✡ADHD気質で神秘的なことに興味がある方々へ
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。これはごく個人的な考察なのですがこの三次元世界で規律を持った真善美を保つためには3の数靈(あるいはその倍数)の働きが不可欠なのかもしれません。心・技・体人・物・金資本・経営・従業員立法・行政・司法過去・現在・未来タテ・ヨコ・高さ火・水・土仏教における仏・法・僧身・口・意神界・幽界・現界諸行無常・諸法無我・涅槃寂静法身・報身・応身など・・ここでは身口意の三密吽字義の三句(菩提心・大悲・方便)を様々な「3」との対比で観てみましょう。身密 意密 口密菩提心 大悲 方便ア ウ ン吸う 吐く 止息胸部 眉間 丹田情 意 智愛 義 信霊界 現界 幽界陰 陽 中道ウラ オモテ ハザマ身体内 身体外 仮想空間肉体 意識体 思念体舞台裏 演技者 原作脚本家の中 家の外 仮想世界目覚め 活動 入眠産まれ 生きて 死す面白いものでヨコの概念をタテに観ていくとそれぞれ相似象のように思えてきます。そして・・アウンの呼吸の際の概念としても利用しております。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。これは吽字義の三句法門と阿吽を個人的な感覚で解釈したものです。ですので・・特に「密教の奥義」ではありませんのであしからず。◆三句法門吽字は三句法門(大日経の根幹的概念)を一字で表わしたものと言われておりますがその三句というのは・菩提心を「因」となし・大悲を「根」となし・方便を「究竟」となすのことです。解釈は多くありますが個人的には以下のように捉えております。菩提心はいわゆる自利利他の心これを「因」となし・・・種子大悲は 大いなる苦しみを取り除く心これを「根」となし・・・根方便は志しを果たすため行動に移すこれを「究竟」となす・・発芽~実り「究竟」はこれ以上のことは無い最上 無上 終極などの意味があります。この・菩提心を「因」となし・大悲を「根」となし・方便を「究竟」となすの三句の包括こそが吽字義そのものということなのですね。ですからそれは極めて実践的であり密教が観念宗教ではないゆえんですね。◆阿吽の呼吸わたしは好んで阿吽の呼吸ばかりをテーマにしておりますがそれは呼吸の仕方に正解はなく大まかなやり方はあっても細かな観想や行法は秘匿されているか現代人なりに再構築する必要があるかあるいはその両者か・・いずれにせよ広く公開されていますがその方法は千差万別。武道やスポーツ芸のミチやクリエイティブな創作活動の際にもヒトは無意識のうちに自然に行っている・・それを意識的に自分なりに試行錯誤しながらアレンジしてみる・・これはとても魅力的かつ面白いところです。阿吽の呼吸もいまは首から下の身体感覚を深めていくため吸うときも吐くときも丹田に多少の圧をかけてなるべく丹田部位に意識を維持するようにしていますがもう少し習熟していけば首から上の部位即ち喉や眉間、頭頂の部位に意識を置ける段階になっていくような気がしています。そしていまやっている阿吽の呼吸のイメージですがこれは瞑想として行っているのですがア~吸うウ~吐くン~止息(瞑目)までは同じですがそのあと止息を保持したままで「✓」を打つこの✓は九字切りの最後の✓のことで点を打つのではなくチョン✓と跳ねます。ここが個人的にはとても面白いところでアウンの呼吸の際のイメージとして三句法門になぞらえてア ~吸う・・菩提心/利他愛/タネ蒔きウ ~吐く・・大悲/思いやり/根を生じン ~止息・・方便/強い決意/発芽する 止息のままウンア ✓ ・・かがんでジャンプする物事が現象化していくためには想いのタネを植え根を生やし発芽しようとする・・その発芽には最大負荷がかかるため一旦、かがみ込んでからジャンプする・・それが ✓ であり修験道に伝わる九字切りの ✓ もまたそのような意があるのではないか・・ということなのです。「ウンア」とは「ウン」で終極を迎え「ア」で新生する意で「ウンア」は ✓ =まばたきほどの一瞬となります。まあ何というか・・相当マニアックなのですが個人的には結構気に入っており単なる呼吸法ではなく三句法門を概念として併せることでまた ✓ を加えることで現象化をイメージしていく・・別の表現をするならば「新たな世界線を開く」という感覚でしょうか。