「八田與一技師のはなし」

 

 

烏山頭ダムを設計した八田興一氏という

人物について紹介しておきましょう。

八田與一氏は石川県金沢市出身、

東京帝国大学を卒業後、台湾に渡ります。

台湾総督府の土木課の技手として、

台湾各地における土木工事に参画しました。

 

       (イメージです)

1920年(大正9年)から烏山頭ダムの建設に着手し、

 

10年の歳月を費やして完成させます。

 

竣工時はアジア最大といわれ約1万6000キロメートルに及ぶ

 

水路「嘉南大圳」が台湾南部を沃野に変えました。

 

八田技師が用いたのは「セミ・ハイドロリックフィル」という工法でした。

これは日本初の試みであり、アメリカでも

大規模な工事には採用されていませんでした。

八田技師はアメリカに赴いてダムを視察し、

スチームショベルなど、大型土木機械の一式を買い付けたといいます。

この工法は、粘土や礫、砂などを用いていくもので、

ダム内に土砂という利点がありました。

竣工から約80年たった今でも烏山頭ダムは稼働し続けています。

 

 

烏山頭ダムの完成後、1942年に八田技士はフィリッピンの考査に赴きます。

不幸なことにその途上、乗船していた貨客船は、

アメリカ軍の魚雷攻撃に合い、沈没。

尊い命が失われました。

 

そして、妻の外代樹夫人も1945年にの後を追って放水路に、

身を投じてしまいました。

 

現在、烏山頭ダムを見下ろせる高台に八田技士の銅像が置かれ、

外代樹夫人とともに永い眠りについています。

 

「八田技師は台湾の土木建設に一生をささげた人物です。」

 

 

鳥山頭ダムのほかにも、台北の上下水道の整備や

 

高雄港の造営、

 

桃園台地の灌漑

 

台南水道の敷設など各地に功績を残しています。

 

大正時代にこんなすごい人が100年以上前に活躍していたんです。

 

八田技師は台湾の人々に深く慕われたといわれ、

 

戦後の一時期、村民たちは銅像を守るため、

 

倉庫へ隠したというエピソードもあります。

 

毎年、台湾で、八田技師の命日である5月8日には慰霊祭が行われています。

 

2011年には八田夫妻が暮らしていた官舎が復元され、工事が進められています。

 

日本政府が台湾に行ってといったのではないそうです。民間人として台湾のために

 

困っている人のために命懸けで働きます。烏山頭ダムの建設が、干ばつで荒れた台湾南部の広大な土地に

 

水路を引き緑の大地にし、人々にたくさんの幸せを運びます。そのことは特筆することでしょうが、

 

伝記を読むと、ダム建設にかかわった日本人、台湾の人々に差別なく同賃金ではたらいてもらった。

 

そして自らも一緒に働き、くじけそうなとき、追い詰められた時、

 

台湾の人のために命懸けで力を発揮していくのです。難局を乗り切るんです。

 

差別のない、慈愛に満ちた、自分の能力を全身全霊で仕事に打ち込む。

 

1919年ごろは世界情勢も不安定でいろいろなことがありました。

 

でも八田先生は台湾を愛し、自分の故郷のように活躍していたんです。

 

官僚でなく民間人がそこまで頑張ったことを、みなさんは多くを知らない。

 

小学校、中学校の教科書や副読本に、道徳や国語で扱ってほしい。広く乗せ伝えてほしい。

 

日本に災害が発生したときに、莫大な義援金を台湾の人々送ってくれるのも、

 

日本と台湾の深いつながりがあるのも一因していると思います。

 

台湾だけではないのですが多くの義援金を送って日本を助けてけれる、海外の

 

国や多くの人々に大感謝申し上げます。

 

また、お正月に起きた、石川県を中心に起きた大地震、

 

大津波、土砂崩れ

 

何度もの地震で

 

家が潰れ、流され、

 

たくさんの方々が亡くなり負傷し

 

生活のライフラインが復旧せず避難、また2時避難を余儀なくされている

 

多くの方々、深くお見舞い申し上げます。

 

良い言葉が見つかりませんが、すべての人へ「ご自愛ください。」

 

みんなで一緒に、「前」向いていきましょう。

 

「明日は我が身。」「おたがいさまです。」

 

何ができるのか、今何ができないのかを

 

少しずつ考えていきましょう。