「生」への執着から解き放たれる時、人は真に幸福になれる | しょうかんのうだうだ

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仏絵師藤野正観(66)の備忘録・・・っといっても、ほとんどどこにも出かけないので、ふだん、ぐだぐだ思ったり考えていることを書き連ねることになるのは必至。

今日も、桂病院に行って来た。本日は呼吸器センターでの受診だ。

4月に肺癌による胸空鏡下左上部肺葉摘出手術の経過を、採血とレントゲンでチェックしてもらう為の2ヵ月ごとの定期検診と予防薬UFT(軽い抗癌剤)を貰いに行ったわけだ。

この薬だけで、56日分で18540円也・・・。診療費、4040円也。

午前8時半に病院着。9時半からの予約だが、採血とレントゲンがあるので、受診の一時間ほど前に行かなくてはならないのだ。それでも、工房にたどり着いたのは午前11時45分。けっこう時間がかかる。

2ヶ月に一度通っているので採血の注射針の跡が一ヶ所に集中し、ほんとうは血管の所在が分かりにくいはずの私の左腕の肘の内側には、度重なる針の跡で赤い印ができている。なので、最近では看護士も迷うことなく注射針を刺してくれるようになった。

実は、何も知らない元気なうちに「死」を迎えることができたら、どんなに幸せか、そう心から思っている自分が居る。
にも関わらず、今の私は、たまたま早期発見で、心臓血管にステントを入れてもらい、肺癌で左肺葉の摘出手術を受け、今のところ無事再発も無く、順調に毎日を過ごさせて頂いている。

感謝の気持ちでいっぱいだ・・・・だが・・・。

この何も無く無事なまま、あらゆる病院が無くなればいいのに・・・。そんなことをイメージする私も居る。

世界には、近代医療設備の無い国や場所はいくらでもあるに違いない。簡単にイメージできる所、ミャンマーの山奥、ネパールの山奥等々。その辺りに住んでいたらどうだろう。

何か私の肉体に異変があっても診てもらう所がないのだから、そのまま自分の生命力に委ねるだけのことになる。

検診もほとんど無く、診察もほとんど受けることなく、簡単な治療すら受けられない。そんな状態が自分の住む地域の共通の常識なら、「死」に対する諦めも早い。

ただ、「そろそろ、自分も死ぬ番が来たなぁ・・・。」と諦めるだけ。

そもそも、人である限り、いや、命あるものすべては平等に死を迎える。遅かれ早かれ誰にでもその時は来る。

こういう状況なら、つまり、近代医療のない地域に住んでいたなら、「死」に対して素直に居直れる。

いさぎよく覚悟できる自分が居るわけだ。

でも、不幸なことに、こうして、定期的に病院に通う私は、少しでも肉体に異常がみつかれば、すぐに治療を受けることになる。
本音とは裏腹に、僅かでも寿命を延ばしていただくことになっている。

つまり、悪く、意地悪く言えば死ぬ時期を延長し、苦しむ機会を増やしていただくことになるわけだ。

今日、病院で、診察を待っている間、よれよれの年老いた患者を見つける度に、そんなことを考えてしまった。

今の近代医療が充実している時代に生まれた我々は果たして幸せなのだろうか?

適当な時期というと難しいが、「死」に対して「いさぎよく諦められる」という状況は、現代人の心の奥に潜む願望、夢となってしまった・・・。

「生」への執着から解き放たれる時、人は真に幸福になる(涅槃の境智)・・・この真理を2500年前に仏陀が言っておられたそうな・・・。