とかく現象世界では行き詰まりの観が蔓延していますので行き詰まりを打破するワザとして個人的に研鑽しております。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。これはわたし自身が・注意散漫・衝動性過多・多動性過多というADHD気質であるゆえの環境への順応しづらさからくる被害者意識の深化そこからくるウツ状態深刻な悪循環に陥っていたこととそこから脱出することができたその実体験からの考察です。◆深刻なウツ状態少し長くなりますがわたし自身のいままでの体験をお話しさせて頂きます。わたしは現在60歳半ばですが小学生時代はいわゆる「ひとりぼっち」の準ひきこもり状態(学校にはいくがいつもひとりきり)で中学に入ると人間関係の不得手からさらに対人恐怖症やノイローゼが生じそれでも学校には何とか通っていたという状況でした。高校生では自分を変えたくて部活に入ったり密教系の信仰団体に入ったりと懸命にもがいていた時期でした。社会人になってからはコミュニケーションが下手でも真面目で誠実と思われたのでしょう、周りのヒトたちに助けられながら何とかやっておりました。でも真に問題だったのはその後の長い社会生活・人間関係の中で①人格が未熟なままで成長しない。②安易短絡的な思考に留まってしまう。③強い劣等感と被害者意識からくる 慢性的ウツ状態この3点が私の人生の8割以上を占めていたといっても過言ではありません。特に慢性的ウツ状態これは会社以外の あるコミュニティに属していたときに長期間受け続けたいわゆるマインドコントロールに起因するものでそれは今風に言い換えれば・パワーハラスメントを伴っている。・意図的なコントロールが行われている。・従わない者へのペナルティがある。・独特の価値観・世界観がありそこに 依存させようとする。という極めて特殊な状態でした。学校内での「いじめ」企業内での「無言の圧力と強制力」スポーツ系団体での「指導の名の制裁」などもその本質は全く同一ですね。限られたコミュニティ内において求心力を持つ「強者」が従属させたい「弱者」を威嚇しながら巧みに統括しようとする・・そのスガタはまさにケモノの世界そのものといってもよいでしょう。ただ・・時代の流れが大きく切り替わった今いかなる団体もグループも例外なく「限定された囲い自体が消失し その内側で起こっていたことが 表面化していかざるを得なくなる」そのような時流に入っている訳ですから暴かれたあとはあっと言う間に過去のものとして消失していくことになっていくことでしょう。政治の世界や経済の世界もまた然りですね。◆被害者意識と被害妄想自身の経験からですが被害者意識の根底にあるのは・キズつけられた!・攻撃された!・怒りをぶつけられた!それに対する・防御と対立(対抗姿勢)さらに・攻撃反撃といった心理状態と行為行動がほとんど瞬間的・反応的に生じている。この「キズ」は普段の落ち着いた生活リズムの中では埋没していても何らかの理由で深部にある「キズ」に触れられた途端表面意識に表出してくるためほとんど反射的に刺激⇒反応までが起こってしまう・・せっかく瞑想や呼吸法で穏やかな心の状態に落ち着いていたのが一瞬で崩壊してしまう・・などということは数えきれないほど経験してきました。これは個人的な体感なのですが被害者意識が強いヒトが瞑想やメンタルトレーナーの指導を受けたとして一時的なメンタル改善があったとしてもそれは相手の「世界観」というか波動の影響によるものでありいわば相手の「場」を借りて一時的に安全地帯に入った状態に過ぎないのであってそこから離れてしまえばまた元に戻ってしまうことになる。だから要諦は自分の身体内に自らの「場」を作ることが本質的に最優先事項でありそれは首から上の頭を通じて理詰めで解することではなく首から下の身体内(先ずは丹田部位)で感じる感覚の世界で徐々に醸成されていくものだと強く申し上げたいのです。これは本当に切実なところで絶えず強迫観念や被害者意識からくる被害妄想的な意識の中に長年とどまっていると空虚感、渇望感、切迫感に支配され他人の言動に一喜一憂しとにかく身を守る防衛本能ありきになってしまうため「腰を据えて熟考する」ということなどとてもできなくなります。