異国の地で、異なる空気と、水と、時間を過ごしているところから、

切り取られた、止まった時が、送られてくる。


こう、1人でお砂遊びをしていて、1人で砂と必死に向き合っていて、

自分の頭の中にある何かを必死で表現しようとしている。

だけど、完成するまで、それが何か分からないから、

そばで、出来上がるまで、微笑ましく眺めながら、

「頑張ってるなぁ」

って思って待っている。


だけど、


それ、出来上がってみたら、

僕がすごく好きな何かだった。


そんな事があったら、僕は凄く嬉しいし、

でも同時に、

自分が感じていた「微笑ましさ」を、ちょっと気恥ずかしく思う。


そんな感じ。いつも。


僕は今、微笑ましく、隣で眺めながら一緒にいる事が出来ず、

目の前の自分に対して課したハードルを何とかクリアする事に精一杯で、

悲しいのだけど、

何と言うか、

もう、やっぱり、言葉では説明が出来ない。

この感覚。


僕はストイックだ、と言うけれど、僕はそんなに言うほどストイックじゃない。

言葉はそう言うけれど、それは、自分がストイックじゃない事を分かっているから、

甘えんな、って自分に言っているだけなんだ。


そんなに変わらないと思う。


きっと、感性がとても鋭く、細かく、しなやかだからこそ、

言葉でまず色々感じるんだろうな。


でも、そんなに敏感なんだけど、

おおらか、おおざっぱ、だいたい、な感じだからこそ、

僕は安心する。


そういう感じなんだよな。

今日はここまで。

時折、壊したくなる事がある。

自分がいる場所や、人間関係や、色んな事を。


昔からそうであった。


SFCを選んだ時も、

会社に入った時も、

転職した時も。


そういう、特に自分の生活に大きな影響を与える節目こそ、

余計にこの破壊的な感覚がより強く表れる。


この破壊的な感覚が、何をしようとしているか。

それについて、昨日から考えていた。

今思っている事は「試す」と言う事。


自分に対しては、自らの持つ可能性に対する挑戦であり、

周囲に対しては、いわば「喧嘩を吹っ掛ける」ようなもの。


twitterで冗談みたいに、孫悟空の事を書いたけど、

ホントにそうだ。自分より凄いヤツともっと会いたい、戦ってみたい。

そんな感覚なんだ、きっと。


そして、周囲に対して喧嘩を吹っ掛ける時は、

「そんなはずないよな?ホントにそれでいいのか?」

と言う、アンチテーゼの1つなのだと思う。


それが、その周囲(場や組織や人間)と、

自分がこれからを共にしていけるかどうか、の

賭けをしていると言う事かも知れない。


例えば、ディスカッションで言えば、

極論による議論を「非現実的だ」と嫌う人がいるが、

今ある要素からビルドアップしていく議論では確かにそうだ。

しかし、今ある要素がそれぞれ対立(もしくは重要度のランク付けが難しい)し、

ビルドアップがとても難しい状況では、

敢えて極論まで持っていき、

極限状態になったならば、何を一番大事にするのか、と言う事を

あぶりだすと言うプロセスのほうが、結果として解を導き出すことが

早期に出来るかもしれない。


そういった時の極論による議論はとても有意なものだと思うし、

そういった頭の切り替えが瞬時にできる人でありたい。


議論は、課題に対する挑戦でもあり、

自分の能力に対する挑戦でもある。

常に自らに課題を課し、1つ1つの行動に意味づけをしていく。

そうしなければ、もっと成長していくことが出来ない。


破壊的思考の素。


ただ、


周囲がしっかりと理解できるように、それをする事。

それが、大事だと最近感じる。

リーダーシップは、フォロワーシップ。

それが、過去の自分との違い。

そこを勉強していかないといけない。

今日は、小さいけど大きな幸せを感じたので、

久々にblogを書いてみる。


未来って、何だろうか。


今日たまたま、ドラゴンボールを見て、

小学校の頃に一瞬で気持ちが戻る。


門限に間に合っていたのに、

母さんが掃除機の音でインターフォンに気づかずに

門限破った事になって、父さんが帰ってくるまで縁側で待ってた事とか、

そのあと食べた炊き立てのご飯とから揚げがすごく美味しいんだけど、

ドラゴンボールZもすごく見たいんだけど、

悔しくて悔しくて泣きながらから揚げ食べた事とか。


幼馴染の女の子がすごくかわいくて、

同じ塾に行くのが嬉しくて、当時はやりまくってた

H Jungle with Tの「Going Going Home」を聴きながら、

チャリで塾に行ったこととか。


自分の未来は、どうなるだろうか。

どうやって、死ぬんだろうか。

結婚するんだろうか。子供は作るのだろうか。


人間の人生は諸行無常。

自分の冷たさは、そこから来ると思う。

どんなに仲が良くたって、

ダメになるものはダメになる。


だから、未来に確定的要素は、1つもない。

出来る事は、今を精一杯生きる事。

それしか出来ない。


未来はどうなるか?

