わたしと彼は愛しあってはいませんでした。

恋人同士だった期間が

あったのかもわかりません。

 

わたしが彼に感じていたのは欲望でした。

あんなに激しい渇望は初めてでした。

彼も私に欲望を感じていたと思います。

 

愛というのは相手を包む感情だと思います。

私の感情はまっすぐに彼に向かっていました。

ずっと彼を求めるばかりでした。

彼の感情も私に向かっていたとは思いますが

お互いの矢印が

絡み合うことはありませんでした。

お互いがそれぞれ強い感情を向けていただけ。

お互いの感情が

融和することはありませんでした。

私は彼と理解しあえたとは

最後まで思えませんでした。

 

 

一度だけ

彼と心が通じたと思った瞬間があります。

彼の部屋で過ごしたときのことです。

 

彼と抱きあったあと

不意に、わたしと彼はキスをしました。

暗闇のなか

お互いに同時に身を寄せあいました。

あの一瞬をわたしは忘れることができません。

いちばん綺麗な瞬間でした。

 

 

私は彼が会ったことのない

種類の女性だったのだと思います。

彼が私にとってそうであったように。

 

彼は当時、身体面でも経済面でも

1人で暮らすのがぎりぎりでした。

彼は私を夫から奪う気はありませんでした。

彼はかつて奪われた側のひとでした。

 

彼の奥様だったひとは

3回不倫をし、4回目の不倫で彼と離婚をし

遠距離不倫の相手と再婚したそうです。

相手の男性は奥様のために転居と転職をして

今は彼の子どもと家族になり

大阪に住んでいると聞きました。

彼の奥様は男性に「奪いたい」と

思わせる種類の女性だったのでしょう。

 

彼も、そのあとの恋人も

私を夫から奪おうとはしませんでした。

私は男性が奪いたいタイプの女性では

おそらくありません。

私は「奪う」には

あまりにも重い属性を持っていました。

3人の子ども、鬱病の夫、

生きがいと言ってもいいかもしれない仕事。

私は「奪う」には

きちんとしすぎていたのかもしれません。

手折れる花という風情では

ありませんでした。

 

私の仕事は転職が難しい職種です。

不可能ではありませんが

ポスト自体がもともと少ないため

今と同待遇で勤務地を変更するには

それなりのコネクションが必要です。

そのときの私には

それがほぼありませんでした。

私には仕事を辞めるという選択肢は

ありません。

私が仕事を辞めるということは

アイデンティティを失うということです。

 

彼と一緒に暮らすことを夢見たことが

一度もなかったわけではありません。

でもそれは宝くじが当たったらいいな、と

考える程度の夢でした。

彼と抱きあうことは想像できても

彼と一緒にホームセンターに行ったり

彼のためにおうどんを茹でたりするところは

想像できませんでした。

 

子どもを手放す気はありませんでした。

彼と、私の子どもが一緒に暮らすことも

想像できませんでした。

彼と2人だけで暮らすことは

本当に夢物語でした。

 

 

あんなに狂おしく誰かを求めたのは

初めてでした。

嫉妬も、怒りも、

彼に会うまで知らなかった感情でした。

わたしは本当に世間知らずの奥さんでした。

 

彼と出会わなければよかったと

思っているのかどうかもわかりません。

彼に出会わなければ

私は夫と共依存の関係のまま

あの家に閉じ込められていたのでしょうか。

彼は私を共依存から

引きずり出してくれました。

随分な荒療治でしたが。

 

最初に彼に触れられたときから

長く続く恋でないことはわかっていました。

最初から終わりがある恋でした。

 

先の見えない関係が遊びであるならば

「きちんとする」つもりがない関係が

遊びであるならば

私と彼は遊びだったのかもしれません。

激しい、嵐のような遊びでした。