絶えず心がザワザワとざわついていて大きな声や威嚇するような強い物言いをされると即 = 攻撃されていると感じ、防御~威嚇の反応をしてしまう。この悪循環が心の力を著しく削いでいくのです。そして何よりもその状態で人生の大きな選択を判断してしまうことはなるべく避けるべきなのです。(経験からですが・・)反応的な状態は「本質的に真の自分ではない」のですから。それは他人の価値観一般社会常識コミュニティ内の同調圧力に支配されている状態であり「わたしはどう在るか!?」とは全く関係ない判断基準だからです。◆わたしの現時点での状態今現在は被害者意識やウツ状態が無くなったという訳ではなく被害者意識やウツ状態はあっても・その状態が続かなくなっている。・その状態に気づき そこから離れる。あるいは・その状態を観察している。といった方がより正しいと思われます。これは大変助かっており意識が絶えず「頭部」の中で怯えていたのが下腹部の「丹田」の中に移動し丹田の腹底を感じある種の安心感というか歓喜に近い感覚を感じるようになりそれが「場」となって思考に「まとまり」が出て来て「いまの最善を尽くす」ことができるようになってきた・・そういう感覚なのです。長々と綴りましたが本当につたない体験なのですが阿吽の呼吸による丹田部位の感覚に意識を置けるようになり その間だけは 間違いなく思考から離れているのでありその積み重ねがいつのまには丹田という田んぼに タネを蒔き 根が生え 芽吹き 苗が伸び始めていく・・という自然の理が発動し始めることにつながっていくのだと思われるのです。これは理屈ではなく自然の理(ことわり)なのだとも感じております。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。前回の記事で・字相と字義・吽字の四つの側面である 阿字(ア)字~法身の義・・仏 麼字(マ)字~化身の義・・菩薩 汙字(ウ)字~応身の義・・縁覚 訶字(カ)字~報身の義・・声聞そしてさらに・阿字の三義 不生の義 空の義 有の義について触れてみました。振り返りになりますが◯訶字・・声聞の段階では「因縁の義」 ~すべての存在するものは 必ず何かの原因が 既にあって存在している~◯汙字・・縁覚の段階では「一切諸法損滅の義」 ~損滅が無い 不損滅~◯麼字・・菩薩の段階では ~我に二種あり 人我と法我 人我は相対的な存在としての小我 法我は絶対的な存在としての大我そしてこの段階では 「増益」という概念が生じる即ち~菩提心から出発する主体の絶対的存在性 自己を損なっても他者を益す~そして最終の◯阿字・・仏の段階では ~不変の意味で 原因は存在しない。 一切の存在は その本質において 因縁を離れており 絶対の真実相と 真理の直接の現われとして 存在している~というように一見矛盾するような表現に感じられるところがあります。これはそれぞれの段階において知り得る概念でありそれは車の運転技術で例えて言うならば・初心者コース1は 法令法規・基本的な運転知識・初心者コース2は 仮免の運転(基本技術の習得)・中級者コースは 一般道や高速道での実践経験・上級者コースは 運転技術の向上や事故を未然に防ぐ リスク意識の向上、或いは事故発生時の 適切な行動を取れるレベルということになりましょうか。わたし自身は初心者コースですので上のレベルの技術や実践経験がない中で「吽字義」を論じてもは単なるイメージや仮説に過ぎませんし単なる初心者の見解に過ぎない訳です。ただレベルが上がるにつれて「ああ、そういう事か!」といった気づぎが得られていきそのレベルバロメーターが前述の4段階それぞれの概念ということになるのでしょう。個人的考察になりますが首から上の「二元的意識」の中にいる間は現象に左右されやすく本質を見失いがちですが首から下の「一元的意識」に移入していくほど意識下の世界観が拡がりより物事の本質を体感でキャッチできるようになっていくということと思われます。いわば字相から字義へということになるのでしょう。縁起の法(因・縁・果・報)は目に見える現象界(首から上)の世界観であり相対的世界を表わしていますがその実相は絶対的世界(いわば首から下)の世界観でありすべてにおいて損滅が無いという概念は一見矛盾していてもそれは二元的意識と一元的意識との違いに過ぎずいうなれば意識の段階が異なっているゆえとしか言いようがない訳ですね。