ボロディンの交響曲?知らない。聴いた事ない。
という団員が多い中、ホルンのMさんが、“選曲アンケート”に何回も何回も希望を出して、ついに演奏することになりました。3楽章のソロ楽しみです!
ロシアの大地を思わせる広大な感じあり、何となく中華風な歌あり、「大草原の小さな家」を思わせるメロディあり、映画の宣伝に出てくるような大音量のユニゾンありの、知らなくても親しみやすい曲です。
ボロディンは1833年、ロシア帝国のサンクトペテルブルクに生まれました。夫のいる女性との子であったため、父のゲデヴァニシヴィリはボロディンの戸籍登録を行わず、農奴であったポリフィリ・ボロディンに息子を預けます。
それでもボロディンは苦労することなく育ち、幼い頃からピアノやフルート、チェロなどを楽しむ少年でした。また、音楽と同じく化学にも強い関心を抱き、後年化学の分野でも大きな功績を残すことになります。
頭脳明晰だったボロディンはサンクトペテルブルクの医学部へ進学し、最優秀の成績を収めます。医学部を卒業後は陸軍の病院へ勤めます。26歳でドイツのハイデルベルク大学に入学し、元素周期表で有名なメンデレーエフに師事しさらに学問を続けます。この頃に、のちに「ロシア5人組」として合流するムソルグスキーに出会っていました。
化学者として「アルドール反応」を発見し偉大な功績を残したボロディンは、音楽でもその才能を発揮します。1863年、作曲家バラキレフと出会い本格的に作曲を学び始め、1869年に「交響曲第1番」を発表し音楽家デビューします。そしてバラキレフの紹介で出会ったのが、キュイ、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフであり、これにボロディンを含めた「ロシアの5人組」が結成されます。
交響曲第2番は第1番が初演された直後に着手しますが、いつものごとく時間を要し、最終的に完成したのは1876年でした。初演は成功とは言えなかったが、リムスキー=コルサコフやリストが行ったその後の演奏は成功し、ボロディンの名声は国際的に広まりつつありました。
晩年のボロディンは、その活動のほとんどを学業に費やしていました。それによりムソルグスキーからは「日曜音楽家」などと揶揄されていましたが、ロシアの化学界に対するボロディンの貢献はとても大きなものでした。なかでもボロディンは、医科大学に女子の産科過程を作ることに尽力し、これは当時のロシアにとっては画期的な制度だと言われています。
こうした本業での忙しさもあったため、代表作「イーゴリ公」は未完成のままとなりましたが、「5人組」のメンバーであるリムスキー・コルサコフとその弟子のグラズノフによって後年完成されています。1887年、謝肉祭の期間中、ボロディンは友人たちとパーティーを楽しんでいましたが、突然青ざめ、その場に倒れこんでしまいます。死因は動脈瘤の破裂でした。53歳で亡くなったボロディンは、アレクサンドル・ネフスキー修道院のチフヴィン墓地で「5人組」の仲間とともに静かに眠っています。
