『軍鳩』(武知彦栄。横須賀海軍航空隊)の読書メモ | キジバトのさえずり(鳩に執着する男の語り)

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■軍用鳩の本を読む1『軍鳩』(武知彦栄。横須賀海軍航空隊)

 

 毎回、軍用鳩に関する本を取り上げて、気になった記述をメモしてゆく。

 今回は、武知彦栄大尉の『軍鳩』
 読みやすさを考えて、佐々木末光さんが編集した復刻版(2007年)を使用する(誤字脱字の訂正のため、適宜、原本も参照)
 興味を持った方がいたら、この復刻版の『軍鳩』を購入してほしい。お手頃な価格で買える軍用鳩の本は、今のところ、これ1冊だけである。

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・例言(1ページ)

軍用伝書鳩の意を略し名づけて『軍鳩』

 

↑軍用伝書鳩の略称が軍用鳩(ぐんようばと)、軍鳩(ぐんきゅう)である。
 ちなみに、雑誌『帝国海軍』(昭和9年7月号)に載っている記事「軍鳩に就いて」(横須賀防備隊軍鳩班 萩原春午郎)に、以下のような記述がある。
 
***
 
 軍鳩とは海軍に於ける呼び方で、陸軍の軍用鳩、また一般世の中で呼ぶ伝書鳩と同一種族の鳩であることは申すまでもない。
 
***
 
 この記述を信ずるならば、陸軍では「軍用鳩」、海軍では「軍鳩」と呼ぶ必要があるが、陸海軍の史料を見る限り、必ずしもこの呼称法にのっとっていない。ときに「軍用鳩」、ときに「軍鳩」、ときに「伝書鳩」と、陸海軍の将兵らは自由にこれを呼称している。
 萩原の主張は、あくまで、「基本的にはそう呼ぶ傾向があった」くらいに受け止めておくのが無難であろう。
 
 
・例言(1ページ)
 
官制上にはまだ「掌鳩兵」(しょうきゅうへい)なる名称は出来て居ないのでありますが、私は軍鳩を鞅掌(おうしょう)する斯かる兵員を、便宜上そう呼んで置きました。

 

↑鳩兵(きゅうへい)なる言葉を聞くと、鳩の兵隊さん、すなわち、軍鳩そのものを指しているように思ってしまうが、実際は鳩係の兵隊のことをいう。

 

 掌鳩兵(海軍呼称)の略称が鳩兵であり、または鳩取扱兵(陸軍呼称)の略称が鳩兵である。
 海軍の軍鳩関連の文書を見ていると、たびたび「掌鳩兵」の字面を目にする。この「掌鳩兵」という言葉を作ったのが武知彦栄であったことは、特筆しておきたい。

 

 

・緒言(1~2ページ)

 無線電信が出現したから、軍鳩は無用であると云うので、吾海軍では、明治二十七年から同三十八年まで飼養し来たった軍鳩の研究を中止し、陸軍でも明治三十二年から同四十二年までの継続事業を放棄した。
 一体この考えは、独り我が日本人ばかりでは無く、欧米人も略(ほ)ぼ同様な誤解に陥ったのであったが、偶々(たまたま)今回の世界大戦中、頗(すこぶ)る激戦を極めた攻撃陣地に於ては、弾幕また弾幕、爆煙の過(よぎ)る所更に一物をも存立せしめざる阿鼻焦土(あびしょうど)の惨状と化し去り、巧妙精緻なる電気的通信機関は早くも緒戦期に於て破壊し尽(つ)くされ、回光通信は、硝烟(しょうえん)見る見る雲襲し来たって更に少しの用も為さず、況(いわ)んや毒ガスと爆弾に出逢っては、到底伝令兵の突破を許さないのであった。
 そこで斯(こ)んな事にかけては何事にも抜目なきドイツ人が率先して、鳩をかかる戦場の通信機関に利用し、頗(すこぶ)る偉勲を奏した為に、フランスでは、それこそ脚下(あしもと)から鳥が立った程の大騒ぎとなり、フランス全土の伝書鳩も直ちに動員召集せられたが、これをドイツの軍鳩に比較すれば甚だしき立遅れである。けれどもフランスの伝書鳩は、旧く然(しかれ)れども光明赫灼(こうみょうかくしゃく)たる歴史を持って居るから、狂瀾(きょうらん)を既倒(きとう)に挽回したのみならず、後に述ぶるが如く、世界大戦の全期間を通して、水際立ちて鮮やかなる功績を現わし世人を驚嘆聳動(しょうどう)せしめたものである。

