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例えば待庵の二畳の小さな小さな空間のなかで厳密な大きさと素材そのものに語らせる最小限の作為。
そんなイメージから、利休がたとえ人当たりがよかったとしても、自分やこれから作ろうとする物に対して厳しい態度の人間だと思っていた。ぶれない自分の感性に忠実で妥協を許さないような人間。
そんなイメージが利休にあったので武蔵あぶみの文を書いた人間が同じだとは思えないというのが率直な感想だった
武蔵あぶみの文、冒頭は
武蔵鐙 さすかに道の 遠けれは
とはぬもゆかし とふもうれしゝ
返し
御音信 途絶え途絶えず 武蔵鐙
さすがに遠き 道ぞと思えいば
これは古田織部が利休にあてた書状のなかの、はるばる関東まで参戦したことを伊勢物語の武蔵あぶみにかけた和歌をまじえて報告したことに対して、利休がやはり伊勢物語の武蔵あぶみにかけて返歌としているところだ。
伊勢物語の武蔵あぶみとは
「武蔵鐙さすがにかけて頼むには問はぬもつらし問ふもうるさし」
関東に下って現地の妻をめとった男に対して京都の正妻が現地妻のことを尋ねるのもつらいし、尋ねて答えをきくのも鬱陶しい、嫌だと言っている歌。この歌が古田織部と千利休の歌の本歌である。
鐙は乗馬の際に足を乗せる馬具の一種だが、鞍の下に布や革を使った敷物のような物に引っかけるための輪っかが鐙の一部に付いていて、これがサスガと言う部分だそうだ。つまりこの歌の武蔵あぶみはサスガにかかる掛詞となっているようだ。
さすがにいやよねー。の本歌に対する、織部と利休はさすがに京都から遠いよねー。ということになる(と思う。)
、、と、このあたりは和歌の教養を土台にしたイメージ通りの古田織部と利休の応酬。
我等も昨日当月十九日に
山の家にうつり申し候
又煩本復に候
一、すみだ川、つくば山
むさし野同ほりかね井なと
御浦山しく候
利休はしばらく体調が悪かったらしいが、それも快復に向かっている。
一、名にしおう都鳥の隅田川、筑波山、武蔵野のほりかね井戸など織部が訪ねたようで利休はうらやましいと言っている。
ほりかね井戸とは枕草子にも
「井は堀兼の井。玉の井。走井は逢坂なるがをかしき。山の井。さしも浅きためしになりはじめけん。」
とあり、井戸のなかではいちばん都ひとが見たいものであったのだろう。埼玉県にほりかね井戸の確定はできないが候補地がいくつかあるようだ。
武将である古田織部が合戦とはいえ、歌枕となるような武蔵野、関東の各地を巡り、途絶えたように思った織部からの書状がやっと届く。待ちかねた織部からの手紙。
織部に心配かけないように、体調がよくなったと利休が書いているようにも思える。
ところが、利休の文は次第に変調をきたす。(厳密に言えば私にとっての利休のイメージから次第に逸脱する)
一、我等ふし唯一山にて
かんにん申候 ふしにも
をとらぬはい多候
此両種にて候
関東に住む我々にとって富士のお山は美しく気高い存在だが、利休はこともあろうにハエの多さと並べて、唯一の山で勘弁して欲しいと都の山々を恋しいと暗に言っているかのようだ。
文末(巻き紙の書状は書ききれない文言は文頭の空いたスペースに書く)にも、
世の有テうらめしかりしはい打のをとたに今は慰にして
ハエ打ちの音を慰みにする狂歌などを書き加えているのは、やるせない苛立たしさを利休がかかえているからだと思われる。
山上宗二が秀吉によって虐殺されたからだ(と思う)
残虐な殺され方に対する怒り、そもそも命を奪われるほどのことを宗二がしたのか、たかがへつらいの言葉をもたなかっただけではないかという不条理。
そのような不条理をしでかす秀吉への不信、不安。いずれはその不条理の矛先が自分に向けられるという予感。さまざまな感情や憶測のなかで利休は思い悩んだと思う。ハエの文言は利休の苛立ちや感情の乱れを表し、富士の霊峰も利休にとっては慰みにもならない。
また、織部には本復したと言っていた体調も要因かもしれない。
秀吉の随伴は思い悩む利休にとってつらいものだっただろうから、織部からの書状はことのほか嬉しいものだったろうし、その返信に思わず利休の乱れた心情も吐露してしまったリアルな文となったのだろう。
利休は織部にいつお戻りになれますか?と尋ねながら、急いで戻る必要はないと言ってみたり、旅宿で一服差し上げたいと言ってみたり、遠慮しながらも織部に会いたくてしかたがないような文面だと思う。
一、筒ふしきのを切出申候
早望無レ之候
利休は織部に竹花入れを切り出したから送ると書き、筒ふしきのを切り出し、これ以上のものはないと書いている。
「筒ふしきの」とは、竹で不思議とも、不識とも、節木ともとれる。
園城寺の竹花入れは奇妙な形をしているわけでも、節が多い竹でもないので、不識、つまりまだ知らなかった根元に亀裂のある竹ではないかと思う。奇をてらうでもなく、自然な割れが利休の寂の気分に合ったのかと私は思う。おおかたの解説文では不思議な最高の竹という解釈だが。
武蔵あぶみの文は古典からの引用であぶみにかけての和歌でなくて、実はあぶみの一部のサスガにかけてあったのには調べて驚いたが、もうひとつ茶花の武蔵あぶみもある。
4月初めの茶事にお招きをうけて、床を飾っていたのだが、正客だった私は分からず、次客の知り合いはマムシ草と言っていた。ご亭主から武蔵あぶみとうかがい、反りもどるような形の包の部分がなるほど鐙をひっくり返した形に見える。マムシ草とも同系統と思えた。
その後、ご亭主から武蔵あぶみの苗を分けていただいて我が家の裏庭に移植したが、さて根付くかどうか。