去年の春は・・・幼稚園生から小学生になり
周りの人達も建物もバスも時間もすべてが変わることに親子共々うまく順応できるかドキドキでしたが、
あうたんは立派に一年生をやり遂げて頼もしい二年生になりました
先生方にも恵まれ、学校が自分の居場所として楽しく過ごせているようです。
先日も参観日があってパパとばぁばと三人で行ったんですが、まぁあうたんが喋る喋る(笑)
あうたんはコミュニケーション的な言葉はなかなかみんなみたいには喋れないので、エコラリアって言われるような決まったフレーズとかをよく口にするのですが、
自分がみんなみたいに話せないということを知っているし理解しているので、例えばイオンとか外ではほとんど口を開きません。
一方、お家ではずっと
「○○先生と一緒に自立活動!」
「はっ!何の音?耳を澄ませば聴こえてくる!」
※授業で習った言葉だと思います。
何か音がするたびにこのフレーズを活用しています。定型文的でナチュラルな言葉でなくてもちゃんと何か音がした時のシーンに合わせて使えてるので凄い
「どんちゃんかっちゃんカレクッタドンディー!」※太鼓の達人のキャラクター
などのフレーズなんかをずっと言ってます
これはきっと、長い言葉を覚えて言えるようになると、みんなみたいにぺらぺら喋れてる感覚になるから好きなんだと思います。
だからエコラリアは話せない子の楽しみであり大切なものなので、言えたら「おしゃべり上手になったね!」と褒めると言語力伸びるんでねぇかしらと思います。
一方でこういうのを普通はみんな言わないとかってよくよくわかってるからあうたんは外では黙るんだろうと思います。
自分を出しにくいっていうか
でも、学校では家に居る時みたいにひたすらお喋りして楽しそうにしてて、すごく先生たちに懐いていました。(4月に先生たち結構変わったのにもう懐いてた!)
それはどの先生でも同じだったので、学校自体がもうなんてゆーかあうたんを肯定して温かく育ててくれてる証拠だと感じました。
あうたんの学校での一日は、朝スクールバスを降りて、靴を自分で脱いで上履きに履き替える練習で20分くらい使ったり、
教室に移動してランドセルから自分で荷物を出して支度をする練習だとか、給食の用意の練習とか、トイレも脱いだり手を洗ったり全てが練習で、
時間ごとの担当の先生とマンツーマンで日常のすべてをトレーニングとしてしっかりみてくれています。
じゃあ好きに遊んで、といって遊んだりできることはないので、遊ぶための練習をする授業もあります。
だるまさんが転んだをやる練習とか(止まるんだとか体幹とかルールやその遊びの楽しさを理解したり)、遊具での遊び方とか。
今は畑の活動に取り組んでいて、土を触る練習や、苗を買うのにバスに乗る練習などもしています。
先日の参観日では、この畑の授業と、国語と、図書室で読み聞かせの授業を参観させてもらいました。
国語は、クレヨンで点つなぎとか、ひらがなを書く練習
畑では、スコップの練習をしたり苗植え体験
図書室では、絵本にちなんだ道具がたくさん横に用意してありました。
例えば、絵本に「蓋」が出てきたら、そこでカンを渡して「これが「蓋」、ふたをする」とか言いながら実際にやらせて動作と言葉を紐づけながらインプットしていたり、
本当に工夫してくれてるなぁって思いました。
こんな風に先生たちと学校で楽しそうに笑顔に自信たっぷりに過ごしている様子を見ると嬉しくなりました。
一年生の4月ごろはやっぱり急に全てが変わり情緒が荒れて、帰りの自転車で怒ってきたり、帰ってきてから二時間くらい癇癪を起こすことが続いた週もありましたが、
あうたんは何も理由なしに暴れたりはしないし、学校で物凄く一生懸命頑張っているからこその、この爆発的なエネルギーなんだろうと思いました。
この爆発の量⁼必死で頑張っている量だと思いました。
でもこのストレス発散の仕方をすると親も子も疲弊するし、どちらにも良くないし、
やってしまったあと、あうたんはそんな自分を責めるだろうと思い、なんとかせねばと悶々と考えていました。
