もう最終章が近づいてきました。
色んな人がこっそり楽しみにしてくれてるみたいで嬉しいです。
autumn colorの解散の話からですね。
メンバー全員から脱退の申告。
今考えてたらそりゃそうだ、な状態。
毎日ライブ三昧で「金が無い」レベルでは最底辺。
バンド活動は充実していたものの、ライブと仕事の毎日。
描いている夢や目標はまだまだ遠くにある感覚。
ライブをこなしてしまっていたのかも。
コミュニケーションもあんまり取れたなかった。
自分の理想をメンバーに押し付け過ぎていた自分もいた。
脱退に同意したものの、ライブもツアーも残っている。
不安定な状態でライブしたくなかったので、全キャンセルを希望。
この発想も安易過ぎる。
他メンバーの意見もあり、残りツアーを敢行する事に。
あの時は嫌々やったみたいな空気感を流してしまったけど、
この時、止めてくれて本当にありがとう。
解散イベントもする気もなかったので、現行あるツアーを行うだけ。
ちなみにラストライブは出雲APOLLO。
あの時集まってくれた皆様、本当にありがとう。
出演でもないのに来てくれて、打ち上げ前に潰れてしまった
SHIMAのエガッチョさんの寝姿はまだ瞼を閉じれば鮮明に。
メンバー間は最大級にぎくしゃく。
俺だけか?
誰とも口を聞きたくなかった。
車でも無言。セットリストも勝手に決めてたし。
何て無様なんだ、この時の俺は。
「ライブがツライ」と思ったのはこの時が初めて。
センターでメッセージを伝える人間として、
バンドとしてのチームワークの大切さを痛感した。
支えてもらえなきゃ、てんでダメでした。
そんな状態じゃ、
伝わるもんも伝わらん。
この時に救いだったのが、
一緒にカップリングツアーを回ってくれた
「REGO」「BrackTop」(現 iTuca)がいてくれた事。
無期限活動休止宣言(解散って言えば良かった)をしてから、
すぐにBrackTopのアキラに呼ばれた。
「ギターを弾いてくれませんか?」
当時彼らは3ピース。
ドラム探しの難航の末に、ようやく見つかったドラムのコパが加入。
彼らもこれからようやくバンドが出来る、という時。
悩む暇はなかった。
まさに「渡りに舟」。
アキラ、あの時は本当にありがとう。
今でも感謝してます。
「良かった、まだ俺はステージに立ち続けられる」
当時彼らは19歳。俺は25歳。
若い彼らとやる事は俺にとっても大きな刺激になる。
2010年7月、出雲でautumn colorは華々しく散り、
またもギターを粉砕。
手元に1本もギターがなくなったので、
高校の後輩にギターを1本借りる事に。
結局このギターもボロボロになったので、後輩に怒られて買い取る流れにw
今でも使わせてもらっておりますよ。
BrackTopの加入が決まり、
曲作り、スタジオの毎日。
ライブに焦がれていた彼らとはすぐに呼吸があった。
感覚的に演奏をするアキラとゲロ子とは
共感出来る部分が多かった。
あんなじゃじゃ馬3人フロントマンやったら、
ドラマーは大変だったろうと思いますw
9月から活動を開始。
初ライブは高槻ラズベリー。
「くれぱす帳」一緒やったな。
年明けにRecを開始して、3曲入りのシングルを作る。
「ハジマリ」「クジャク」「水芭蕉」
「はじめまして、BrackTopです」ツアー始まり。
BrackTopになっても怒濤のツアーは変わらず。
攻めに攻めまくり。ライブしまくり。
ライブ攻めまくり、吠えまくり。
打ち上げ飲みまくり。全員潰れまくり。
このツアー中に東日本大震災。
ちょうど「COMEBACK HERO's」との西日本TOURを終えたその日。
二日酔いで風呂に入っている時に揺れたのを今でも覚えてるし、
テレビをつけた途端、津波で街が飲まれているシーンを見たのも覚えてる。
柏に戻っていった彼らには連絡がつかず。
結局近しい人に犠牲者は見つからずに、胸を撫で下ろす。
ネットも一般世間もバンド業界も大いに揺らいだ。
ライブは自粛すべきか、否か。
ガソリンがないのでツアーをキャンセルするバンドもたくさんいた。
タバコも無くなったし、関西でもコンビニは暗かった。
計画停電のせいで、ライブもままならない関東のハコも多かった。
何もかもがわからなかった。
当時の俺たちが導きだした答えは「お金」でしかなかった。
行政に渡すとどう使われるかわからなかったから、
親愛なる、信頼する北関東の2ライブハウスに寄付をしよう。
俺たちの売ったCDの売上と、皆から集めた募金を寄付しよう。
九州の小倉で「envoy from the silence」とのライブの時に決まったんだと思う。
このお金は無事ライブハウスに渡しました。
そんなこんなでバシバシライブをしている時に、
大好きな「放ツ願い」からGt.ショウゴが脱退する話を聞かされる。
多いに悩んだ結果、
Brack Topを脱退する事を決める。
それと同時に放ツ願いでギターを弾かせてくれ、と懇願する。
初めて自分の意思で脱退を選ぶ側に回る。
初めて自分の意志で加入を希望する側に回る。
BrackTopメンバーに伝えると
「放ツ願いなら、許します」
と言ってもらえた。
放ツ願い側も色々あったものの、
メンバーとしての加入を受け入れてくれた。
2011年の12月まで、わずか1年半だったけど
BrackTopとしてやらせてもらいました。
あの時出会えた皆、ありがとう。
そして2012年。
放ツ願いに加入。
そろそろ暗黒時代に突入しますねw
続く。
おそらく次回、最終回だな。
色んな人がこっそり楽しみにしてくれてるみたいで嬉しいです。
autumn colorの解散の話からですね。
メンバー全員から脱退の申告。
今考えてたらそりゃそうだ、な状態。
毎日ライブ三昧で「金が無い」レベルでは最底辺。
バンド活動は充実していたものの、ライブと仕事の毎日。
描いている夢や目標はまだまだ遠くにある感覚。
ライブをこなしてしまっていたのかも。
コミュニケーションもあんまり取れたなかった。
自分の理想をメンバーに押し付け過ぎていた自分もいた。
脱退に同意したものの、ライブもツアーも残っている。
不安定な状態でライブしたくなかったので、全キャンセルを希望。
この発想も安易過ぎる。
他メンバーの意見もあり、残りツアーを敢行する事に。
あの時は嫌々やったみたいな空気感を流してしまったけど、
この時、止めてくれて本当にありがとう。
解散イベントもする気もなかったので、現行あるツアーを行うだけ。
ちなみにラストライブは出雲APOLLO。
あの時集まってくれた皆様、本当にありがとう。
出演でもないのに来てくれて、打ち上げ前に潰れてしまった
SHIMAのエガッチョさんの寝姿はまだ瞼を閉じれば鮮明に。
メンバー間は最大級にぎくしゃく。
俺だけか?
