昨日はNHKドラマ『サギデカ』、見てくれた方ありがとうございました!
今までやっていなかった世界に飛び込み、緊張の連続ですが、こういったチャンスを与えてくれていることに、本当に心から感謝いたします!
さて、昨日で8月が終わり、今日から9月。
明日は僕のファンクラブの発足とともに、このブログへの投稿もおしまいということになります。
今までこのブログを見てくださっていた方々への感謝を、、、の前に、どうしてもお伝えしておきたい思いを書かせていただき、皆さんへの感謝はまた改めて、別の投稿をさせていただきますね。
今日は、先日8月16日に亡くなった僕の長年のパートナーでありベーシストの谷源昌氏についてお話をさせていただきます。
谷さんと出会ったのは2002年春。
「真夏の全国行脚」という全国路上ライブツアーに向けての物販CDのレコーディングに、ベーシストとして谷さんが参加してくれたのがきっかけだった。
ただ、僕はその後ツアー中にバイク事故を起こして活動自粛に入るなど、当時は関係各位に多大なご迷惑をおかけしてしまった。。。
そんなこともあり、その後数年は谷さんとご一緒させていただくことはありませんでした。
再会したのは(たぶん)2006年頃。
ドラマーの岡和博氏に「誰か良いベーシストいないだろうか」と相談した際に「いる」とのこと。
それがなんとなんと谷さんだった!
僕はお会いするやいなや「その節は大変ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」と謝る始末。
僕にとってはなんとも情けない再会となってしまった。
しかし、その再会が僕にとって大きな大きな転機となる。
その時はまさか今後の音楽制作の中枢を担っていただくことになるとは思っていなかった。
谷さんとの久しぶりのレコーディングは、2008年にリリースしたTreasure Island内に収録されているWonderlandだった。
このTreasure Islandは、僕自身が個人レーベル名義で出した初のインディーズ版で、僕自身が予算管理からプレスの手配までの全てを行なっていた。
そして、初めての試みということもあり、予算をかけることができなかった。
そんなある日、僕の自宅作業スペースにて谷さんと別件の打ち合わせをしていた際に、Wonderlandを聴いてもらった。
ちなみに余談だが、Wonderlandはとある自動車のテレビCMコンペに提出するために作った楽曲だった(落ちたけど笑)。
「この曲、ベースは生で入れないの?」
谷さんの口からポロっとそんな言葉がこぼれる。
疾走感と爽快さを意識して作ったWonderlandという楽曲には、生ベースの躍動感は僕自身喉から手が出るほど欲していた。
しかし、本当に本当に予算がなかった当時、追加で谷さんにお支払いできるギャラは残っていなかった。。
「おっしゃる通りなんですが、もう予算が残ってないんです」
僕は正直にそう伝えた。
すると谷さんは、「この曲すごく好きだなー。これ僕に弾かせてくれないかな? ギャラはいらないから。単純に僕がこの曲に関わりたいんだよね」と。
本来ならば、プロのミュージシャンにノーギャラで演奏してもらうということには大きな抵抗感があった。
しかし、そう言ってくれた気持ちが嬉しく、僕はその提案に甘えさせてもらうことにした。
結果として、あの楽曲の魅力は大きく大きく飛躍し、今でも僕のライブの定番曲となっていることは言わずもがなである。
そんなことがあり、このWonderland以降、谷さん以外のベーシストが僕のレコーディングにおいてベースを弾いたことは一度もない。
それは別に恩返しのつもりでも、気を遣ったりしたわけでもなく、あの時のWonderlandのベースプレイに、僕自身が完全に魅了されてしまったからである。
さらに、プロデュースにおいても、シングル「朝靄」以降にリリースされたCDは全て谷さんと僕の共同プロデュースで制作していくこととなる。
