『学問のすすめ』(斎藤 孝現代語訳) | キジバトのさえずり(鳩に執着する男の語り)

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・十数年以上前の話になるが、アルバイト先で出会ったN君(当時二十二歳。大学四年生)のことが忘れられない。
 N君は愛嬌(あいきょう)があって、話術にたけていたので、みんなの人気者だった。
 男はみんな、N君と友達になりたがり、幾人かの女はN君に恋をした。
 N君はすでに、大手の会社から内定をもらっていて、大学卒業と同時に恋人と結婚する予定になっていた(できちゃった婚)
 当時の俺は、そんなN君に憧れるとともに、彼のことを軽蔑してもいた。
 N君のことが好きな俺と、N君のことが気に食わない俺が同居していたのである。
 N君が目の前にいれば、N君とおしゃべりできることがうれしくて、心を弾ませながら会話する。しかし、N君が目の前にいなければ、N君に関した、悪意のこもったうわさ話をする……。
 俺の性格が素直じゃないのは認める。しかし、俺をそういう風にさせる理由があったのだ。
 N君は、善悪を考えない男だった。
 つまらないやからであっても、お構いなし。
 誰とでも分け隔てなくつき合う。
 だからこそ、文字どおり、みんなの人気者だったのである。
 正義感の強い人であったら、つまらない者とつき合うことを嫌がる。しかし、N君は善悪の感情で相手を判断しないので、利があると見れば、その人と遊びに行ったり、友達になったりする。
 だから、汚職政治家に関するニュースを耳にしても、
「ばかだな。どうして、バレないようにできないんだろう」
 などと、N君はのたまうだけで、汚職政治家の不実を責めることはない。
 つまり、俺とN君が、ともに汚職政治家をののしっていたとしても、その理由は全く異なっていたのである。

 そんなことがしょっちゅうあったので、N君の話術や愛嬌(あいきょう)に引き込まれている自分が、恥ずかしく思えた。しかし、いざ、N君がアルバイト先に現れて、
「よっ、ふじもっちゃん。今日の勤務よろしくね」
 なんて声をかけられると、今日一日、N君と楽しい会話をしながらアルバイトできることに俺は胸をときめかせた。
 N君とおしゃべりできるだけで、つまらない単純労働が、実に楽しいものになる。
 (俺が女だったら、N君に金を貢いで、人生を踏み外すんだろうな。男でよかった)
 などと、何度思ったことか。
 ちなみに、好嫌入り交じったN君への思いは、ほかのアルバイト仲間に感づかれていたらしく、
「N君は一部のやつから嫉妬される。特に、駄目なやつに」
 などと、遠回しに俺は批判されたことがある。
 その指摘は全くもって正しい。
 俺は間違いなく、N君に嫉妬していた。
 (N君のように軽妙な会話ができて、損得勘定にシビアになれたら、いいな。女の子が楽しそうにN君と会話している光景を見ると、無力な自分を思い知らされる。俺が自信を持って、今、話せることといったら、小林源文の戦争漫画とガンダムしかない。そんな話題、どこの女の子が喜ぶんだよ! 事実、俺が珍しく女の子とデートしても、会話が全く弾まない。せっかくのデートだというのに、面接会場のような緊張感が走る。何で俺は、N君みたいに、意味のない、軽いトークができないんだろう)
 と、よく思ったものである。