首から下の意識下の世界観を開いていくための技術が身口意の三密という訳ですね。個人的には阿吽の呼吸法と九字の法の中にその基本が在ると感じており日々、自分を実験台にして試行錯誤の探究を続けております。ただ・・ありがたいことに多少は習熟度が増しているのか周りに起こることに対する気づきのみならず自分自身が今まで自覚できていなかった思考のクセ(特に他者に対するクセ)に不意に気づくことが増えていることこれは真の恩恵とも感じております。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。わたしの実践中の呼吸法を綴らせて頂きます。◆わたしの阿吽の呼吸法阿吽の呼吸法は様々なやり方があるようですが私の場合は過去記事の阿吽の呼吸法(1)で記しました様に武術家の方が記した方法を基としてその要諦、即ち◯吸う~吐く~止息のサイクルと◯絶えず丹田に感覚が在るという二点を外さないようにしています。また、自分なりに定着したやり方として◯吸う(ア)~吐く(ウ)~止息(ン)の ように動きに合わせた音を意識する◯止息のときは瞑目状態◯なるべく結印する◯三拍子(の倍数)で行うとしております。瞑目状態は、自宅や通勤途中の電車の中ならば数分間でも容易に出来ますが歩行中や仕事中は長いマバタキ程度ほんの1~2秒間です。マバタキはヒトが過剰に入ってくる外界の情報に区切りをつけるために無意識に行うことが多く、これを意識的に行うものです。要は、時間の長短はあっても瞑目状態は意識の切り替えになるという訳です。結印は親指と人差し指の先端の腹を着けた状態はいつでもどこでも自然にできます。自宅では 瞑想や考え事をするときは両手の親指先の腹を着けた状態の印が個人的にはとても深い感覚を得られて良いと感じています。三拍子(或いは三拍子の倍数)というのはいままでの試行錯誤の結果なのですがとても意識を置きやすいのです。例えば1・2・3で吸う1・2・3で吐く1・2・3・1・2・3で止息というように長めに行うときは「1・2・3」×倍数となります。歩いているときは吸う=1・2・3吐く=1・2・3止息=1・2・3・1・2・3止まっているときはそれぞれその倍数(2倍~3倍)という感じでやっております。体の動きにより呼吸の速さが変わりますが基本はいつでも1・2・3の倍数という訳です。◆身体内の感覚の変化ある程度習慣化してくると身体内の感覚が蘇ってきていわゆる「場」のようなものが形成されてくるそんな感じが生じてきます。そして徐々にですが自分が「首から上の思考」に走っているときは身体感覚を忘却した状態、それは自分の意識が「身体外に露出している状態」であり身体感覚に意識が向いているときは(とくに丹田のあたりに)自分の意識が「身体内に収まっている状態」であるという感覚が生じてきます。これは理屈は分かりませんがそう感じて来るというか・・逆に言えばイライラしているとき焦燥感にかられているとき嫌気がさしてこの場から離れたい!と感じているときなどは「首から上の思考に走っている」であり意識が「身体外に露出している」状態であるから阿吽の呼吸を行いながら「丹田の部位に身体感覚を感じながら そこに意識を収めていく」というイメージをつくっていきます。これが現段階では阿吽の呼吸法を行ってきて得られた最大の収穫といっても過言ではありません。これまで長期間にわたって強い被害者意識に悩まされ妄想のループの中にあり外側からの刺激(ヒトの言動等)に過剰に反応し続けて来た・・というか「過剰に反応させられ続けて来た」その状態から解放されてきているという事実に深いやすらぎを覚えるのです。◆呼吸法・瞑想の効果この感覚はわたしが強いウツ状態から脱するきっかけとなった瞑想の先生が常々おっしゃっていた「身体感覚を丁寧に感じる」ということを自分なりに身をもって体感したのだと思われます。長い道のりでしたが・・自分なりの瞑想自分なりの呼吸法を実践しやすいところから試行錯誤しながら実践していく・・そこに意識と身体をつないでいくという本来ヒトにとって最も大切な感覚がよみがえってくるということだと思われます。首から上の思考に走り意識が身体外に露出した状態は自分本位刹那的・衝動的・短絡的となりやがては破綻してしまう・・分かっているけどどうしようもない・・そこから脱出するミチは首から下の身体感覚を蘇らせ意識を身体内に収めるスベを身に付ける。