Facebookにも園城寺竹花入れについての記事を載せたところ、なぜ利休は韮山という北条の領地の竹を使ったのかというご意見がありました。韮山で利休が作ったとばかり思っていましたから、確かにごもっともなご意見です。調べたら、利休が秀吉の小田原随伴のとき、箱根で韮山の竹を取り寄せたとの記事をみつけました。

小田原城が落城するのを秀吉は高見の見物のような態度で待っていたようですから、その間、箱根にも立ち寄って温泉にでも浸っていたのでしょうね。韮山の現地のご案内によると、小田原合戦のための兵士が枕にしていた竹について利休が尋ね、韮山産と知ったそうです。

それを知った利休は早速、兵士に韮山の竹を切り出して持ってくるように命じたのではないかしら。また、秀吉から落城までしばらくかかるから、箱根でも行ってこいなんて言われて、それなら箱根で韮山の竹を吟味すればいいかな、などと思ったかもしれません。

箱根には秀吉随行か、利休単独かはわかりませんが、秀吉の茶坊主ですから利休さんは秀吉にお供しながら箱根のお湯に浸ったのだろうと思いました。

それにしても、この時期の利休の心境はどうだったのでしょう。

お茶頭として功なり名を遂げたとはいえ、北条側でしばらくお茶を教えていた山上宗二が秀吉によって惨殺されています。

たぶん上手に秀吉を持ち上げるような言動ができなかったせいで秀吉の勘気に触れてとの通説ですが、利休にとっては、教えを学ぼうという真摯な姿勢や自分の考えをまっすぐに言う、真面目でかわいい弟子だったのではないでしょうか。

また、もう一人の茶の湯の弟子、性格はたぶん正反対、外交的で、きっと人の気持ちを判断して機転もきくような古田織部のことも気になります。戦乱の世の中、武将としての活躍を願いながらもお茶好きは天下一品のひとですから。

天下統一に向けて、秀吉の人となりも変わっていったことでしょう。機を見るに敏、ひとたらしとも聞く秀吉がそろそろ全国制覇に手が届くようになって尊大、あるいは天下人の自負のような気分を味わうようになっていったのではないでしょうか。そんな秀吉のもとで利休は不安をつのらせていたようにも思います。

また、表千家のホームページには利休のものと伝えられる甲冑の写真とともに武蔵あぶみの文言も紹介されています。
利休にとって、武将、もののふとはどんなものだったのでしょう。

なんだか、複雑な面持ちであったような感じがするのですが、そんななか利休は武蔵あぶみの文を古田織部にあてて書いています。

写真はふじのくにホームページより転載しました。