親が自分のことで泣いたり困ったりする様子をみた自閉症児はその目に傷つき深く動揺しそれが余計に他害に出たりするのではないかと思ったので、
まずは動じないようジタバタしないよう同じ土俵にあがらないよう心の鍛錬も必要でした。
その時に有効だったのは、自閉症児の目線で考えることでした。
自分が他害を受けている被害者だという感覚を持って接すると見えないものがあって、
そのため、自分が被害者であるという感覚を一切持たない、目の奥の怯えを読み取られないように徹底しました。
痛い!と傷ついた様子を見せたり泣いたり被害者であるというリアクションは、
障がいの子が生まれて自分はこんなに叩かれてあなたが自閉症であるせいであなたが生まれて私の人生は・・というような子どもにとって一番辛い打撃を与えると思ったからです。
よく聞く、親が泣くと余計に癇癪が酷くなるというような、泣いてる親を余計に攻撃してくる自閉症児の心理の痛々しさがわかるような気がしたからです。
みんなと同じように振舞えたら、みんなと同じように生きられたら・・・本人が一番深く抱え込んでいるものだと思うからです。
それができないから苦しくて悲しくて暴れて、困らせたいわけじゃないのにそう動くしかなくて、やり方もわからなくて。
一番側で応援して受け止めて欲しい人から恐れの眼を向けられたら…と思うと、今親としてやるべきことはあうたんに困ったり怯えることではないと覚悟を決めました。
苦しい時は逆に、大好きとか、生まれてきてくれてありがとうとか、あうたんが生まれたことでどんなにママが変われたかをお話したりして、
あうたんは駄目な子じゃないと言いきかせました。いいところをいっぱい見つけました。生まれて来たことを肯定しました。
あと、こうしなきゃいけない、、こうじゃないといけない、をすっぱり止めました。
一年生になったんだからちゃんとさせないといけないのかなとか、自転車の後ろでスマホさせるなんて教育上良くないとか、固定観念みたいなものをすっぱり捨てて、
自転車の後ろで暴れられるのは危険だからスマホを渡すとか、帰ってきたら靴を脱ぐ練習とかさせないで親が脱がしてやるとか、
奔放、好き放題にしてみました。
自分はどうだったかなって思い出すと、例えば修学旅行だとか部活の遠征だとか、家から遠出をしたり少し冒険のような旅を終え家に帰ると、いつもそんなことしないのに、
少し親に横暴になってみたくなる感覚があったように思います。
偉そうにバッグを放り投げたり、こんなに外で頑張ってきた自分やから偉いんやぞ、ねぎらえぃみたいな(笑)
環境が変わり本当に疲れて帰ってきたときに、家でまで管理されたり命令されたり訓練されたりして、一年生なんだからとかしっかりしなさいとか、
学校でうまくできたのかとか、あんたのためと言われたら爆発しそう。
とにかく家に帰ったら安心できる、やっと自由だ~って感じたいし好きなことしてたい。
テレビも好きなだけ見たいし寝転がってスマホしたり、おもちゃで遊んだり。
なので、とにかく癒しとかリラックスとかを最優先しました。
学校で頑張ってしんどくても帰ったら自由だ、リラックスして好きなことしてチャージできるんだ。とインプットされたからか、慣れて来たのか、
あれだけ爆発的だった癇癪は鎮静してなくなりました。
心をチャージするのでまた次の日も頑張れるという感じなのか、行き渋りは一度もなく、一年生はなんと皆勤賞でした。
あとは、とにかくヨシヨシしました。
何かあっても否定しないでヨシヨシしてくれる人がいるからってゆう心の安心もあったかもしれません。
それに学校の先生たちの温かいサポートがかなり大きく、あうたんは悔いのないくらい立派に一年生をやり遂げました
算数とか国語や勉強ができなくても、あうたんの精神力はこの一年でものすごく強くなっていて、十分なことだと思います。
あと気をつけたことは、手が出たりしたときは、しっかり叱りました。
障がい者だからあの子にはわからん、ゆうても仕方ないって、それでいいんか?