 そんなN君と俺が、ある日に交わした会話が、いまだに俺のしこりになっている。
 その当時は、小林よしのりの『戦争論』が話題になっていた。
 そこら辺から、国のあり方について、N君と考えていたときのことである。
 俺はN君に、こう問いかけた。
「仮定の話をしよう。もし日本がアメリカに併合されてしまったら、N君はどうする? 俺はそんなことになったら、日本刀と手榴弾で武装して、米兵の列に斬り込む。皆殺しにしてやる!」
 N君は、こう答えた。
「いや、別に、国がアメリカになっても、俺の家族や友達がそのままで、今の暮らしが維持されるなら、全然構わないよ。国なんて、日本でもアメリカでも、どうでもいい」
 俺はN君の言葉を聞いて、耳を疑った。
 まさか、そんな答えが返ってくるとは思いもしなかった。
 売国奴のような発想じゃないか。
 俺は頭に血がのぼってしまって、N君に詰め寄った。
「本気で言っているのか? 君は、国や民族を思う気持ちはないのか。生かされている気持ちはないのか。感謝する気持ちはないのか。そんな罰当たりなことを言って、許されると思うのか」
「本気で言っているよ。ふじもっちゃんが言う、国だとか民族だとかの発想が全く分からない。この埼玉県、この川口市、でもいいけど、故郷という概念もよく分からない。俺がリアリティーを持って感じられる愛着は、家族や友人関係がせいぜい。だから、国・民族・故郷がどうなろうとも、俺には関係ない。俺の暮らしが今と変わらないなら、どう変わろうが、変わったことにならない」
「国や民族、そして、文化と伝統が受け継がれているからこそ、君の家族や友達が平穏に生活できているんだろうが。国が奪われて、今の暮らしが維持できるわけないだろうが」
「いや、それは違う。俺の家族や友達がそのままで、今の暮らしが維持されるという仮定なら問題ないと言っているだけだ。今の暮らしが維持できないのなら、日本がアメリカの一部になるのは同意しない」
「その自分だけがいい、という考え方が納得できない。この世の中には損得で勘定することのできないものがたくさんある。そういったものの価値が分からないやつは、人であって人でない。もう一度、言うぞ。本気で言っているのか?」
「本気で言っているよ。ふじもっちゃんがどう言おうとも俺は考えを変えるつもりはない。むしろ、ふじもっちゃんこそ、本気で言っているのか。日本刀と手榴弾を持って米兵の列に突っ込んでも、状況は何も変わらない。米軍が報復として住民を虐殺するかもしれない。そして、何より、ふじもっちゃんも死んでしまうじゃないか。その死にざまに意味はあるのか」
「意味があるから、俺は斬り込むんだ。それに、俺が斬り込まなくても、ほかの誰かが斬り込むよ、きっと。その斬り込む気持ちを失ったら、奴隷に成り下がるからな。人は生命よりも大切なものがあると信じられるから、人らしく生きられる。何もかもをかなぐり捨てて、利己主義のみで生きてしまうと、無意味な人生を送ることになるぞ」
「ふじもっちゃんこそ、無意味だよ。格好つけてばかりいないで、本音で語ってよ。本当はそんなことしたくないでしょ。命が惜しいでしょ。いいじゃない、国がアメリカになったって。個人の生活は何も変わらないという仮定なんだから」
「確かに、俺は格好つけて、ものを言っている。笑ってもらって構わない。眼前を闊歩する米兵たちを前にして足がすくみ、斬り込めないかもしれない。しかし、たとえそうなってしまったとしても、俺がここで、斬り込むと宣言するだけでも意味がある。気概を示しているからな。
 正直言って、米兵の列に斬り込む価値なんて、ほとんどない。N君の言うとおりだ。そんなことは分かっている。しかし、そうせざるを得ない、男の気持ちってもんがあるだろうが。そういう感情、N君にはないの?」
「ないね」
「そうかい」
 以上のようなやり取りがあって、この話題はそれ以上続かなかった。

