ウェストミンスター小教理問答 問11 | 日本人とキリスト教

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■ウェストミンスター小教理問答書を中心として

問11 神の摂理のわざとは何であるか。

 

答 神の摂理のわざとは、神の全被造物とそのすべての行動の、最もきよい、賢い、力強い保持と統治である。

 

 この摂理論は創造論とともに「有神論」を形作っている。既に問9において、創造論が、汎神論に対して持っている意味を見出した。そして問9の最後で、「神様の世界(人間も勿論含まれる)に対する関り」をこの問11が述べていると云った。つまり、神を世界の創造主と認めながらも、世界に対する関りを否定する「理神論」に対して、摂理論は意味を持っている。理神論とは、一般に次のように説明される。神様の創造した宇宙を「時計」になぞられるのである。神は時計を作って、ネジをまかれるが、あとは何もタッチしない。しかし、時計はゼンマイの力で独りで動いている。このように神様を創造主と認めておきながら、全被造物とそのすべての行動の「保持と統治」とを否定するのが、理神論である。これは17、8世紀のヨーロッパに顕著になった思想であるが、この性格を持ったものはそれだけではない。いわゆる「起因者」としての自然民族の高神や、中国古代の上帝観念、小乗仏教、エピクロス派などにその例がみられると云う。(1) つまり儒教の影響を強く受けている日本人にも、その思想はあるのである。福沢諭吉の「天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず」との有名な言にも理神論は現れている。それは「天」と云う表現である。これは哲学的な世界原因の概念に近い。(2) この創造主としての神は認めるが、その神が世界を支配しているとか、人を裁くと云うことを認めたがらない。人間の神に反逆している罪が、この理神論を形成していったものであろう。そこには人間が神から独立しようとする傲慢が顔をのぞかせている。

 


(1) cf. 宗教学事典「理神論」の項etc

(2) 福沢のこの名句はアメリカ独立宣言の翻訳であると言われている。キリスト教の神を儒教の天に置き換えたのである。