それは考えるけれど、その考えの結果は、

今の行動で、あらわすしかない。


未来は、だれにもわからない。

facebookっていうのは、結構いいもんで、悪いもんで。

友達の友達っていうのを見ていると、

あぁ、そういえばそんなやついたな、っていう人の顔がちらほら。


あの頃はよかった。


モラトリアムを惰性的に過ごす怠惰な自分という面ではなく、

やりたいことと、やらなければならない事をやっていた。


今は、自分が自分に対しても、

他者が自分に対しても、「こうしなければいけない」「こうしてほしい」と

なんかそんなんばっかりで、応えなければいけないという

デスマーチをしている感じが、嫌だ。


よかったあの頃を過ごしていた仲間たちが、

みんなそんなデスマーチに巻き込まれているかって言えば、

きっとそうじゃない。


自分の生き方の問題だと思う。


そうやってデスマーチが嫌だと言いながら、

デスマーチの代償として得られる物事が捨てきれずに、

結局また次の1歩を踏み出してしまう。


なんで、やりたくもないデスマーチを自分はやってるのか。

22歳までは、やりたい、とやらなければいけない、は同じレイヤーにいたのに、

22歳以降は、ずっとやらなければいけない、の下のレイヤーに

やりたい、があり続けている。


そして、やりたいことをやっていた頃の記憶がどんどんなくなっていく。


こんな生き方でいいのか。ホントに。


今、twitterは緊急情報共有の場になっているので、

blogで精神安定を図りたい。


15時前に突然大きな揺れを感じた時、

大手町のいつものオフィスにいた。

自分達のフロアは23階建の21階、

ビルは昭和40年代に建てられた、旧耐震のビル。


揺れが始まったと思い、様子を伺っていると、

いつまでたっても揺れは収まらず、むしろどんどん強くなっていく。

次第に、キャスター付のロネオなどが、あった場所に留まっていられなくなる。

自分の隣に座っている事務の女性の後ろに巨大プリンター2台も

安定を失い、プリンターと机に女性が挟まれてはいけないと思い、

プリンターを支えながら窓から見えるビルの外観を見た時に、

これはダメなんじゃないかと感じるようになった。


明らかに大きな地震だと言う事がわかったし、

このビルが耐震・免震・制震の最新構造のビルではない事も分かっていたから、

続く2回の強い地震が本当に恐ろしかった。

ビルが倒壊するのではないかと思った。


大きな揺れが収まった後も、高層であり、エレベーターも停止しており、

すぐに避難することが困難な状態であった。

しかし、余震がずっと続く状態が、精神的に結構タフな状態であった。

避難が本来可能かもしれないけれど、高層過ぎて恐らく何もできず、

その場にいる自分の状態が、自ら死を選んでいるようで、

その辺りの感じ方が、精神的にタフであった。


定時を過ぎ、帰宅が可能となった時刻以降、随時皆が帰宅していったが、

自分のオフィスはネットのファイヤーウォール等の関係から

twitterを端末では見れないため、ほとんどの人が帰るまで、

交通情報を提供していた。

後、備蓄の非常食も配り、有事に備えました。


ほとんどの人が帰宅した後、終夜運転となった都営地下鉄と東急線を使って帰宅。

家に帰ってきて、張り詰めたものが一気に緩んだ気がする。

大きな音とかに結構敏感になっているかもしれない。



ツイッターでの、Face to Faceで繋がっているであろう人々の、

ブリザードなコミュニケーションが最近しんどくて

blogに逃げ込んできた弱い人間でございます。


正しい、って大事ですが、正しいって怖いです。


正しさって、前提によって変わる。


社会主義社会における正しさ、

資本主義社会における正しさ、

帝国主義社会における正しさ、

共産主義社会における正しさ。


仏教における正しさ、

儒教における正しさ、

キリスト教における正しさ、

ヒンドゥー教における正しさ、

イスラム教における正しさ、

バラモン教における正しさ、

モルモン教における正しさ。


その瞬間、「正しい」と言う事は、

自分の精神にとってとても安心材料になるけれど、

正しさという概念ほど、いい加減で怖いものはないと思っているのです。


でも、


仮に、「本当の正しさ」


というものが、人間の世界にあったとして。


正しさ、というものは、概念やモノや状態、方法論の対象に宿るものであって、

人自身に宿るものではない。

だから、「こういう時は、こういう風にするのがよいと思う。なぜならこうだから。」

という人は一緒にいてもしんどくないけれど、

「ね、言ったでしょ、私の言ったことはこういう理由で正しい」

と、人間自身に正しさがあるような考え方をしている人とは、

一緒にいるのがしんどい。最近。


そもそも正しさなんて言う砂上の楼閣の上に、

ボラティリティのあまりに高い人間というものを乗っけている事が。


でも、こういう事を、「正しい人」に話すと、きっとすごく傷ついて、

大変なことになるんだろうと思う。


その時、自分は「正しい人を傷つけた正しくない人」になるでしょう。

今年から入っている、あるプロジェクト。
メンバーでありつつ、ファシリテート役も求められている中で、