 その後、俺とN君の関係が壊れてしまったかというと、そんなことにはならなかった。俺が一人で熱くなっているだけだったからだ。
 N君はひょうひょうとした様子で、終始、いつものような態度を取っていた。
 俺が結構な勢いでN君に詰め寄っているのに、N君は笑顔を絶やすことなく、俺の相手をしていた。
 実にN君らしい。
 俺のようなヒートアップしやすい男のかたわらには、N君のような冷静な男(参謀役)がいたら、うまくいくのかな、と、あとで思ったものである。
 さて、この日の会話が今になっても心残りになっている。
 俺はあのとき、どう言ったら、N君を説得することができたのだろうか。
 その答えがずっと分からない。
 雨降りの午後なんかに、部屋で一人寝転がっていると、N君の顔が浮かんできて、このときの会話がよみがえることがある。
 たとえ、N君を論破することができなくとも、もっと的確なことが言えたはずだ。
 それこそ、俺ではなく、N君をヒートアップさせなければならなかった。
 N君の表情を変えさせるくらいの、説得力のある意見を俺は言う必要があった。
 N君を本気にさせたかった。
 俺はもう三十代の半ばだというのに、二十二歳当時の俺が思いついた意見しか、今も言えない。
 ずっと、もやもやしている。
 しかし、先月、福沢諭吉の『学問のすすめ』の現代語訳版(斎藤 孝訳)を読んでいたら、N君への答えがこの本に書いてあった。
 第三編の「愛国心のあり方」という部分だ。
 要するにN君は、アメリカの植民地でも構わない、ということを主張している。
 この弊害を、福沢諭吉の言葉を借りて批判すればいいのだ。
 俺と違って、かの福沢先生が言うのだから、説得力はある。
 十数年に及ぶ胸のつかえがやっと取れた。
 以下、『学問のすすめ』(斎藤 孝現代語訳)から、該当箇所を引用する。


***

第3編 愛国心のあり方

国同士もまた対等

国同士にも道理あり

 人間と名がつくものであれば、金持ちでも貧乏人でも、社会的強者でも弱者でも、人民でも政府でも権理(これは第二編でもそうだが、英語でいう「ライト(right)」のことである)においては違いがない、というのは、第二編で述べたとおり。
 この編では、この考えを押し広げて、国と国との関係について論じよう。
 国とは人の集まったもので、日本国は日本人の集まったものであり、イギリスはイギリス人の集まったものである。日本人もイギリス人も同じく、天地の間に生きる人間であるから、お互いにその権理を妨害するという道理はない。一人の人間が一人の人間に向かって危害を加えるのに道理がないなら、二人の人間が二人の人間に向かって危害を加える道理もない。百万人でも一千万人でも同様で、物事の道理を人数の多い少ないで変えてはならない。
 いま世界中を見渡してみると、文明が開けているということで、学問も軍備も盛んで、経済的に豊かな強国がある。一方、野蛮で文明も開けておらず、学問も軍備も整備されていないで貧弱な国がある。一般的に、アメリカ、ヨーロッパの諸国は、豊かで強く、アジアとアフリカの諸国は貧しくて弱い。この貧富、強弱は国の現実のあり方であって、もちろん同じというわけにはいかない。なのに、ここで自分の国が豊かで強いからといって、貧しく弱い国に対して無理を加えるとすれば、これは相撲取りがその腕力で、病人の腕をへし折るのと変わらない。それぞれの国が本来持っている権理からいえば、許してはならないことだ。
 わが日本でも、今日の状態では、西洋諸国の豊かさ強さにはおよばないところもあるけれども、一国の権理ということでは、少しも違いはない。道理に背いた非道なことをされた場合には、世界中を敵に回しても恐れることはない。初編でも述べたように「日本国中のみなが命を投げ出しても国の威厳を保つ」というのはこの場合のことだ。
 それだけではない。貧富・強弱の状態は、あらかじめ決められているものではない。人間が努力するかしないかによって変わるものであって、今日愚かな人も、明日には賢くなるように、かつて豊かで強かった国も、いま貧弱な国となることもある。古今にその例は少なくない。わが日本国民も、いまから学問に志し、しっかりと気力を持って、まずは一身の独立を目指し、それによって一国を豊かに強くすることができれば、西洋人の力などは恐れるに足りない。道理がある相手とは交際し、道理がない相手はこれを打ち払うまでのこと。一身独立して一国独立する、とはこのことを言うのだ。

