令和6年6月号の同門に熊倉功夫先生の細川三斎の連載があります。

今回も備忘録かわりに、記しておきます。感想などもまじえるので参考程度です。


熊倉先生いわく

三斎伝のなかに、圓城寺の花入のことが出ます。園城寺はのちに江戸の冬木家の所蔵に移ります。如心斎が冬木家にあった利休の遺偈を千家に戻した時、そのお礼に千家にあった利休の書状「武蔵あぶみの文」を贈ったものですから冬木家では所蔵していた園城寺の花入れと武蔵あぶみの文を一緒にして花入れの添え状のようにしてきました。今も一緒に東京国立博物館に所蔵されています。

武蔵あぶみの文は、小田原の陣で勝利した秀吉がその余勢をかって関東を転戦し、これに従軍していた古田織部にあてて書かれた利休の書状です。長文のすばらしい手紙ですが、その中に、近ごろよい花入が切れたので送ります、という文言があって、園城寺の花入とうまく合致するものですから、冬木家では園城寺の添え状にしたのです。しかし、本来は無関係です。

とのことです。


園城寺とは大津の三井寺のことで、竹花入の銘「園城寺」はこの三井寺と鐘に由来します。

三井寺のご案内から抜粋しますと


「当寺初代の梵鐘で、奈良時代の作とされています。 むかし、承平年間(十世紀前半)に田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に 琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したと伝えられています。

その後、山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると ”イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、 弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといいます。 鐘にはその時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。

また、この鐘は寺に変事があるときには、その前兆として不可思議な現象が生じたといいます。 良くないことがあるときには鐘が汗をかき、撞いても鳴らず、 また良いことがあるときには自然に鳴るといわれています」以上、三井寺のホームページより


熊倉先生いわく

竹花入れ「園城寺」については

「三斎伝」に詳細な寸法と小田原にて利休切るとなりの記載があり、さらになぜ割れた竹なのかということについての秘伝があるということです。竹を切るのによい時期があるそうで花入れに限ってはよくない竹を使うのが秘伝だそうです。利休はあえて悪竹を切ってその割れをよしとしたと三斎は言っているそうです。


竹の良し悪しについては素人なのでわかりませんが、以前著名な職家の竹の棗が割れて、そのおうちで直してもらったことがありました。持っていった棗は先代の作で直ってくるまでに1年半くらいかかりました。竹の養生などいろいろ時間がかかるのだろうとは思いましたが、そもそも普通の職人の作だったら信用問題死活問題ですから割れるなんて聞いたことがない。最近の職家の技術力はいかがなものかと思ってしまいました。求めるのにも直すのにも、お稽古の似たようなものの何倍もするのですから。

これは貧乏な主婦のぼやきです。新しい千家十職さんたちの作は、はなから主婦のお財布からは買えませんから。

それでも、たとえば竹ではないけれど、古い宗哲の塗りはほんと丈夫!

(すみません!新しい宗哲は持っていませんのでわかりませんが、)古い作のほうが結局、丈夫で長持ちするのではと貧乏な主婦は思っています。


話が脱線しました。

園城寺の竹花入れの割れは三斎によると利休が切った当初から割れを花入れの景色として採用しているように思いました。その割れは中央に一筋、その一筋をはさむように下の節の付近にやや斜めに2本の割れが見えます。割れてはいますが、その存在を強調するような割れではなく利休好みの不完全なよさ、さびに通じるものであろうかと思いました。


また熊倉先生の

園城寺花入れの裏の園城寺少庵については、利休作から少庵に伝わっているとの見解です。


たまにトーハクでも園城寺を展示して下さいますが、園城寺展示は必ず武蔵あぶみの文の隣ということもあって、武蔵あぶみの文は園城寺の添え状だと思っていました。園城寺は古田織部に武蔵あぶみの文とともに与えられた、ふたつでひとセットのような勘違いでした。


今回、熊倉先生の記事によって冬木家が竹花入れと竹花入れの手紙がぴったりだったから一緒にしていただけということで、それぞれ関係はなさそうということがわかりました。

しかし、たぶん韮山で利休がいくつか作ったうちのひとつでしょうから、時期も場所も武蔵あぶみの花入れと大きな違いもなさそうにも思えますので、冬木家が一緒にしていたこともうなずけます。


さて、武蔵あぶみについては次回。