 

↑無線電信の出現によって、海軍は1894年(明治27年)~1905年(明治38年)まで、陸軍は1899年(明治32年)~1909年(明治42年)まで、海陸それぞれ、軍鳩研究の継続事業を中止せざるを得なくなる。これは欧米も同じである。しかし、第1次世界大戦の勃発によって、にわかに軍鳩の価値が再認識される。
 
*藤本注・陸軍が軍用鳩を研究しはじめたのは、1889年(明治22年)または1887年(明治20年)後述。

 


・緒言(2~3ページ)

 一九一四年(大正三年)九月マルヌ大会戦に於てドイツ軍敗退するや、その第一軍が退却途上に在りし鳩を極力徴発し又は撲殺したること、数月を経てフランス第六軍司令部第二部の知る所となり而(しか)して同第二部がその行為を判断して『ドイツ軍占領地域内に在るフランスの間諜(かんちょう)とフランス軍との間の、鳩に依る通信を妨害せんとする意図に出(い)でしものであろう』とした。その後他方面に於ても同様の事実あることを発見せらるるに至り、鳩の利用方面に関し甚しく注意を喚起することになった。然(しか)るに作戦状態変化して北は北海より東南スイス国境に至るまで、一連不断の陣地を構築して寸隙を余さず、為に侵略せられたるフランス領土内と本国との通信は、オランダ・スイスを経由するか、若しくは在ドイツ中立国外交官に依頼するかの二途より無きに至り、鳩の利用は諸種の目的上益々用途を高め、即ち若干のフランス軍に於ては随意に軍鳩の編成に着手し、便宜に従い勤務法を定めた。一九一五年(大正四年)九月シャンパーニュ、アルトアの両方面の攻撃戦に於て及同年十月シャンパーニュの防御戦に於て、軍鳩の効果を確認しかつ第六軍に於ては諜報上屢々(しばしば)効果を認め、又その他の機会に於て偵察機関の情報を安全かつ迅速に伝達し得らるるを実験したるによりフランス軍総司令部は、若干の軍に有せし軍鳩の編成及び勤務を総合整頓し、之に関する教令を作製し、全軍に普及せしめたのであった。

↑ドイツ軍はマルヌ会戦の敗退後、その退却途上において、鳩を徴発・撲殺して歩く。フランス軍はこれを鳩通信の妨害と判断する。
 フランス領土内と、本国との通信は、オランダやスイスを経由するか、在ドイツ中立国外交官に依頼するかの2通りに限られてしまう。これを受けてフランスは、本格的な軍鳩部隊の編成に着手する。
 軍鳩の編成やその勤務について、総合的に整頓し、教令を作製、フランス全軍に普及させる。


・緒言(4ページ)

 英京ロンドンの如きは、今次の大戦中、ドイツ軍の手に斃(たお)されたる軍鳩の勲功を大々的に表彰し、その英霊を弔わんが為に、天下の貴紳淑女が一場に会同し頬(すこぶ)る盛大なる亡鳩追悼法会を営んだと云い、又戦後、アメリカ海軍省の発表せる所によると、この世界大戦の末期十ヶ月間に、アメリカ飛行隊所属の鳩は、実に、二百十九台の遭難飛行機(水上機)を救出し、中には八十時間も海上を漂流した、ストーン飛行少尉までも救助されたのである。そこでアメリカでは、鳩の偉勲に鑑み、今日、アメリカ全土の鳩は悉(ことごと)く政府に登録せられ、アメリカ政府は必要に応じ、随時これらの鳩に動員令を下し得る組織と為った


・(6~41ページ、「軍鳩の歴史」「鳩に関する諸伝説」。重要な記述が多いが、分量が多いので、一部の引用を除いて割愛する)


・(24~28ページ)