***


個人の独立があって、国も独立する

愛国心とは何か

 このように国と国とは同等なのだけれども、国中の人民に独立の気概がないときには、一国が独立する権理を十分に展開することができない。そのわけは、以下の三点である。
 第一条。独立の気概がない人間は、国を思う気持ちも浅い。
 独立とは、自分の身を自分で支配して、他人に依存する心がないことを言う。自分自身で物事の正しい正しくないを判断して、間違いのない対応ができるものは、他人の知恵に頼らず独立していると言える。自分自身で、頭や体を使って働いて生計を立てているものは、他人の財産に依存せず独立していると言える。
 人々にこの独立の気持ちがなく、ただ他人に頼ろうとだけしていると、全国民がみな、人に頼るばかりでそれを引き受ける人がいなくなってしまう。これをたとえていえば、目の不自由な人の行列に、手を引いてくれる人がいないようなものである。非常に不都合なことではないか。
 ある人が「民は、ただしたがわせればよいのであって、その道理をわからせる必要はない。世の中はもののわかった人間が千人いて、わかっていない人が千人いるのだから、賢い者が上にいて民を支配して、その意向にしたがわせてしまえばよい」と言っている。孔子様みたいな言い方[『論語』泰伯篇に「民はこれに由らしむべし、これを知らしむべからず」とある]だが、実はたいへんな間違いだ。一国の中に人を支配するほどの能力・人格を持っているのは千人の内一人にすぎない。
 仮にここに人口百万人の国があるとしよう。この内、千人は智者で、九十九万以上は無知の民である。智者の能力や人格で、この民を支配する。民を子どものように愛し、あるいは羊のように養い、あるいはおどし、あるいはいたわる。恩情と威光とが両方とも十分で、きちんと国家の方針を示している。そういう状態であったならば、民も知らず知らずのうちに政府の命令にしたがい、泥棒や人殺しなどの犯罪もなく、国内は安全平穏に治まることがあるかもしれないが、そもそもこの国の人民は、主人と客の二種類に分かれているのだ。千人の智者は主人となって好きなようにこの国を支配しており、その他の者は、全員、何も知らないお客さんなのだ。だとすれば、お客さんはお客さんなのだから、もちろん特に何も心配などせず主人に頼りきって、自分で責任を引き受けない。国を憂うことも主人がやるようにはいかないのは必然で、実によそよそしい状態になる。
 国内のことならまだいいとして、いったん外国との戦争となった場合、その不都合なことを考えてみたらよい。知恵も力もない国民が、自国を裏切ることはまあないにしても、「われわれはお客さんだからな。命まで捨てるのはさすがにやりすぎだよな」といって逃げてしまう者が多く出るだろう。そうなると、この国の人口は名目上は百万人と言っても、国を守るという段階では、その人数ははなはだ少なく、とても一国の独立など保てない。
 以上のような次第なのだから、外国に対してわが国を守ろうとするならば、自由独立の気風を全国に充満させ、国中の人々が、社会的身分の上下を問わず、自分の身に国を引き受けて、賢い者も愚かな者も、物事がよく見通せる者もそうでもない者も、それぞれ国民としての責任を果たさなくてはならない。
 イギリス人はイギリスを自分の国と思い、日本人は日本を自分の国だと思う。自分の国の土地は、他国のものではなく、自分の国の人間のものなのだから、自分の国を思うことは自分の家を思うようにして、国のためには財産だけでなく、命を投げ出しても惜しむに足らない。これが、つまり「報国の大義」である。
 もちろん、国家の政治を運営するのは政府で、その支配を受けるのは人民なのだが、これはただ便宜的にそれぞれの持ち場を分けているだけの話。一国全体の面目にかかわることとなれば、国民が、国を政府にのみまかせて、これを側で見物しているだけというのでは道理が通らない。
 日本の誰、イギリスの誰、といったように肩書きに国の名前がついているのであれば、その国に住み、起きて寝て食べて、といったことは自由にやる権理がある。そしてその権理がある以上、それに対する義務というのがなければならない。

