平成16年、日野町民の皆さんの応援を得て、

私は初めて町長になりました。

 

”町長になった” とか ”町長に当選した”

 

ということを、選挙では

 

”勝った!” といいます。

 

 

ですがあの当時

 

勝ったのは、私ではなく

 

日野の町を大切に思う

 

 

住民の皆さんの思い

 

 

だったと感じます。

 

 

 

大きな市町に頼ることなく

 

自分たちの力を信じてやっていきたい

 

住民の皆さん自身の思い。

 

 

 

大きな市との合併に反対し、

 

決めるなら、住民投票をしてほしいと、

 

住民投票を求める住民の声を聞かず、

 

 

 

「決めるのは町や議会だ!」

 

という封建的な雰囲気だった

 

当時の町や議会をひっくり返したのは

 

住民のチカラでした。

 

 

 

当時のことを少し振り返りましたので、

良かったらお付き合いください。

 

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地方分権一括法が成立し

「市町村合併の特例に関する法律」が改正され

国が「市町村の自主的な合併」を強引に進めたため

当時3200余りあった市町村が現在1700余りになりました。

 

「平成の合併」と呼ばれています。

 

滋賀県も8市42町村が13市6町になりました。

 

 

合併の推進に当たっては、

国や県が「小さな町村は財政的にやっていけない」と「脅し」、

合併すれば、財政的に有利な

合併特例債(地方債=借金)を活用し

建設事業が実施できると

「アメとムチ」の手法によって進められました。

 


日野町においても平成13年頃から

当時の八日市市、蒲生町、永源寺町、日野町の

「1市3町合併」を町と議会がすすめました。

 

日野町は、住民主導の公民館活動をはじめ

青年団活動、労働運動など

住民主体の運動が根付いる

自治の気風のある町であり、

こうした合併の動きに少なくない

町民の皆さんが疑問をもち、

 

「合併の是非は住民投票で決めよう」と

「合併の是非を問う住民投票条例の制定を求める直接請求」が行われました。

 

しかし、当時の町と議会が聞く耳を持たず、

強引に合併を進めようとしたため

町長リコール(解職)請求に発展しました。

 

それをうけ町長が辞職し選挙になりました。

 

住民運動にかかわっていたメンバーから推され

町長選挙に立候補し当選、

平成16年7月11日に町長に就任しました。


 

 

「平成の合併」が全国で強引に進められるなか、

住民の力で合併を白紙に戻した自治体は多くはありません。

 

 

「自分たちの町のことは自分たちで考え行動する」

という地方自治の本旨がしっかりといかされました。

 

こうして日野町として歩みを続けることができ、

今年3月、日野町制施行65周年を迎えることができることはありがたいことです。

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次回からは、さらに、当時の住民のチカラを

ふりかえってみたいと思います。

藤澤直広(ふじさわなおひろ)