 (海軍)我国に於ける軍鳩の研究は、明治二十七年二月、海軍が横須賀鎮守府構内に鳩舎を建設し、アメリカ産鳩「エンゲージキャリヤー」を飼育したるを嚆矢(こうし)とする。此年は、偶々日清戦争の勃発した年で、横須賀鎮守府鳩舎は、同年十月五日、広島大本営よりの電命に接し、アメリカ種鳩十二羽、イタリア産鳩十三羽、合計二十五羽を、佐世保鎮守府に送り、同地に新鳩舎を建設し、佐世保対馬間の連絡を試みたけれども、常事者の不慣れの為と、平常何等の準備無く、然も其成果を見る事を急ぎし為に、翌年正月十六日、壱岐島沖より放鳩(五羽中二羽帰着)したるを最後の成功とし、同月二十三日、壱岐国郷の浦より放鳩した最後の二鳩を失踪した事により、この計画は全然失敗に終った。併し空中通信としての鳩の有効なる事は、認められて居たる時代であったから、この失敗とは無関係に、海軍に於ける鳩研究は漸次隆盛となり、その後イギリス、ベルギー種の優良鳩を輸入(軍艦吾妻便にて)し、横須賀、佐世保、舞鶴、鎮守府、竹敷要港部、其他海軍望楼に於て、盛んに飼養されたけれども、研究の方法宜敷を得なかった為に(鳩の飼育訓練は、主として学識なき傭人之を所掌し、且研究の方法徹底的に非ざりし為か)鳩は何等、海軍の為に貢献する所なく、しかのみならず無線電信の発明は鳩の声望を更に低下し、海軍当局は、明治三十八年、鳩の研究を廃止した。然るに今次の世界大戦中、鳩の有効なる事を認められた為に、横須賀海軍航空隊に於て、鳩研究が個人的に再興せられ、大正七年八月、大阪好鳩会より種鳩八羽の分譲を受け、八島大尉主任となり、飼育訓練に従事したけれども、其経費は全部士官室士官の寄付によるものであったから、財源に限りが有り、訓練等も思うに任せぬ状態に置かれた。
 大正八年六月、武知大尉外下士卒五名が命を受け、此年陸軍で組織した、軍用鳩飼育訓練研究に参加し、フランス人教師に就き教えを受け、同年十二月修業帰隊し、翌大正九年三月下旬、鳩舎竣工と共に、陸軍軍用鳩調査会より分譲を受けたるフランス種仔鳩百羽を(経費の都合上鳩数百羽に限定)基幹とし、主として海上方面に於ける使鳩術、その他に就いて研究する事になり、水上飛行機の非常通信用として準備せられて居る。此等の鳩は、東は金華山沖、南は八丈島、西は潮岬方面に訓練せられ、大正十年七月十三日迄に、左記の飛行レコードを作った。

 

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 (陸軍) 我陸軍に於ては、明治三十二年、中国方面より伝書鳩を輸入し研究を始め、同三十四年には、ベルギーより種鳩三百羽を輸入し、東京市外中野鉄道大隊に於て飼育し、対馬下関要塞等にも鳩分遣所を設け、更に明治三十五年にはドイツ鳩百五十羽を輸入し、且つイギリス・アメリカ・イタリア(海軍々鳩)各国種に就き研究した。日露戦争当時、旅順の敵軍が発送する鳩通信を妨害する事、可能なりや、の問題を解決せんが為に、鷹と鳩との競争が、代々木練兵場、或は富士裾野等で行われた。此の実験には、先帝陛下より特に御下賜金があり、宮内省主猟寮にては、特に腕自慢の鷹匠を選抜して、鷹の準備を行わしめたのであるから、実験の当日は随分鮮かなる手腕を示したと云う事である。けれども随時に使用する鳩を待機の姿勢にある鷹を以て捕獲する事は、甚だしく困難なる問題であって、日露戦役中鷹は戦場に使用されなかった。日露戦争中、陸軍当局は台湾方面に沢山の鳩を配置したけれども、鳩は機械と異り、事前に於て準備せられねばならぬものであるから、此時も骨折損と云う結果に終り、何等得る所がなかった。

 

