利休が古田織部にあてた武蔵あぶみの文について、ネットで調べたことなどをもとに、勝手に解説を考えて書いてみます。参考程度でございます。


武蔵あぶみの文


武蔵鐙 さすかに道の 遠けれは

とはぬもゆかし とふもうれしゝ

  返し

御音信 途絶え途絶えず 武蔵鐙

さすがに遠き 道ぞと思えば


解説してみます

伊勢物語の武蔵あぶみからの引用で

馬具のあぶみのサスガという部分に引っ掻けます。


我等も昨日当月十九日に

山の家にうつり申し候

又煩本復に候


解説してみます

しばらく利休は具合が悪かったようですが、その症状もおさまったようです。


一、すみだ川、つくば山 

  むさし野同ほりかね井なと

  御浦山しく候


解説してみます

織部が参戦して巡った隅田川や、武蔵野のほりかね井戸など、利休も見てみたい、うらやましいと言っています。


一、我等ふし唯一山にて

  かんにん申候  ふしにも

  をとらぬはい多候 

  此両種にて候


解説してみます

都の山々と違って富士山だけ。勘弁してよ。富士山にも劣らぬものはハエの多さよ。あーあ(とは書いていませんが)


一、花筒近日相届候由

  本望候


解説してみます

竹花入れを近日中にお届けできるのは本望です。嬉しい!


一、筒ふしきのを切出申候

  早望無レ之候


解説してみます

ふしきの竹を切り出して、竹花入れができた。もはや、これ以上のものはできないと思う。


一、其方てきのしろとも

  大略済申様に候

  事珍重ゝゝ


解説してみます

織部の城攻めもだいたいうまくいっているのではないですか。よかったよかった。


一、関白様被レ仰付レ候

  御城も漸当月

  出来にて候

  然者還御あるべく候哉 

  小田原も久事候ましく候

  方ゝ内にかけ付かきりも

  無レ之由申候


解説してみます

秀吉の一夜城もできます

御戻りになりますか?

小田原城落城もすぐというわけではないので、急いで駆けつける必要もないですよ。


一、旅宿茶一服申度候

  本望にて候、摘茶を

  持来候 恐慌かしく


解説してみます

おいでになったら旅の宿で一服差し上げられたら本望です。茶葉を摘んで持ってきています。


山にての哥にて候

世の有テうらめしかりしはい

打のをとたに今は慰にして

はいといふくせ物だにもなかりせば

小田原成とせめて住へく かしく


解説してみます

うらめしいハエを打つ音さえ慰みだ。

ハエというくせ者があるから小田原に住んでいられるようなものだ。


六月二十日 宗易 花押

古織公    易ゟ


追記

武蔵あぶみの文の全文の解説はネットで調べてもなかったので、家にあった村井康彦著 図説千利休その人と芸術という本からの訳文から、勝手な解説を載せています。武蔵あぶみの織部と利休の歌は古典からの引用でこちらの解説は調べればすぐにでてきます。

解説文の間違いなどありましたら、ご指摘いただければ幸甚に存じます。








  




  



」や、 「筒(花筒)ふしきのを切出申候」



小田原攻めが長くかからないだろうから終わるまで駆けつけなくてもかまわない。


と言いながら、すぐに陣中で茶を差し上げたいという文言。

蠅が多くて嫌だと、たわいもない愚痴をこぼしておきながら、最後に蠅を打つ音も慰みであると、わざわざ冒頭に書き加えていること。

親しい人もなく、小田原の山の家に移った利休は、このところの秀吉との間柄武蔵鐙の文、利休が小田原から、関東地方を転戦する、古田織部にあてた手紙です。

むさしあぶみ、さすがに道の遠ければ、とわぬもゆかし、とふもうれし々とかき出してあります。

如心斎の頃、冬木家が所蔵していた、利休自筆の遺偈を取り戻そうとした際、人々の協力で
成り、この返礼として、この文を渡されたそうです。
冬木家は「園城寺」竹花入れの添え状として、秘蔵してきましたが、その後松平不昧公の手を経て
今は両者とも、東京国立博物館の所蔵となっているそうです。

二人のこの出だしの歌は伊勢物語の十三段にみる歌を踏まえたもので、
彼らの教養の一端をうかがわせるもの。

昔武蔵なる男、京なる女のもとに、「聞こゆれば恥ずかし。聞こえねば苦し」と書きて、
上書きに「武蔵鐙」と書きておこせてのち、音もせずなりにければ、京より女
武蔵鐙さすがにかけて頼むには「問わぬもつらし、問ふもうるさし」
とあるをみてなむ、たへがたき心地しける。
「問へば言う問わねば恨む武蔵鐙  かかるをりにや人は死ぬらむ」


乃至、

  山にての哥にて候

  世に有テ うらめしかりし はい打の

  をとたに今は 慰にして

  はいという くせ物たにも なかりせは

  小田原成りと せめて住むべく かしく 云々。

千の少庵へ土産也。筒の裏に、園城寺少庵と書き付け有り。名判無し。
又、此の同じ竹にて、先ず尺八を剪り、太閤へ献ず。其の次、音曲。巳上三本、何れも竹筒の名物なり。」

『逢源斎書』

「一、竹筒事。小田原陣御供休被参。其時大竹在之故、花入に切被申候。
園城寺も其時の花入。日本第一。小田原より帰陣在之。園城寺少庵へみあげ心に越被申候。
尺八は堺いたみやに宗不に在之。休持用也。」

利休が箱根湯本で伊豆韮山の竹を取り寄せて、一重切「園城寺」(おんじょうじ)、「音曲」(おんぎょく)、逆竹寸切「尺八」(しゃくはち)。他に二重切「夜長」(よなが)も作りました。