また、2007年頃からはライブのバンドマスターも谷さんが担ってくれ、ピアノのフーミンさんをはじめとする多くの素晴らしいミュージシャンを紹介してくださり、藤岡バンドの今のスタイルが確立されていった。
そういえば、僕はよく人から「どこで音楽を学んだんですか?」と聞かれることがある。
その度に「どこでも学んでません」と答える。
「譜面はどこで勉強したんですか?」
「独学です」と。
しかし、実は独学でありながら独学ではない。
もちろん、学校に通ったわけではなく、現場叩き上げであることには間違いないのだが、僕が24歳頃に書いていた譜面はどこもかしこもデタラメばかりで、♯や♭は音符の後ろに付けてしまっていたし、ポップスの譜面でよく見かけるダルセーニョやダカーポ、コーダなどといった記号の書き方もまたデタラメばかりだった。
それらをひとつひとつ現場で訂正し、丁寧に教えてくれたのは谷源昌その人であった。
そういった意味でも、今日の僕がいるのは谷さん無くしては有り得ないのだとしみじみ実感するのである。
近年の僕のライブで音響のプランニングを行なってくれている軍司丈仁氏曰く、「藤岡正明の現場は酒が飲めないと務まらない」らしい(笑)
もちろんそんなことはないのだが、たしかに僕らは毎度毎度ライブが終わると浴びるように酒を飲む。
リハーサルスタジオの手配よりも先に打ち上げ会場の予約をするほど、強い熱意で打ち上げを勝ち取っているのである。
そして何を隠そう、その打ち上げにおいていつも中心には谷源昌がいた。
バンマスとして乾杯の音頭を取ってもらうこともしばしばなのだが、乾杯の段階ですでに谷さんは大概酔い始めているのである(笑)
なので近年は谷さんには締めの挨拶をしてもらうようにしていた。
(もちろんその頃にはべろべろに酔っぱらっているのだが、それを皆で冷やかしたりするのが楽しくて、恒例のようになっていった。そしてそんな谷さんの言葉を上手いこと拾ったりフォローしたりするのは決まってフーミンさんなのである。先日、8月の頭に行なった音時の打ち上げでも、谷さんは皆とともに盛大に盛り上がり、やはりベロベロだった(笑) 帰り際には「え、もう帰るのー? もっと飲もうよー」と話していた。ちなみに翌日谷さんから来たメールには「昨日いつどうやって帰ったのか覚えていない」とのことだった 笑。本当に毎度大いに笑い、大いに語り合った)
ある日、ドラムの岡さんと谷さんと僕でツアーを回っていた。
名古屋公演の後、その日のうちに翌日の大阪公演のために車で移動するといった行程。
名古屋ライブのMCの際に、ステージ上で三人でジャンケンをした。
「負けた人が大阪まで運転をする。勝った二人は後部座席で酒が飲める」というわけだ。
ジャンケンポン!
負けたのは谷さんであった。
お客さんがいるにもかかわらず、本当に心から悔しそうな谷さん。
その後のプレイ中もなんだか悔しそう。
そうこうしているうちに、ライブは大盛況で終演。
楽器を車に積み込み、さあ大阪に向けて出発という時に岡さんが「谷さん、いいっすよ。オレが運転しますから。後ろで飲んでください」。
なんとも優しいお言葉である。
その言葉に谷さんは0.5秒ほどで「いいの!? やったー! ありがとう!!!」と。
そうして走り出す車。
1時間後には後部座席に一人の酔っぱらいの出来上がりである。
ただ、誤解してほしくないのは、谷さんは自己中心的であったり、傲慢であったりしたわけではなく、実に屈託なく、裏表なく佇んでいただけだった。
誰かの優しさには甘え、その代わりそれらを谷さんらしい愛嬌で感謝するのだ。
さらに付け加えるならば、谷さんは音楽的なこと以外にはあまり細かいことにはこだわらなかった。
誰かのミステイクとか、金銭的なこととか、そういったことを責めたりすることは一切なかった。