 その後、明治四十二年、陸軍も全く伝書鳩研究を中止したが、会々(たまたま)今次の世界大戦の成績によって、原始的通信には、又技術的各種通信機関に卓越した妙味ある事が確認せられた為に、陸軍はシベリア派遣軍に使用する目的にて、フランス政府より軍用鳩千羽、並に鳩車四輌、其他鳩舎要具類の割譲を受け、同時に鳩術教官、フランス砲兵中尉クレルカン氏外二名の軍曹を傭聘し、又軍用鳩調査会を組織し、鳩研究を再興した。鳩並に器材は大正八年三月下旬、東京市外中野陸軍軍用鳩調査会に到着し、調査会は各師団より将校並に下士卒を召集し、鳩飼育訓練並に使用法に関する講習を開始し、大正八年七月には、鳩通信班を編成し、シベリアに派遣し、其後朝鮮、サハリンにも鳩通信班を派遣し、各鳩通信班は、戦時通信に従事し、立派なる成績を示し度々感状を貰って居る。内地にある鳩は、大正八年十一月、阪神地方に行われたる特別陸軍大演習に参加(鳩軍)し、又各学校には軍用鳩分置所を設け、鳩車の研究は漸次確実なる進歩発展をなし年経費十数万円(大正八年度十八万円)を支出して、研究を徹底的に行っている。
 
↑武知彦栄の著書『趣味と実用 鴿の飼い方』(内外出版)に、陸軍の軍鳩導入年について、訂正文を載せている。
 以下に引用しよう。

***

 拙著「軍鳩」並に「伝書鳩の研究」第一章伝書鳩の歴史の項に於て我陸軍では明治三十二年から伝書鴿を軍用の目的で飼育し始めた様に記述して置きましたが其の後の調査に於て明治二十二年支那から伝書鴿数十羽を輸入して陸軍工兵会議で研究を開始した事実が確められましたから訂正致して置きます。茲に掲ぐる所の題字を寄せられた石川潔太閣下は実に陸軍部内に於ける伝書鴿研究の先駆者でありまして閣下は駐在武官として清国北京に滞在中(自明治十八年至る同二十二年)伝書鴿術に興味を持ち之を実地に研究し明治二十二年帰朝の際伝書鴿数十羽を携帯して帰り我が陸軍部内に伝書鴿術を伝へられたのでありました。
 
***
 
 ただし、「1889年(明治22年)説」は、陸軍工兵会議を通した「組織的な」鳩研究であって、そもそもの鳩飼養の提唱者――石川潔太中尉(最終階級・陸軍少将)は、すでに1885年(明治18年)から、「個人的に」鳩研究をはじめている。
 なお、大方の史料は、武知彦栄が述べる「1889年(明治22年)説」よりも2年早い、「1887年(明治20年)説」を採用していて、陸軍の「鳩はじめ」を「明治20年(1887年)」もしくは「明治20年頃(1887年頃)」と記述している。これは明治20年(1887年)に陸軍省が浅草のドバトを捕まえて放鳩試験していることを踏まえているものと思われる。
 最近の研究(軍事史学会『軍事史学』〔186号〕所載――柳沢 潤「日本陸軍における初期の伝書鳩導入」)でも、「1889年(明治22年)説」が採用されているが、私としては「明治20年(1887年)説」が一番しっくりくる。
 
 
・47ページ


 伝書鳩飼育の伝播経路は、シリアよりギリシャ(紀元前五世紀頃)に伝わり、更にローマに伝わり(ローマ人は、ヨーロッパに遠征した時に、征服地の全土に亘り鳩舎を設け、駅伝法により、諸情報を、本国ローマに逓送〔ていそう〕した)其後全ヨーロッパに広がったものである。


・82~83ページ

一般に白色の羽毛は羽質弱く、殊に伝書鳩に在りては、猛鳥の目標と成り易い為に屢々被害を受くる原因を為すものであるから、斯色のものは鳩舎より除去すべきものであろう。


・248~249ページ

往復鳩通信に於ては、毎日規則正しく定期航路を飛翔せしめるもので、猛鳥の襲撃を受け易いものであるから、その羽色は、なるべく、暗きものを選び鮮明なるものを除かねばならぬ。


・91ページ

 「国家は力なり」と云う見解よりする時は、専制政体は最も理想的のものであるけれども、他の反面に於て弊害の伴うものであるから、茲に立憲政体が案出された


・95~96ページ(鳩兵の具備すべき性能)

(1)動物に対する理解力
(2)鋭敏怜悧(れいり)なる観察眼を有し、注意周到なる心掛けあること
(3)責任観念強く
(4)忍耐力に富み、研究心強く
(5)強固なる意志を有し
(6)絶大なる服従心あり
(7)独断専行能力を持つこと
(8)温和、懇切、潔癖の性向あること等


