こんにちは、ふじしんです。前回は、「本は買って読もう」というおはなしをしてきました。今回は、習慣というよりも、考え方のおはなしをしていきます。
ではさっそく結論から言っていきます。
それは、
相手の存在を全否定・全肯定すること
です。
「全否定」をしている人は、どんなに紳士淑女のように見えていても、どれだけ親しい間柄の人であったとしても一緒にはいたくありません。「お前は、いらない」、「役立たず」、「出来損ないが」、「消えろ」、「お前には無理だ」。これらの言葉を平気で使う人からは、徹底的に離れるようにしています。
だからといって、わたし自身が当てはまってしまっていると思いますが、相手のすべてをなんでもかんでも「全肯定」すればいいのかというと、それも違います。
大切なのは、「基本は肯定する、ただし一部は否定」という考え方です。かんたんに言えば、「バランス」ですね。バランスはわたしが嫌いなことばのひとつです(笑)。バランスとるのはかんたんではありませんから。
むしろ、相手の持つどこかの特徴や考え方を「一部否定」することは、相手が犯罪や非人道的なことに手を染めてしまわないために必要であったりします。
「え、相手を一部でも否定してしまったら、それは相手を尊重していないことになるでしょ」、「やりたいことは、なんでも本人に一度やらせてみたらいいんじゃないの?」、「ミスをしてしまった相手を叱るなんて時代遅れ。今は個性の時代だよ」
しかし、わたしは今一度問いたいと思います。
本当に、相手のやりたいことや個性を「全て」尊重してしまっていいのでしょうか?
たとえそれが、犯罪だったとしても。
昨今、子どもや部下の育て方の本やSNSの投稿などで見かけますね。
「相手のことを否定しないようにしよう」、「相手の主体性を信じよう」、「やりたいことを思い切りやらせてあげよう」、「放任主義のほうがいい」など、色々ノウハウが掲載されています。それらはたいてい、「相手のやることを全力で応援しよう」というプラスの意味で言われているものでしょう。
ですが、これらは本当にすべてが正しいのでしょうか。
たとえば、相手のことをすべて肯定してしまった場合を考えてみましょう。幼い頃から大人にいたるまで、「自分がしようと思っていたことはなんでも肯定してくれた親」のもとで育った子どもはどうなるのか。もっと言うと、「好きなもの、欲しいものをなんでも貰える環境」にいた子どもはどうなるのか。
「きっと、やること全て親が応援してくれたから、自己肯定感がすごく高いんでしょ?」、「ポジティブで自信たっぷりで、成功しやすいんじゃない?」
たしかに、これらの意見は間違ってはいません。たしかに、親から応援されて育った子どもは、成長しても自己肯定感が高めで明るい人になるでしょう。
しかし問題は、家族から離れて独り立ちしたあと、彼らが失敗やミスをしてしまったとき、期待通りに物事が運ばなかったときにあります。
「なんでおれは叱られたんだ。でも、これは俺のせいじゃなくて、周囲が悪いんだ。だっておれは天才なんだから。失敗なんてしないもの」
と考え、反省せずにミスを周囲のせいにしてしまうかもしれません。
他にも、手に入れられるものがすぐに手に入らなかったとき
「なんでだ。なんで欲しいものが手に入らないんだ。おかしいだろ。だって、おれが欲しいと思ったものは、いままで簡単に手に入ったんだから。手に入れられないのはおかしい」
と考えてしまうこともあるでしょう。
つまり、あまりにやることなすことすべてを過剰なまでに肯定されて、いわゆる過保護な状態に育ってしまうと、「失敗を自分のせい」として反省しづらくなり、「欲しいものはなんでも手に入る」という考え方が染みついているため、謙虚さがなくおごった人になってしまうのです。
やや極端なはなしをしてきました。しかし、だからこそ、ときに、「ダメなものはダメ」とはっきり子どもや部下に伝える姿勢を必要とするのです。
わたしも気を付けなくてはいけませんが、なんでも肯定するばかりで、少しも否定をしていないと、将来相手を犯罪者や悪人にしてしまうこともあり得るのです。
基本的には相手を応援することをメインとしつつも、「やってはいけないこと」、「人生を棒に振る行い」、「犯罪」などと判断したら、叱り、全力で止めに入ることをする勇気を持たなくてはいけません。
わたしは、相手の評価や好意がなくなることを恐れず「ダメなものはダメ」とはっきり口にできる、「嫌われる勇気」を持ちたいと思います。
本日は、「相手を『全肯定・全否定』しないこと」をテーマにおはなししてきました。大切なことは、「相手が何か間違ったことをしようとしている、あるいはすでにしていると判断したら、嫌われるのを承知で止めに入ること」です。なんでもかんでも肯定・否定してしまうことは、将来相手を犯罪者や悪人にしかねません。だからこそ、わたしたちはときに、嫌われるのを承知で「ダメなものはダメ」と言える、「嫌われる勇気」を持つ必要がある、ということをはなしてきました。
わたし自身も、「嫌われる勇気」に関してはまだまだ修行するべきなため、今一度自身の行動を反省してみようと思います。
いつも最後まで読んでくださってありがとうございます。次回も、おたのしみに!!!