当時の仏教クラブ会長、清水寺貫主 森清範師と (正観撮影)
いつもお隣に座って楽しいひと時を過ごさせて頂いた
今日29日は、私が34歳の頃、仏画を描いて生活しようとしていた時に、背中を押して頂いた恩人でもあり、心の師と仰いだ故掃部光暢師の命日だった。
くしくも、その命日である29日は、仏画人生で最後の大仕事となるかもしれない、これから約二年に渡って制作することとなった「両界曼荼羅」制作の契約を交わす日となった。
師は、西国20番札所善峯寺の第四十五世住職。前の住職であった。
2009年10月29日に遷化された。92歳だった。
亡くなる2日前の夜には、水も通らなくなったカラカラの喉からは声も出なくなり、筆ペンでの筆談で「正観さんに会いたい」とのこと、現住職より連絡が入り、急いで駆けつけた。
駆けつけると、ベッドでしばらく寝たきりのはずだった体をむくっと起こし手を差し出された。
そして差し出した私の手をしっかり握り、また静かに床につかれた。
師と現住職(当時の副住職)の勧めで、15年程前から「仏教クラブ」という関西を中心とした仏教者と在家の親睦団体に所属している。
月に一度の例会にはいつもご一緒させて頂いた。
副住職の運転する車に同乗し、ほぼ毎月、その例会場であるセンチュリーホテルで会食をした。
副住職が事務局長に就任してからは、いつも私の隣の席に、師がお座りになった。
と、いうより、いつの頃からか、師がお出かけの時には、私がサポートさせていただくようになっていた。
実の息子さんである現住職が、寺のことを主に任されるようになってからの師の日常の様子は、ほとんど、手ぬぐいでほっかむり、野良着で作務。
寺の客は、まさかこの方が、この立派な寺院のご住職だとは誰も気がつかない、そんなお姿だった。
あらたまったお出かけの時にも、いつものこげ茶色の作務衣に、使い古したナイロンの手提げ袋。
善峯寺といえば、洛西地域ではやはり、一番の古刹、名刹、大寺。
そんな寺の住職だが、師は、決して驕らず、質素に謙虚に、ただひたすら観音様のお世話ができることに感謝をする。
私はそんな師のお人柄に魅かれ、私の実の父が亡くなってからは、父とは一才年上の師に、特に親しみを覚えた。
お元気な頃には、師のかばん持ちとして、東京浅草寺の清水谷孝尚貫首の晋山式や竹生島宝厳寺の現住職の晋山式のご出席にお供をした。
私のお描きした仏画は、浅草寺にもいくつか納まっていたのだが、当日の私は、かばん持ちに徹していた。
ところが、師が「あんたも署名しとき」と言われたので署名をした。しかし、この署名のおかげで、私が晋山式に来ていたことがわかり、私の絵を浅草寺に納めた出版社の担当者が執事長さんに「先生が来られているのならなぜ知らせてくれなかったのか」と叱れたと、だいぶ後で聞いた。
そうそう、この日は、たしか・・・寒かった。
浅草寺の近くの蕎麦屋で、二人で天ぷらそばを食った。
師は、さっさと食べ終えた私に、量が足らなかったと見たのか、 半分ほど食べ終えた蕎麦のどんぶりを向かいに座る私の方へ笑顔と一緒に差出し勧めた。
寒かったせいか、師の鼻から透きとおった鼻汁が、どんぶりの汁の中に落ちたのを私はしっかり見ている。
しかし、師の好意を断るわけにもいかず、「ありがとうございます!」と笑顔で蕎麦をすすった。
80歳を超えられた頃には、耳が遠くなられ、よく拡声器代わりに私が大きな声で耳打ちをした。
仏教クラブの例会の食事中、野菜サラダが出てくると「鶏の餌ですなぁ」と大きなお声で本気とも冗談とも笑いながら言われるその様子に席を同じにしたテーブルの皆が和んだ。
大好きなお酒が入ると、大きな声で軍歌(日本陸軍)を歌われた。
なぜ、師が軍歌を歌われるのか知っている私は、テーブルの皆に聞こえるように、「ちょっとぉ、お坊さんが軍歌はあかんのと違いますかぁ?」とツッコミを入れ皆を笑わせる。
師は、15歳で善峯寺に小坊主として養子に入られた。厳しい寺での生活より、兵隊生活が楽しかったようで、まさに師の青春時代は兵隊時代。
「誰一人傷つけず、誰にも銃口を向けることなく帰って来れたのは、みな観音さんのおかげ。」と言い切っておられた。
一方では、ちょっと人見知りをされるぐらいシャイな一面もある師だったが、このようにお酒が入ると、周囲を和ませるような言動が多かった。
90歳に近づいた頃には、頑強な体の持ち主だった師の体力もさすがに落ち、杖が必要となった。
ホテルの階段等も杖を持つ手の他に、片方の手には私の手も必要となった。
若いい頃はさぞかし頑丈だっただろう老いた手の温もりが忘れられない。
最後の日の早朝、前の日の夜に私が師の枕元に用意したMP3プレイヤーのスピーカーから流れる「日本陸軍」の行進曲を聴きながら、お浄土に行進された。