老いた母が来た | しょうかんのうだうだ

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仏絵師藤野正観(66)の備忘録・・・っといっても、ほとんどどこにも出かけないので、ふだん、ぐだぐだ思ったり考えていることを書き連ねることになるのは必至。

日曜日、故郷に一人で住む86歳の母親を京都の私の家に連れて来た。

「いつまでも居れば良いやないか。」
私の運転する車のバックミラーにうつる母に話しかける。

母は、通り過ぎる景色の移ろいを感慨深そうに眺めている。

最近は特に「一人で生活するのが限界だ」と電話で弱音を吐くことが多くなった。

実際、足腰がいうことを利いてくれないらしい。

杖をつけばなんとか歩けるのだが、いつ倒れても不思議ではない。
おぼつかない脚力に限界を感じていたのだと思う。

耳も聞こえなくなった。

何でも一人で難なくこなしてきた母は、この2・3年でいっきに老いた。

田舎の母の住む家には畑がある。

母は、その周囲の草むしりが気になる・・・。

数年前からそこには野菜もない。畑の世話が出来なくなった。

あるのは雑草に混じって咲く野生化したダリアと菊の花。

隣接する放置された竹藪からの竹の進出阻止と落ち葉の掃除。

秋になるとその藪の中に育った巨大な欅の木から落ちる大量の葉が屋根に積もり、樋を詰らせる。

荒れて行く自宅が気になる・・・。

「体さえ元気なら、何でもするのに・・・」と、情けなそうに言うが、それ等の作業も叶わぬ夢となった。

先日、電話があった。雑草と竹と欅の落ち葉との戦いに敗北宣言をしてきた。

1年ほど前、車で10分ほどの処に住む妹夫婦の近くに、適当な老人介護付きの施設を探し、入所体験をしたのだが、本人曰く「まだ自分がお世話になるところではない」といい、お世話になるのを断った経緯がある。

昨晩、母が床に就く前に、少し話をした。

「また、お前の都合の良い時に送ってや。」と、早くも頼まれてしまった。

「えぇ~、昨日来たとこやないかぁ。しばらくここに居て様子をみたらよいやないかぁ。それで、居れるようやったらいつまでも居たら良い。そう言ってたやろうがぁ。」

昔から、来れば帰りのことを気にする性分で、その性分が一人での生活を長引かせているわけだ。

今回も、「台風が三つも来てるらしいから・・・・」と言って、雨合羽を2個も持って来た。

「こんなの、持ってきてどうするの?」

「台風が来てるやろ、雨がきつうなったら着るようにやないの。」

「その足で、暴風雨の中、雨合羽着て走って逃げるわけ?」

「・・・・・、そら、そうやなぁ」と笑いながら反省はするものの、臆病で心配性な母は、雨合羽を大事そうに片付ける。

別にぼけているわけではない。そういう性分なのだ。

3年前、ワシントン在住の娘が出産する時に、妻がその手伝いの為に渡米して留守の時、その時も、私と母と二人で京都の自宅で過ごしたことがある。

たしか、1週間も、もたなかった記憶がある。
久しぶりの母と息子。
水入らずの生活ということで、何かと世話をやいてくれるのは良いのだが、慣れてくるとついつい、お互いわがままが出、言いたいことを言ってしまうようになる。

疲れた母は、「もう連れて帰って!」となるわけだ。

あの時は息子の私と二人きりだったが、今回は、ちょうど、そのワシントン在住の娘と二人の6歳と3歳のひ孫が8月後半まで居る。

賑やかである。

我々夫婦も、普段は二人きりなので、それなりの静かな生活リズムがある。

そこへ、3人組みの娘と孫二人、それと、よぼよぼで心配性で神経質で気の短い母・・・・。

さて、この母との慣れない生活、いつまで続けられるのだろうか・・・。