぶみ)である。これは奈良時代天平宝字6年に多賀城修復したときのことが書かれている記念碑で、前半には平城京から多賀城までの距離が書かれているということだ。ずっと土の中に埋もれていたのを掘り起こしたので、現在まで奈良時代に掘られた字が読める状態で存在しているのだということである。

多賀城は塩釜や松島にも近いので、きっと実方も出かけて見物したに違いない。

(写真:歌枕 末の松山)

 東歌として『古今和歌集』に採られている

  君をおきてあだし心をわがもたば

             末の松山波もこえなむ

(あなたをさしおいてわたしがほかの人を思う心をもったら、あり得ないことだが、末の松山に波が越えてしまうだろう

清原元輔が詠んだ歌

契りきなかたみに袖をしぼりつつ

            末の松山なみこさじとは

(約束しましたよね。涙を流しながら。末の松山が浪を決してかぶることがないように二人の愛も変わらないと。それなのに…)

が有名である。元輔は実方の恋人清少納言の父親である。

 「波が越える」という発想は、一説によると、貞観の大地震による津波を連想しているのだということだ。