・112ページ

伏卵中の卵は、途中に於て冷却するか、或は轟々たる砲響を受くれば、腐敗して孵化せざるものである。前者の例は、冬期中の伏卵にこれを見、後者の例は、嘗(かつ)て横須賀鎮守府鳩舎が号砲台の付近にありたる時に見たる実例である。
 又空気甚しく乾燥する時にも、伏卵中の卵は腐敗するものである。即ち千八百五十七年(安政四年)の大旱魃に、イタリアの伝書鳩の胎鳩は沢山卵殻内で死んだことが有る。


・125ページ

 フランス人クレルカン氏は、絶対に小麦を使用すべからず、小麦は「ミューゲー」症を惹起する基因を為すと主張して居る。実際、小麦は、その貯蔵法不良なるときは発酵し易き物質に変性し易いものであるから、クレルカン氏の経験より得たるこの説は尊重すべきものである。

↑現代の恵まれた貯蔵環境・貯蔵法で考えてはならない。

 

 戦前戦中の当時で、しかも、前線にある軍用鳩に与える飼料なのだ。
 この前提のうえで、クレルカン中尉は、
「絶対に小麦を使用すべからず」
 と、述べているのである。

 


・158~160ページ

 千八百七十九年(明治十二年)十二月、年齢凡そ四歳乃至八歳の伝書鳩十二羽は、フランス・パリ市よりイタリア・ボロギヤ市の陸軍鳩舎に移殖された。
 これ等の鳩は、皆悉(ことごと)く善良の体格を備え、その形態美麗にして、一見敏捷且つ敢為にして、頑丈なる飛翔者たる印象を与えるものであって、その羽翼には、遠距離飛翔に従事したる徴証(ちょうしょう)を印し、その優良鳩なるの証明を持って居た。ボロギヤ鳩舎に於ては、これ等の鳩が再び旧鳩舎に回帰せんことを恐れ、これを予防せんが為に、別って一区画内に閉鎖し置きたるに、彼等はその新鳩舎内に閉鎖せらるる事の痛く不愉快なるを感じ、第一日は毫(ごう)も餌を啄(ついば)まず、第二日には少量の餌を食し、数日間を経過するに及んで、漸(ようや)く通常の如く餌を食する様になったが、若し同区画内に他鳩の在る場合には、決して食餌をとらなかった。
 これ等の鳩は雌雄各々六羽であって、既に述べたる如く極めて強壮活発のものであったが、其切に旧棲処(すみか)に回帰せんとする希望を有して、恰(あたか)も出発時刻を今や遅しと待つものの如く、終日窓間に止りて他を顧みず、毫(ごう)も生殖に従事しない。茲に於て鳩養成者は、彼等をして交媾(こうこう)の欲望を発生せしめんことを勉め、百方手段を尽したけれども、一つも好結果を挙げることが出来なかった。此際、イタリア人が執りたる手段と称するものを見るに、初め先ず彼等の巣舎内に、最も敢為(かんい)なる他の雄鳩を雑居せしめ、次で又交媾を非常に希望する他の雌鳩を混入せしめたるに、孰(いず)れも皆水泡に属して、毫(ごう)も彼等の意向を感動せしめることが出来ない、依って更に又右混住せしめたる諸鳩を、試に伏卵の為に設けたる巣房内に入れ、これを閉鎖したるに、彼等は終日沈黙して苦痛を感ずるものの如く、却(かえっ)て一層不良の結果を現わした。又雄鳩と雌鳩とを分離別居し、数日間を経過したる後、更に再びこれを同居せしめ、その嗜好する餌量を増加してこれを試みたるも、是(こ)れ亦(また)徒労に属し、毫(ごう)も奏功せず。その他各種の手段が講ぜられたけれども、鳩は一切無頓着で、一つも好結果を得ることが出来なかったのである。
 漸く千八百八十年(明治十三年) 八月に至り、二番(つがい)の鳩が始めて交媾を為し、他の三番(つがい)の鳩は千八百八十一年四月に、残りの一番(つがい)の鳩は同年の六月に至って交媾し、繁殖の業務に従事した。
 即ちパリよりイタリアに移殖せられてより二ヶ年後(精〔くわ〕しく言えば九ヶ月乃至十九ヶ月後)始めて交媾をしたのである。併(しか)し此の二ヶ年間、此等十二羽の鳩は、始終交々、望郷病(ホームシック)に罹り甚しく衰弱し、幸いにして死を免れたるのみで有ったと云われて居る。

