論壇――告白する信仰をかたく守る(ヘブル4:14) | 日本人とキリスト教

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■ウェストミンスター小教理問答書を中心として

 今日は、いつものウェストミンスター小教理問答寸感を中断して、筆者が、先日、朝日新聞に投書して「没」になったものを載せることにしました。私達の内面的信仰が外面的形式と切っても切り離せないものだと云うことを考えてみたのです。

 

 エリザベス女王の伊勢神宮訪問の是非は別として、5月12日付(1976年)の朝日新聞の「伊勢神宮、一礼なさらず」との見出しに感じたことを一言。

 それは「拝む」ことの意味の重さである。天皇でさえ拝む、この神宮に対して、女王はそれをなさらなかったのである。日本人の感覚からすれば、釈然としないに相違ない。我々は神社に限らず何でも、簡単に「拝む」のである。我々は「拝む」対象が何であるかと言うことを重大に考えない。それ故「拝む」と言う行為が何を意味するかについても、ほとんど無感覚である。何かを拝んだ場合、その人が主観的にどう思おうと、それは、その「何か」に対して隷属する行為なのである。だから我々は、何に対して隷属するのかと言う、対象に関じて慎重でなくてはならない。何故なら、「隷属」と言う行為は人間である以上やたらにしてはならない行為だからだ。

 このような節度を我々は、どの宗教を信じるかは別として、持ちたいものである。この意味において「信教の自由」は、基本的人権の中でも最重要のものである。だからこそ、国家は宗教に干渉してはならない。そのような権利を国家は持ち得ないのである。

 日本国民或は天皇家に対するサービスとして女王は「礼」しても良いではないかと思う人も多いであろう。しかし、女王は「節度」を守られたのである。それによって、女王は自らの信仰を守っただけでなく、日本に「信教の自由」の手本を置きみやげとして残して行かれたのである。さすが「信仰の擁護者」であられる。