***


今川家の滅亡とフランスの独立

 むかし戦国時代に、駿河の今川義元が数万の兵を率いて織田信長を攻めたとき、信長は策によって桶狭間で奇襲をかけ、今川の本陣にせまって義元の首をとった。そのとき駿河の軍勢は蜘蛛の子を散らすように戦いもせずに逃げ去って、当時名高かった駿河の今川政府も一日にして、あとかたもなく滅びてしまった。
 一方、二、三年前、フランスとプロシアの戦い[普仏戦争(一八七〇)]では、はじめフランス皇帝ナポレオン三世は、プロシアの捕虜になったけれども、フランス人はこれで望みを捨てることなく、ますます発憤して防戦し、骨をさらし血を流し、数か月籠城して、和睦に持ち込んで、フランスはもとのままのフランスを保った。今川義元の例とはまったく違っていて比べようもない。
 この違いはどこから来たのか。駿河の民はただ義元ひとりにすがって、自分自身はお客さんのつもりで、駿河の国を自分の国と思う者がいなかったのに対して、フランスでは国を思う者が多く、国難を自分の身に引き受けて、人にどうこう言われるまでもなく自ら自分の国のために戦ったから、このような違いが出たのだ。
 以上のように考えるならば、外国に対して自国を守るに当たって、その国の人間に独立の気概がある場合は、国を思う気持ちも深く強くなって、独立の気概がない場合には、その気持ちも浅く弱くなることが容易にわかるだろう。

***


日本人の卑屈は日本国の卑屈

 第二条。国内で独立した立場を持っていない人間は、国外に向かって外国人に接するときも、独立の権理を主張することができない。
 独立の気概がない者は、必ず人に頼ることになる。人に頼る者は、必ずその人を恐れることになる。人を恐れる者は、必ずその人間にへつらうようになる。常に人を恐れ、へつらう者は、だんだんとそれに慣れ、面の皮だけがどんどん厚くなり、恥じるべきことを恥じず、論じるべきことを論じず、人を見ればただ卑屈になるばかりとなる。いわゆる「習い性となる」というのはこのことで、習慣となってしまったことは容易には改められない。
 たとえば、いま日本では、平民にも苗字を許し、馬に乗ることも許し、裁判所の扱いも公平になり、表向きはまず士族と同等ということになったのだが、その習慣はすぐに変わるというわけにもいかず、平民の根性は旧来のままである。言葉も卑屈で、あれこれの応対も卑屈で、目上の人間に対しては一言の理屈も言うことができない。立てと言われれば立ち、踊れと言われれば踊り、その従順なことは、まるでやせっぽっちの飼い犬である。実に無気力の恥知らずと言える。
 むかし鎖国の世に、旧幕府のように窮屈な政治をやっていた頃なら、人民が無気力でも、政治に差し支えがないどころか、かえって便がよかった。そのため、わざと人民を無知のままにしておき、むりやり従順にしたてることなどを役人も得意にしていたのだったが、いま外国と交際していく時代になっては、これが大きな弊害となる。
 例を挙げれば、田舎の商人が、おそるおそる外国と交易をしようと思って横浜などに出てくれば、まず外国人の体格がたくましいのを見て驚き、金を多く持っているのに驚き、商館が広大なのに驚き、蒸気船のスピードに驚き、すっかり肝をつぶしてしまう。外国商人に近づいて取引をすることになっては、その駆け引きの鋭さに驚き、あるいは無理な理屈を言われることがあれば、ただ驚くだけでなく、その威力に縮み上がって、無理とは知りながら、大損を出す取引をしてしまい、大きな恥を受けることになる。
 これはただ一人の商人の損にはとどまらない。一国の損である。ただ一人の商人の恥にはとどまらない。一国の恥である。
 実にバカバカしい話ではあるけれども、先祖代々、独立の空気を吸ったことのない町人根性は、武士には苦しめられ、裁判所には叱られ、下っ端武士に会っても「お旦那様」とあがめる魂は、腹の底まで腐っており、一朝一夕には洗い流せないのだ。
 こんな臆病神の手下のような者が、大胆不敵な外国人に会って度肝をぬかれるのは無理もないこと。これが、国内で独立できない者は、国外に向かっても独立できないということの証拠である。