↑鳩の引っ越しが、なかなか困難であることが分かる。


・163~164ページ

 嘗(かつ)て(大正七年)横須賀海軍航空隊に於て、鳩舎を鳩の不在中、水平距離約四十米、垂直距離約十五米上方、方向西、の山腹に移動した事があったが、日没頃帰来せる鳩は、何れも旧鳩舎位置上に下降し、一集団となりて、其儘(そのまま)夜を徹せんとするの状況を示した。これを新位置に移転したる古鳩舎に収容する手段として、養鳩手(大津一曹)は、地上に豆を撒き、漸く鳩舎に迄誘導し収容することを得た。その後これと同様の事実に、陸軍の鳩車移転の訓練中、度々遭遇したと、渡邊砲兵大尉は発表した。
 然らば原則として、鳩は鳩舎に愛着するものであるか、或は土地に執着するものであるか、その程度に大凡(おおよそ)幾何の差があるか。動鳩舎の研究に従事せんとする者の、先ず識(し)らんとする所のものであるけれども、現在に於てはこれを解説するに足るべき程度の材料を持たざることを甚だ遺憾とする。
 鳩の場合に於ては、「江山洵美之我郷」と謳歌する吾人の心理状態と同一なる、状態より来るや否や甚だ不明なるも、強(あなが)ち否定も出来ない。我生家の門前の小川が世界の中で一番清き流であったり、村の寺院の塔の恰好(かっこう)や、鎮守様の森の景色が忘れられなかったりする様に、鳩にもこれと同様の関係が有ると云っても差支(さしつかえ)がない。
 嘗(かつ)ては鳩舎であったけれども、その後内部を改築して、無線電信の発電所と為し、瓦斯(ガス)機関を据付(すえつ)け、その内部には、鳩の休憩すべき棲止木(せいしぼく)の代用物さえもなき建物の内部に、硝子窓の破れ目より潜り込み、追っ払われてその軒端に一夜を明し、空腹になって始めて新鳩舎に帰来した、横須賀海軍航空隊の鳩の如きは、約三ヶ月間、その管理に就て、私等を苦しめたものであるが、この性質は、火山の爆発によりて、難を他島に避けたる青が島や、桜島の住民が、大洋中の一青螺島(せいらとう)に、又荒廃の極み耕すべき地積もなき桜島に、噴煙の収まるを待ち兼ねて、帰投したその隣むべき心情は、硝子窓の破れ目より発電所に潜り込む鳩と極度に相似たりと謂うべきでしょう。

 
↑鳩の引っ越しが、なかなか困難であることが分かる。
 
 
・189ページ

 既に古代のアラビア人は、伝書鳩の行為を賞賛して『鳩は最も精励なる配達夫が、尚数日間を要する道程を最も短時間内に通過し、而かもその間疲労を感ずることなく、速に信書を伝達し得るもので、信書伝達速度の迅速なることは、とても世人の考え及ばざる所である。実に鳩は受けたる使命を忠実に遂行し、その成績は陸上の使命者に比し遥に優秀である。彼等は雲を手綱とし、翼を乗馬に代え、大空を道路に取り、風の保護を受けつつ飛行す云々』と言って居る。
 実に数世紀前、ペルシア伝書鳩はバビロンとアレツポ間を四十八時間で飛翔した。この行程は健脚を誇る歩行者と雖(いえど)も、猶(な)お一ヶ月の日数を費すに非ざれば到達することの出来ない長距離である。
 
↑古代のアラビアで伝書鳩が使われていたことが分かる。
 また、数世紀前に、ペルシャで、バビロンとアレッポ間を48時間で飛翔した伝書鳩がいたそうである。
 
 
・190ページ


鳩の通信精度は距離の増加に反比例して不良となるを免れない。例令、千九百十三年(大正二年)ローマ、イギリス間千〇〇一哩を、飛翔せしめたる成績に就て云えば、放鳩数百〇六羽中、イギリスに帰着したものは僅に二羽であった。故に、確実にして迅速なることを要する軍用通信に、鳩を使用せんとする場合には、必ず鳩の能力に就て吟味したる後に非ざれば、信文を依託すべきものでない。徒に僥倖(ぎょうこう)を期して無謀の行為に出ではならぬ。
 一般に軍事上三百粁以上の鳩通信は、特別なる場合、又は既に能力の証明せられたる第一流の鳩でなくては、使用すべきものでない。