そんな谷さんだが、前述したとおり、音楽的なこと以外には無頓着でありながら、いざ音楽のこととなると、妥協を許さない人だった。
一緒にレコーディングをしていて、こんなに細かいところを指摘してくる人は谷さんの他にはいないだろう。
しかし、重箱の隅をつつくといった感じではなく、やはり谷さん独特の愛嬌たっぷりに「藤岡くん、ここ惜しいなぁー」だなんて言うもんだから、僕らの現場は基本的にいつも和気藹々と進んでいった。
ケンカをしたことなど一度もない。
ある日、福岡でライブをした時のことである。
その日のライブでピアノを弾いてくれていたのは、谷さんと旧知の仲であった星牧人さんだった。
会場でのリハーサルが終わろうとしていたその時、会場の音響さんが「ピアノの音が小さくて、こちらでこれ以上音を上げられない」とのこと。
すると牧人さんが「じゃあピアノのほうで上げますか?」。
音響さん「あー、そうですね。お願いします。じゃあそういうことでリハーサル終了でよろしいですか?」的な会話がやりとりされていた。
すると谷さんがすかさず「いや、それじゃ困る! ピアノ本体の音を上げてしまったら、リハーサルで確認した音のバランスが変わってしまう。もう一度それぞれのモニター用スピーカーの音のバランスを確認しなくてはならない」と。
すると、当時の僕のマネージャーがやってきて、「さすがにもう開場しなくてはならないので今すぐリハーサル終えてください」と告げた。
開場時間ギリギリまでリハーサルをしていたこともあり、マネージャーも仕方なく伝えた言葉であったのだろう。
しかし、谷さんは「開場よりもこっちのほうが大事なんだ!!!」と、珍しく感情的に。
結果として、5分ほど開場時間を遅らせてサウンドチェックを行なった。
これは、5分お待たせせずに中途半端なパフォーマンスをお見せすることを嫌い、より良いモノを持って帰ってもらいたいと願う谷さんの思いからのことであった。
音楽的な部分においてはこれほどまでに頭が良く、繊細かつ斬新な谷さんだが、やはり彼は紛れもなくミュージシャンであり、例に漏れず社会に馴染めない愛すべき自由人だった。
(誤解を恐れずに言えば、個人的にはミュージシャンなんて生き物は基本的に皆そんなものだろうと思っているし、そんな自分たちが好きなのだとも思う。もちろん僕自身がそうである)
話したいことは、まだまだ山ほどある。
谷さんとの思い出も、谷さんの人間的または音楽的な魅力も、残されたご遺族の悲しみも、これから僕がすべき、あるいはできるかもしれないことも。
ただ、今日はこの辺にしようかと思う。
谷さんが亡くなって2週間が経ち、というか2週間しか経っておらず、自分の中で何ひとつまとまらず、納得がいかず、落ち着いておらず、谷さんと笑い合い、呑んだくれ、ステージ上で何度となく目を合わせた記憶を語るくらいしかできないのだなと痛感しているからである。
今の僕がいるのは、紛れもなく谷源昌がいたからである。
谷源昌は藤岡正明であって、藤岡正明は谷源昌だった。
これからどう音楽に向き合っていけばいいのか、今はまだ答えなど見つけようもないけれど、このことはこれからもずっと変わらない。
僕は、谷さんならばどうするだろう、なんて言うだろう。そんなことを思いながら、ただただ歩いていくしか選択肢がないのだから。
いつも谷さんと一緒にいるつもりで、これから何ができるのか、少しずつ考え、歩みを進めていけたらと思っています。
谷さん、きっとわりと近くで見てるんでしょ?
谷さんが繋いでくれたオレたちみんなで、これからも手を繋いで、あなたのことを死なせない。
あなたはこれからも生き続けるんだ。
いつまでも、フニャーっとしたその佇まいで、すぐ横にいるかのように、オレたちの近くにいてもらえたらと思います。
谷源昌は死んでません。
長々と、本当に長々と書いてしまい申し訳ない。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました(o^^o)