《フランツ•シューベルト 1797~1828  オーストリア》


わずか31年の生涯で、1000曲もの作品を書いたシューベルト。うち600曲はドイツ歌曲で、

歌曲王と呼ばれていますが、交響曲も14曲(未完のものが6曲)書いています。


第7(8)番めの交響曲が、何故未完成に終わったかは、いろいろな推論があります。


・最初の2楽章までがあまりに美しく、まとまりがあったので、書きかけたスケルツォが先行楽章ほどの質の高さを持っていないことに気づき断念した。(ハンス・ガルの仮説)


• 第1、第2楽章ともに、3拍子で、次の3楽章も同じ3拍子に、困難を感じた。


・当時、多くの曲を書き、未完成のままにしている作品も多いフランツにとって、この曲も多くのうちの一つ。そのうちに書こうと思っているうちにそのままになってしまった。


・スケルツォのトリオ主題が、ベートーヴェンの交響曲第2番のそれに酷似していることに気づき、中断した。(マーティン・チューシッドの仮説)


・この曲に着手したころ悩まされ始めた難病を思い出させるので、この曲に嫌悪感を抱くようになった。(チャールズ・オズボーンの仮説)


・当時「H管」の金管が存在しなかったため、「ロ短調」の交響曲の完成が困難であることに気づき、作曲の継続を放棄した。(ブライアン・ニューボールドの仮説)


・より高い収入につながりそうだったピアノ曲「さすらい人幻想曲」を書きあげるためにこの曲の完成を放棄した。


いずれにせよ、1823年に、グラーツの町の音楽協会会員に推薦された返礼に、2楽章を送りましたが、舞台で初演されたのは、43年後だったのです。