誰とも口を聞きたくなかった。
車でも無言。セットリストも勝手に決めてたし。
何て無様なんだ、この時の俺は。
「ライブがツライ」と思ったのはこの時が初めて。
センターでメッセージを伝える人間として、
バンドとしてのチームワークの大切さを痛感した。
支えてもらえなきゃ、てんでダメでした。
そんな状態じゃ、
伝わるもんも伝わらん。
この時に救いだったのが、
一緒にカップリングツアーを回ってくれた
「REGO」「BrackTop」(現 iTuca)がいてくれた事。
無期限活動休止宣言(解散って言えば良かった)をしてから、
すぐにBrackTopのアキラに呼ばれた。
「ギターを弾いてくれませんか?」
当時彼らは3ピース。
ドラム探しの難航の末に、ようやく見つかったドラムのコパが加入。
彼らもこれからようやくバンドが出来る、という時。
悩む暇はなかった。
まさに「渡りに舟」。
アキラ、あの時は本当にありがとう。
今でも感謝してます。
「良かった、まだ俺はステージに立ち続けられる」
当時彼らは19歳。俺は25歳。
若い彼らとやる事は俺にとっても大きな刺激になる。
2010年7月、出雲でautumn colorは華々しく散り、
またもギターを粉砕。
手元に1本もギターがなくなったので、
高校の後輩にギターを1本借りる事に。
結局このギターもボロボロになったので、後輩に怒られて買い取る流れにw
今でも使わせてもらっておりますよ。
BrackTopの加入が決まり、
曲作り、スタジオの毎日。
ライブに焦がれていた彼らとはすぐに呼吸があった。
感覚的に演奏をするアキラとゲロ子とは
共感出来る部分が多かった。
あんなじゃじゃ馬3人フロントマンやったら、
ドラマーは大変だったろうと思いますw
9月から活動を開始。
初ライブは高槻ラズベリー。
「くれぱす帳」一緒やったな。
年明けにRecを開始して、3曲入りのシングルを作る。
「ハジマリ」「クジャク」「水芭蕉」
「はじめまして、BrackTopです」ツアー始まり。
BrackTopになっても怒濤のツアーは変わらず。
攻めに攻めまくり。ライブしまくり。
ライブ攻めまくり、吠えまくり。
打ち上げ飲みまくり。全員潰れまくり。
このツアー中に東日本大震災。
ちょうど「COMEBACK HERO's」との西日本TOURを終えたその日。
二日酔いで風呂に入っている時に揺れたのを今でも覚えてるし、
テレビをつけた途端、津波で街が飲まれているシーンを見たのも覚えてる。
柏に戻っていった彼らには連絡がつかず。
結局近しい人に犠牲者は見つからずに、胸を撫で下ろす。
ネットも一般世間もバンド業界も大いに揺らいだ。
ライブは自粛すべきか、否か。
ガソリンがないのでツアーをキャンセルするバンドもたくさんいた。
タバコも無くなったし、関西でもコンビニは暗かった。
計画停電のせいで、ライブもままならない関東のハコも多かった。
何もかもがわからなかった。
当時の俺たちが導きだした答えは「お金」でしかなかった。
行政に渡すとどう使われるかわからなかったから、
親愛なる、信頼する北関東の2ライブハウスに寄付をしよう。
俺たちの売ったCDの売上と、皆から集めた募金を寄付しよう。
九州の小倉で「envoy from the silence」とのライブの時に決まったんだと思う。
このお金は無事ライブハウスに渡しました。
そんなこんなでバシバシライブをしている時に、
大好きな「放ツ願い」からGt.ショウゴが脱退する話を聞かされる。
多いに悩んだ結果、
Brack Topを脱退する事を決める。
それと同時に放ツ願いでギターを弾かせてくれ、と懇願する。
初めて自分の意思で脱退を選ぶ側に回る。
初めて自分の意志で加入を希望する側に回る。
BrackTopメンバーに伝えると
「放ツ願いなら、許します」
と言ってもらえた。
放ツ願い側も色々あったものの、
メンバーとしての加入を受け入れてくれた。
2011年の12月まで、わずか1年半だったけど
BrackTopとしてやらせてもらいました。
あの時出会えた皆、ありがとう。
そして2012年。
放ツ願いに加入。
そろそろ暗黒時代に突入しますねw
続く。
おそらく次回、最終回だな。