「天才的なファシリテート」

って言われて、嬉しいのは嬉しいのだけど、何故自分がそういう状態を作り出せているのか、理解出来ていないので、しっくり来ないしなんか悔しい。

後は、少人数のファシリテートは多分出来るけれど、大人数は難しい、きっと。やった事ないけれど。

今まで生きて来て、成長したい、と言う気持ちが行動のモチベーションになってきた。

それは、一方で、苦手な部分を伸ばす、不得意なものを減らしていく作業だった事が多い。

日本的なのかも知れない。

だから、ファシリテートが得意だったとして、それが何故得意か、よく分かっていない。

流行りの自己分析にも色々あるんだな。
モチベーションに関する自己分析、
不得意に関する自己分析、
得意に関する自己分析。

まだまだ色々不十分だ。

これらをしっかりやっていったら、これまた、大きく生き方も変わるかも知れない。

ホント、歳取ったって自分の意思さえあればいくらでも何でも出来るんだな。



iPhoneからの投稿

特に今の仕事は、仕事で何があったか、とかそういう事を

ネットはおろか、知り合いと共有することもあまりままならない仕事なので、

家族ともそういう話は余りできない。

だから、blogで書こうとする材料にも、出来ない。

1日のほとんどの時間を占領している仕事という素材が。


で、それ以外のプライベートの事について、

最近、長い文章を書くことが多いので・・・、blogで書くことがなくなってくる。


そんな中でも、材料はあったりするのだけど、

余りネガティブな物事は言葉や文章にしたくない、って思っていて、

それものぞくと・・・ホントにない。書くことが。


言葉にするという事は、

自分の思考の整理をする事が出来たり、

視覚化することで、自分に対する印象をより強めたり、と

色々いい効果があるので、どのような題材をどのように言葉にするか、

と言う事についてはいつも考えてから決めるようにしている。


やはり、言葉というものは偉大だ。


ソクラテスさんはさすがだ。

あぁ、また哲学とか現象学とかやりたくなってきた。

こないだ、本屋さんで「ウィトゲンシュタインの日記」みたいな新書が出てて、

むむむ、って来てしまったのだけど、ぱらっとめくって・・・断念。

現象学の基礎からもう1度学びなおしたい。

ソクラテスさんをもう1度しっかり読みたい。

そして、ニーチェに挑みたい。

学生の頃そんなことばっか考えてたな・・・。

自分とはこういう人間だ、

自分はこういう人間でありたい、

自分がこれが好きなのはこういう理由だ、


と、あれこれ、自分や自分の周りの物事について、

色々定義したくなる。

何がそうさせるのだろうか。

自分という存在を定義づけることによる安心感?


でも、そうやってあまりに定義づけしすぎると、

自分という存在が変われなくなってしまったり、

定義づけの範囲内に含まれない物事に対して

適応できなくなっていってしまったり。


人間というものは、難しいものだなぁ。。。いやはや。

この歳になって、、いや、その言葉がそもそもおかしいのかもしれないけれど、

ついこないだまで「なんか分かりきってしまった気がしてつまらない」

って思っていたはずなのに、

何もかもが、初めての事が最近多くて。


それも、本当に未知の物事と出会っているわけではなくて、

今まで自分の身の回りにとても身近だったはずのものなのに、

今までと全く印象が違ったりする。


自分の中での「定義づけ」なんて、本当にいい加減だと思う。

だからと言って、やめたほうがいいと言う事ではなくて。

定義づけすることによって自分の考えは明確になっていくし、

大事なプロセスだと思うけれど、

1度やってそれがおしまい、というのは危険だなっていう事。


折に触れて、時には大胆に、時には微調整。

色々変わり続けていくと言う事が大事なんだなと思う。


ダーウィンの進化論。

変わり続ける事が必要だ。


グラハム・ベルさんに本当に感謝したい夜。

最近、タマシイレボリューションをBGMにして、

南アフリカW杯日本代表の戦いを振り返るyou tube動画を見ながら、

ひたすらジョギングしている。


歌詞にある


「道なき道を 切り開く時」

「頭の中はいつもbusy 葛藤non stop」

「plusとminusがrefrain so I don't care 最強に変身中 呼び覚ませ 本能」


の辺りで、言い様のない高揚感を感じるのと、

映像の特定の場面でも、言い様のない高揚感を感じる。


この動画、4分程度なんだけど、

80分ヘビーローテーションで行けるくらい、高揚し続ける事が出来る。


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他の人にとっては大げさな事だろうけど、今の会社は、自分にとって戦う場所。

前の会社の事を決して忘れることはない。

規制産業、規模の利益、企業の出自。


この会社で、いい事も悪い事もたくさんあった。

忘れられない物事はたくさんある。だから、負けたくない。


今までずっと、1人で戦ってるって思ってたけど、今は、違う。

1人じゃない。


だから、もっともっと頑張れるはず。