6月に入門してきた弟子が、中学時代に「パソコンクラブ」だったということをちょっと前に聞いて、最近めっきり面倒になってきたホームページの管理、特にネットショップの制作・管理が大変なので、この機会にこの弟子に任せてみようと企んだ。
ネットを駆使できれば、何でもできる時代になった。こんな地味な仕事でも、想いがあれば自ら世間に発信できるわけだ。彼女にとっても無駄にはならないはずだ。
しかし、彼女は、まだまだ、仏画の制作に関しては勉強や経験を積まなくてはならず、今のところ貯金を食いつぶして弟子生活を送っている。
ネットショップの管理を仕事以外の時間を使って、余裕で管理できるスキルがあるかどうかが問題なのだが、心配は無用だった。
すでにかなりのスキルを持っていて、私の言っていることの意味や要望の飲み込みも早く、うまくやってくれそうだ。
もちろん、彼女の生活費の足しになるよういくらか支給するつもりだ。
そのパソコンとネットを使いこなすスキルは、私の老化した頭脳とは比較にならず、凄いスピードでそのコンテンツ制作と管理をこなして行く・・・。
ちょっと前、ネットショップの顧客にメール返信をする時、彼女の発言で気になっていたことがあったのだが、いちいち説明するのも面倒なのでまたの機会にということで保留にしておいた件があった。
今日届いた業界新聞「中外日報」に、これに関連した興味深い記事があったので、彼女に読むように勧めた。
というのは、「はじめまして、仏画工房 楽詩舎のネットショップを担当させていただいている○○です。」という注文に対して送信する返信メールの最初の挨拶文の文言のことである。
彼女曰く、この「させていただく」という私が例にあげた文言は、こちら側の立場の都合なので、顧客に対して使う敬語ではないと言う。
つまり、「~ネットショップ管理担当の○○です。」で良いというのだ。この私の提案した例文の言い回しは、通常のビジネスの現場では使われないと言う。
結局、彼女は納得しないまま私の例文に従ったのだが、彼女の心境が気になっていた――。
ところが、今朝読んだ、中外日報の記事の内容がこの件にぴったりだったのだ。
この記事は、歌手で俳優の武田鉄矢氏が真宗本願寺派津村別院で親鸞聖人750回遠忌法要で講演された「親鸞聖人の魅力~私にとっての親鸞聖人~」中でお話された内容だった。
その記事。浄土真宗本願寺派津村別院(北御堂)と真宗大谷派難波別院(南御堂)を中心とする御堂筋は真宗門徒の近江商人の進出によって形成された歴史がある。近江商人は「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」の経営哲学で知られるが、その背景に真宗の教えに基づく「おかげさま」の精神の存在が指摘されている。
福岡出身の武田氏はこの御堂筋に息づく真宗の精神文化に言及し、大阪出身芸人の「○○させていただく」との言葉遣いに疑問を持っていたと説明し、その源流に御堂筋の近江商人に起源を持つ「船場言葉」の伝統があることに気付いたとお話されたとの記事だった。
そうなのか・・・。私も近江商人の出身地五個荘の生まれで、そこで18歳まで育った。「○○させていただく」という言葉に抵抗を感じたことはなかったし、今の私の仕事柄、お付き合い願う周囲の友人も皆、仏教徒なので、この言い回しはごく当たり前に、私の中でまかり通っている。確かに関西のテレビでも出演する大阪芸人のこの言葉を耳にする機会が多いが、彼らのお客様に対する姿勢や師に対するこの言葉の遣い方に疑問を感じることはなかった。
いつものことだが、「○○させていただく」をネットで検索してみると、敬語(尊敬語・謙譲語・丁寧語)でくくってあって、どうも謙譲語ということらしい。 とんでもない敬語解釈の随筆もあり、たいへん面白かった。
広辞苑では、【敬語】けい‐ごとは、話し手(または書き手)と相手と表現対象(話題の人自身またはその人に関する物・行為など)との間の地位・勢力・尊卑・親疎などの関係について、話し手(または書き手)が持っている判断を特に示す言語表現。普通には尊敬語・謙譲語・丁寧語に分ける。待遇表現。 と、ある。
どうも、自分と相手の力の具合で使い分けるといった意味が伝わってくる。
ふむ・・・。なんとも腑に落ちないのだ・・・。
「○○させていただく」は、たしかにそういった部類の言葉ではあるのだが、我々仏教徒は、まるっきりその相手との力関係で自分の立ち位置を決めて遣っていないような気がするのだ。
でないと、なにやら計算高くていやらしい印象だけを受けてしまう。
関東出身の我が弟子も、九州出身の武田鉄矢氏もそんな風に感じていたのかもしれない。
こんなこと(国語的定義)では、今後もこの素晴らしい「人としての深みを感じさせる」この言い回しが、ただの力関係で左右される敬語でくくられてしまい、それが一般的な国語となってしまう。
近江商人がよく使った「○○させていただく」は、武田鉄矢氏が言うように、 阿弥陀如来の本願によって浄土へ往生「させていただく」という、他力思想に基づく観念、つまり思考の対象となる意識の内容が表現されているのだが、いわゆる「商業敬語」の謙譲表現として、その精神が受け継がれず、単にへりくだった謙譲語として定着した感があるが、やはり、必要以上に乱用すると厭味な印象を与えてしまうおそれもある。
他力本願(阿弥陀如来の本願によって浄土へ往生「させていただく」)から派生した謙譲語。
私が今、この文言を遣うとき、「○○させていただく」という表現には、阿弥陀如来への感謝の念だけではない。
今ある自分がこの娑婆の世界に生かされていることに対して、あらゆる「人のまごころや神仏とのご縁」に感謝しているという意味が含まれる。
つまり、文頭の例文に従って、詳しく、しつこく「○○のまごころ」を表現すると、こうなる。
「はじめまして、仏画工房 楽詩舎のネットショップの管理を担当させて頂いている○○です。私にこのような大切なお仕事をお任せいただいた師をはじめ、お客様との素晴らしいご縁を頂いた神仏(大きな力、意思)に感謝の意を表し、取引終了まで誠心誠意ご対応させて頂きます。」となる。
このまま書くと、やっぱりくどいが、「はじめまして、仏画工房 楽詩舎ネットショップ管理担当の○○です。」だけでは、この○○の人間性は伝わらないと思うのだが、いかがだろうか・・・?
「はじめまして、仏画工房 楽詩舎のネットショップの管理を担当させて頂いている○○です。」の方がまごころや誠意、その人の人間性が伝わると思うし、前後の文章のバランスにもよるが、その人物の人間としての幅が感じられると思う。
「神仏に生かされている」という立場からすれば「○○させていただいている」といった畏敬の念の表現が自然ではないだろうか。
この「○○させていただく」といった言葉遣いが巷(ネット)では、以外にもかなりの話題になっているようだが、関西地方以外にお住まいの方々にも、この類の宗教観さえ一致すれば、この言い回しが、単に力や利害関係で左右される謙譲語のくくりで納まらないことを理解して頂けると思うのだが・・・。