私の夫は優しい人でした。
家事にも協力的で
私の仕事にも理解がありました。
結婚前に私が仕事を続けたいと言ったときも
子どもが生まれたときも
私の仕事を応援してくれました。
でも、その「応援」にはどこか
不自然なところがあったように思います。
夫は無理をしていたように思います。
自分の本心を曲げているような。
彼は本当は自分が大黒柱になりたい人でした。
経済的にも精神的にも
「頼れるお父さん」でいたい人でした。
そうなれない負い目を感じて
「働く妻を応援する自分」を上書きして
自分自身をごまかしていたように思います。
夫が休職している間に
私は彼より高い年収を得るようになりました。
それから、彼は
自分の給料の話を一切しなくなりました。
私は彼を「いいひと」だと思っていました。
やがて、「悪意のない人」だと
思うようになりました。
私が彼と話し合いをすると、たいてい
「悪気はなかったんだよ」
という言葉で終わるようになりました。
彼は、悪気がないのなら仕方ない、と
考えているようでした。
それ以上何を話しても
「悪気はなかったんだから」と
言われるだけでした。
彼と離婚した後
私はカウンセリングに通いました。
私が彼のことを
「悪気はないひとでした」と話すと
カウンセラーの先生は
「悪気のないひとが一番タチが悪いのよ。」
とおっしゃいました。
悪意がなくて交通事故を起こしたら
無罪になるのでしょうか。
悪意がなくてミスをしたら
すべて見逃してもらえるのでしょうか。
どうして対人関係においてだけ
「悪気はなかった」ですべて通ると
彼は思っていたのでしょうか。
自分は職場や家族の些細な悪気のない言葉に
ひとつひとつ傷ついては落ち込んでいたのに。
彼は子どもが何かした時には
「頼むからお父さんを心配させないでくれよ」
と言っていました。
子どものために何かアドバイスするのではなく
自分が心配することを心配していました。
育児に必要な
子どもが自分で気づくまでそばで見守る、
待つつらさに耐えるということが
とうとうできないままでした。
彼はいつも自分中心でした。悪意なしに。
彼は彼で一生懸命でした。
家族がだんだん自分から離れていくのを
感じ取って必死になっていました。
必死に構ってもらおうとしていました。
愛していたはずの人が苦しんでいるのを見て
私も苦しかった。
でも、お互いの顔を見て
お互いの苦しみを思いやっているのではなく
バラバラの方向を向いて
2人とも別々に苦しんでいました。
それでも私はこれが夫婦なのだと、
家族なのだと
必死に思い込もうとしていました。
そうでないと
私の苦しみはなんだったんだろう。
夫が変わっていったのは
私のせいだとも思っていました。
彼に対して責任を感じていました。
彼を支えることに
そのつらさに意味を見出そうとしていました。
その考えが変わったのは
職場でのちょっとしたことです。
私の職場に出入りしている人の中に
変わった男性がいました。
ひどくとげとげしい物言いをし
ふとしたことで激昂することもありました。
私と同僚は
「あの方の奥様も大変ね」と囁きました。
その方のきついものの言い方は
その方自身のせいであり
奥様は共犯者ではなくむしろ被害者。
私はそう考えていました。
では、私の夫が変わってしまったのも
いつも自分が被害者になるやり方も
夫自身のせいではないか。
私に責任はないのではないか。
もしかしたら私は被害者なのかもしれない。
そんなことを考えるようになりました。