↑確実にして迅速なることが軍用通信の要件。
 この軍用通信に鳩を用いる際には、特別な場合を除いて、300キロ以上の通信は控えるべきである。


・193ページ

 鳩は、その能力の範囲内に於て使用すれば、その通信精度は甚だ良好なるものであって、之を世界大戦中のフランス軍の鳩に就て調査するに、従軍鳩の減耗率は極めて少数である。乃ち、

戦役中一ヶ月の鳩減耗率
陸上静鳩舎 〇、五%
陸上動鳩舎 一、五%

 尚従軍せるフランス人クレルカン氏より、親しくその経験を聞くに、飼養鳩五千乃至六千羽中、一ヶ月に喪失せる数は八十羽乃至百羽に過ぎざりしと云う。

↑軍用鳩通信は、これを適切に運用すれば、その通信精度は高く、被害はほとんど生じない。
 すこぶる、優れた通信法といえる。


・205ページ

頗(すこぶ)る秘密を要する場合には、かかる通信書を極小なる管に入れ、鳩の嗉嚢(そのう)の裡(うち)へ挿入して放鳩し、その目的地へ到着したる時は、この管を摘出することがある。

↑鳩が通信文を携行していないように見えても、こんなやり方がある以上は、鳩の体内を調べる必要があることが分かる。


・208ページ

 

 

 

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 動鳩舎移動後の馴致時間は、鳩車にて約三日、軽便鳩車にては約七時間、海上鳩舎にては入港後約一時間である。併しこれ等の日子若しくは時間は、将来の研究によりて益々短縮され得る見込のあるものである。
 
*藤本注・画像上が鳩車、画像下が軽便鳩車。武知彦栄『伝書鳩の研究』より引用。

 


・227ページ

 鳩車は一八九七年(明治三十年)頃、フランス騎兵大尉レイノウ氏の考案に始まり、その後幾多の辛酸を舐め、遂に一九一六年(大正五年)乃(すなわ)ち約二十一年の後完成し、世界大戦中、フランス戦場に於て顕著なる効果を現わし、世人を驚嘆せしめたものである。


・229ページ

動鳩舎の通信距離が、現在約五十粁以内に限られて居ることは又止むを得ない事である。フランスに於ける実験に徴すれば、静鳩舎の鳩は、起伏なき土地に在りては、中等価値の鳩にて鳩舎を中心として描きたる半径百粁の円周中より、又優良種に在りては二百粁を半径とする円周中より放鳩するも通常好成績を挙ぐる事を証明して居る。

↑動鳩舎と静鳩舎の通信距離の違い。
 動鳩舎は約50キロ以内の通信に限られるが、静鳩舎は半径100~200キロの円周中から放鳩しても好成績を収められる。


・252ページ

夜間通信用として鳩を飛ばしたのは、事物の研究に忠実で然も天才的のフランス人が始めた事で一九一七(大正六年)に成功した。


・253ページ

 夜間鳩通信の有名なる実例は、世界大戦中、一九一八年(大正七年)九月十三日、サンミエール戦線に於けるアメリカ・フランス連合攻撃の際、午前一時緊急通信文を結び着けて放った鳩が、同日午前一時五十五分、乃(すなわ)ち出発後五十五分間に四十粁の距離を飛翔しコンメルシーの鳩舎に帰着して、重大任務を遂行し、世人の驚嘆を引き起した事である。この事件に付て更に驚くべき事は、この鳩は平素二十五粁までしか訓練して無かった事と、当日は真の暗夜(月齢二)であった事である。

↑深夜の1時(真っ暗闇)に飛ばした鳩が、40キロの距離を翔破して、鳩舎に帰ってくるとは、すごい話だ。実に優秀な軍用鳩である。


・259ページ(鳩は船酔いする)

鳩は明に船暈を感じ、不快の形相を示すものである。船暈甚しきに至れば、彼等は人と同様に嘔吐を催す。