***


権威に弱いものは国をも売る

 第三条。独立の気概がない者は、人の権威をかさに着て悪事をなすことがある。
 旧幕府の時代には、「名目金」といって、「御三家」などのように権威ある大名の名目を借りて金を貸す、ずいぶん無理な取引があった。たいへん憎むべき行為だ。自分の金を貸して返ってこなかったら、何度でも力を尽くして政府に訴えるべきである。それなのに、政府を恐れて訴えることも知らず、他人の名前を借りて他人の権威で返金をせまるとは、卑怯ではないか。
 今日に至っては、さすがに名目金の話は聞かないが、外国人の名目を借りて同じようなことをやっている人間が世間にはいないだろうか。確証がないからここで断定的には論じられないが、むかしのことを思えば、いまの世の中にもそういうことがあるのではないかと、疑念を持たざるをえない。
 今後、万が一、外国人に日本国内居住・移動の自由を認めた場合、この名目を借りて悪だくみをする人間が出たら、わが国に大きなわざわいとなるだろう。
 だから、独立の気概がない国民は扱いやすくて便利、などと言って油断していてはいけないのだ。わざわいは思いもよらないところで起こるものだ。国民に独立の気概が少なければ、それにしたがって、国が売られる危険もますます大きくなるだろう。「人の権威をかさに着て悪事をなす」とはこのことを言ったのである。
 以上、三か条を挙げて言ったのは、すべて国民に独立心がないことによって起こるわざわいである。今の世に生まれて、いやしくも国を愛する気持ちがあるものは、政府、民間を問わず、まず自分自身が独立するようにつとめ、余力があったら、他人の独立を助けるべきだ。父兄は子弟に独立を教え、教師は生徒に独立をすすめ、士農工商みなが独立して、国を守らなければいけない。
 要するに、国民を束縛して、政府がひとり苦労して政治をするよりも、国民を解放して、苦楽を共にした方がいいではないか、ということなのだ。

(明治六年十二月出版)

***


 引用終わり。
 さて、N君の奴隷根性には三つの問題点があることが分かった。

 一つ目、他人任せな人間になる――人々にこの独立の気持ちがなく、ただ他人に頼ろうとだけしていると、全国民がみな、人に頼るばかりでそれを引き受ける人がいなくなってしまう。これをたとえていえば、目の不自由な人の行列に、手を引いてくれる人がいないようなものである。

 二つ目、人にへつらう人間になる――独立の気概がない者は、必ず人に頼ることになる。人に頼る者は、必ずその人を恐れることになる。人を恐れる者は、必ずその人間にへつらうようになる。常に人を恐れ、へつらう者は、だんだんとそれに慣れ、面の皮だけがどんどん厚くなり、恥じるべきことを恥じず、論じるべきことを論じず、人を見ればただ卑屈になるばかりとなる。いわゆる「習い性となる」というのはこのことで、習慣となってしまったことは容易には改められない。

 三つ目、独立の気概がない者は、人の権威をかさに着て悪事をなすことがある――旧幕府の時代には、「名目金」といって、「御三家」などのように権威ある大名の名目を借りて金を貸す、ずいぶん無理な取引があった。たいへん憎むべき行為だ。自分の金を貸して返ってこなかったら、何度でも力を尽くして政府に訴えるべきである。それなのに、政府を恐れて訴えることも知らず、他人の名前を借りて他人の権威で返金をせまるとは、卑怯ではないか。

 十数年以上たってしまったが、あの頃のN君に向けて、福沢諭吉の言葉を贈りたい。
 改心してくれ、N君。
 そして、あの頃の俺よ。
 お前は間違っていない。
 自信を持っていい。