映画『椿三十郎』の視聴メモ | キジバトのさえずり(鳩に執着する男の語り)

キジバトのさえずり(鳩に執着する男の語り)

本家→「知識の殿堂」 http://fujimotoyasuhisa.sakura.ne.jp/

■20以上のシーンを確保

・1本の作品を幾つのシーンに分けたらいいのか論理的に説明することができない。うっかりすると、西尾維新の小説(物語シリーズなんか特に)のように、だらだらとおしゃべりだけが続いてしまう(少ない場面転換)。西尾維新のやり方は、彼が優れた書き手だから成立するのであって、常人はまねしちゃいけない。
 考えても指針が見つかりそうにないので、俺の大好きな映画『椿三十郎』にならうこととする。

・独自に、『椿三十郎』の各シーンを数えたら、22の場面に分かれていることが分かった(似たようなところを一緒にまとめ、可能な限り少なく見積もる)

・1本の映画を起承転結の4つの章に区切り、さらにその章をそれぞれ4分割(起承転結)すると、いや応なく、16のシーンに分けられる。
 『椿三十郎』にならって、22のシーンを確保しようとすると、起承転結で割った4つの章をそれぞれ5分割すると、うまくいく。およそ20のシーンを確保することができる。


■『椿三十郎』の好きなところ

・馬面の城代家老のキャラクター(3悪人の悪だくみを見抜いていて、後々、彼らを隠居させるつもりだった。穏やかな形で物事を解決しようとしていた)

・城代家老と大目付・菊井の人物の大きさを見誤る若侍たち

・三十郎が若侍たちの考えの甘さを指摘する(「いいか、城代はもっとはっきり言ってるぜ……一番悪いやつはとんでもねえところにいる……危ない危ない……」)

・城代家老の奥方が三十郎のことを、鞘のない刀と評し、いい刀は鞘に収まっている、と述べる

・光明寺に山門がないくだり

・三十郎が仕方なく敵を何人も斬り捨てた後、そうした事態を招いてしまった若侍たちに、とんだ殺生をした、と言って平手打ちする

・木村(引っ捕らえた、敵方の侍)のコミカルなキャラクター(奥方のほのぼのしたキャラクターとつながって表現されている)

・奥方の優しい人柄(上記の木村に加え、すぐに荒っぽい手段に訴える三十郎も、彼女には頭が上がらない)

・三十郎のような無頼漢が、きれいな紋服を着て、お城勤めできるわけがない、と言う城代家老(わしには困る、と言って、三十郎が戻ってこないことに、ほっとする)

・三十郎と室戸の決闘シーン


■全体的な感想

・俺が一番好きな映画。完璧。ことに脚本がべらぼうにいい。はじめてこの映画を見たとき、あまりの面白さに胸が躍った。そして、黒沢 明のファンになった。
 一般的に、『椿三十郎』よりも、前作『用心棒』の方が人気がある。しかし、俺としては、『椿三十郎』の方を愛している。切れ者ではあるが乱暴者の三十郎が、城代家老の奥方に感化されて、非暴力主義者に成長していくところがいい。
 前作『用心棒』では、三十郎の人間的な成長は描かれなかった。『椿三十郎』で、はじめて、三十郎は今までの考え方を改める。しかし、同時に、三十郎の成長は、侍アクション映画としては命取りになる。何せ、三十郎は、暴力を否定するようになったのだから。
 三十郎は、室戸との決闘を最後に、刀を振るうことを封印したのかもしれない。
 少なくとも、三十郎は安易に刀を抜くような男ではなくなった。侍アクション映画としては、もはや成立しない。
 ぎりぎりのところで、この作品は終わっている。
 敵を次々に斬り伏せていく、爽快な商業映画としての要請と、人としてのあるべき姿を主人公に託す、制作陣の文芸路線が火花を散らす。
 見ているこっちが、「これ、どうすんだ」と、悩んでしまうくらいに。
 三十郎の平和主義者への転向は、娯楽アクション映画としてアリなのか?
 俺はいまだにこの問いに答えられていない。
 『椿三十郎』のファンも、そう簡単に答えられないだろう。
 いや、だからこそ、『椿三十郎』の続編は作られなかったのだ。作れなかったのだ。
 制作陣は覚悟のうえで、三十郎物の最後の作品として、本作を作ったのであろう。