最近話題になっている市民運動や市民活動は、自助によって実現できるという自信を取り戻すための運動や活動なのだと思う。
行政が用意するニンジンや札束は、麻薬と同じだ。事ある度に目の前にニンジンや札束を見せられ、頓挫して消えていく、その繰り返しに慣れ過ぎて、自分で考え動くことを忘れて来た。
また、垂れ流しテレビの影響もあるのかもしれない。初めの頃、「一億人(精神の)総白痴化する」と言われていた。今では、(精神の)「白痴化」ではなく、それを考える感じる力も無くなって、「白痴化」ではなく、「白痴」になってしまったのかもしれない。
その挫折感に対して挑戦する人達が現れ始めた。どんな小さなことでも、自分たちの思いを自分たちで考え自分たちで実現していく。それが成功例として実際見ることができるようになった。ネットのおかげで具体的な内容がモデルとして共有化されつつある。
市民の「思い」は、より単純な方がいい。単純だから誰にでも分かりやすく伝わり、共有しやすい。言われた途端、読んだ途端、何がなんだか分からなくなるような文や言葉は危険だ。「思い」を共有できず、バラバラな方向へ議論が向い、議論倒れで終わる(失敗する)。
市民活動に、予算が下りた行政が相乗りした事業は、最初に戻って「初めの思い」を確認する必要がある。そうしないと、使い切り予算が消えた後に持続するのが難しくなる。規模と見た目が良くなっているし、金の心配が要らないから、それだけを見た人たちは「思い」を共有できていない可能性があるからだ。