近づいたら怖いって、本当の自分を見て貰えず人が去って行ってそれでいいんか?
どんな理由でも、障がい者だろうと、暴力だけはいかん。
今はまだ7歳やから子どもやし感情のコントロールが難しいのはわかってる。
言葉も話せないから溜め込んで爆発してしまうのもよくわかる。
でも、あうたんなら大人になるまでに絶対にできるようになる力があるって信じてるし、ママが一緒に頑張るし、絶対に見放さへんし、
だから、叩くのはあかんてわかるな?
みたいな感じで
癇癪が落ち着いたあとにまたその話をすると感情を蒸し返してしまいそうでそっとしておきたい所ですが、
言わないとあかんことは言わないとあかん、向き合わないと、と思って
落ち着いたあとに、あのな、さっきのことやけどさ、とこんな難しいことを7歳の重度知的障がいで自閉症の子に・・って感じもしますがわかると信じて話していました。
人に言う事をきかせようとするときも、暴力は駄目、言葉で伝えるように教えています。
叩いて無理やり言うこときかせてそれであんた楽しいか?
それってそこに愛も信頼もなんもないんやで?
そうやって暴れていうこときかせる方法してたら、周りのひとはあうたんが恐いから、痛いからいうこと聞いてくれてるだけで
あうたんの事が好きやから、してあげたいなってしてくれてるのと違うんやで
これからさき人とそんな関係で嬉しいか?楽しいか?
こういう時は、無理やりじゃなくて言葉を使うんや、あうたんも絶対に言葉で伝えられるようになるから、一緒に練習したらいいしな、投げやりになったらあかんで、自分で自分のことをどうせできひんなんて思うなよ?
まんま、こんな感じです。
テレビのリモコンも、
ママが消すんと自分でおしまいすんのどっちが気持ちいい?
人に無理やり消されるのより、自分で決めて自分でキリつけたほうが気持ちいいと思うけどな~
どうする?ママ消す?自分?
と、なるべく自分で考えて、強制・矯正・強要しないやり方を目指してやり方を考えながら模索しているところです。
子どもにもわかる簡単な言葉とゆうわけでもなく、クソ真面目に真剣に語ってしまいますが、それでも、あうたんは腑におちたときは「オッケー」と呟きます。
やり方も効果も性格も症状も人それぞれだから、あうたんと自分に合ったやり方や自分たちにしっくりくる考え方をできたらいいなと思います。
癇癪も叩いたりも去年の4月以降全然なくなって、リモコンも10回に9回は自分で消すようになり、
帰ってきてから靴を脱ぐ練習をさせようとしても全く怒らなくなったし、
いろんな分野でかなり聞き分けもよく、本当に頼もしいです。
はたから見たら行儀のしつけとかはあんまできてない家庭に見えるかもだけど
人としてほんまにやったらあかんこととか、生きる力とか肯定感とかそうゆう幹となる部分をまず重視かなぁって感じです(^_^;)
まだまだ子どもなので予想外のことに戸惑って唸ったり、欲求が勝って我慢がきかなかったり、ウガーって駄々をこねることで通そうとしてきたり、そうゆうシーンはもちろんあるので(大人ですらあるからな 笑)
そうなったらまた交渉したり話し合いながら引き続き見守っていこうと思います。
ちなみに、一方的に話してる感覚より、自分的にはあうたんと話し合っている感覚です。
あうたんが喋れなくても、目が泳いでいても、ぴょんぴょん跳ねたり手をひらひらしたりなんもわかってなさそうでも、
ちゃんと聞いて心で考えているのがわかるし、腑に落ちたり納得したことはなるべく次から気をつけてくれるし、うっかり忘れても都度話して少しづつ理解したり、
とにかく、自閉症でも知的障がいでも、みんな心があってって教えてくれるあうたんが私自身の生きる指針を固める手助けをしてくれるってゆうか、頼りになるってゆうかそんな感じです(笑)