それにより思考の座が身体内深くに醸成されヒトの波動(思考や動き)も感じられるようになり自他ともに思いやるスペースができてくる。それが言動にも表れてきて自然と周りも変わってくる。ここが瞑想(呼吸法)・ヨーガの醍醐味ということなのではないかと感じております。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。極めて感覚的な内容となってしまいますがいまの世界の様相は何か次に新たな展開が 起こりそうで起こらない・・期待している反面 それを恐れている・・おぼろげながらモヤがかかったままの不可思議な感覚。日常生活は確かに現実として日々アッという間に過ぎ去りながら・・これはわたしだけの感覚なのかもしれませんが。◆阿吽の呼吸による身体感覚の醸成ここからはごく個人的な感覚と考察になりますが阿吽の呼吸による意識下の領域すなわち 疑似幽界の創造という概念ですがこの領域はある意味 ヒトの本質そのものでありこの領域の拡充があって初めて現実界(意識上)での活動が起こり得る可能性が生じるというものです。ヒトの意識は元々ランダムであり乱雑でありまとまりがない断片的なものでありそこに意味を持たせるために意識下の領域があるという概念です。これは前の記事の続きなのですがヒトが何らかの思考を行うときそこには関連性・ストーリーが生じそれが言語化・理論化され現実の行動へと展開していく。それは瞬間的な意識活動ですが実はそこに至るまで意識化し言語化され行動へと導くものがある・・意識下に疑似幽界が豊かに拡がっていればそこにはより根源に近い思念体の波動が感知され逆に意識下に幽界自体が存在しなければよりタンハー(渇愛・渇望)や習気(常識・慣習・経験則)に依存し反応的になる。真の意味での新たな世界線創造のためにはこの疑似幽界ともいうべき意識下の思考領域が不可欠という訳です。そしてそれは多分・・阿吽の呼吸を主軸とする瞑想(ヨーガ)と観想すなわち身口意の三密の実践により成されるという考察です。その現われとしては身体内感覚を深く感じられるようになり日常の生活の中に短時間であっても瞑想・呼吸法を頻繁に行い身体内に意識を保持するようになっていくというものです。◆世界線の概念これも個人的考察ですがこの世界の世界線というものは植物の成長に相似しており(というよりも自然界そのものと相似象 なのですが、ここでは植物で例えます)肥沃な土壌にタネを蒔き水と太陽の光を注ぐことで根を生やし発芽し地上にスガタを現わし葉を茂らせ成長していきやがて花を咲かせ実りの時期を迎え果実はタネを宿しそして次の世代へとつないでいく。これを繰り返す訳ですが肥沃な土壌とは限らず地上の環境も異常気象が生じたりまた外敵(鳥や獣など)による果実の捕食もあり次の世代へとつながっていくのはごく少数に過ぎない。この世界の世界線も同様で何百本、何千本、何千万本あるいは無限に近い数の世界線が毎瞬創出されながら同時に淘汰(消滅)していくその繰り返しがわたしたちヒトの意識上では感知し得ない深い意識下の領域で行われ続けている・・そういった概念を前提として続けて参ります。◆農場の理植物と言いましたがここからは農作物と表現してまいります。より豊かな土壌にするためにはクワで耕し肥料を加えタネを植えられる領域を確保します。この段階が前述の 疑似幽界という訳です。そして・・より深い瞑想はより深い領域との接触が生じより深いレベルの思念体からの思念を受けやすくなるすなわちより意図に沿ったタネ(思念)を植えることができる。次いでそのタネを育てていくには水と太陽光すなわち愛 信 義あるいは真 善 美を注ぎ込んでいく必要がある。これは多分ですが宇宙レベルの法則でもありその想念・波動こそが水となり太陽光となると思われます。そして最後に花開き実りを迎えていくのですがここで初めて意識下から意識上に表出しすなわち現実界にスガタを現わし行動として物質としてあるいは仕組みとして現出してくる・・という訳です。この過程は言わばヒト自らが土壌となりタネを呼び込み水と光を注ぎそして開花し実を結ぶ・・ヒトが農場となり穀物となるいわば農場の理そのものということです。これは仏教や神道でも類似した説法は存在しておりますね。◆チャクラとの関係ヒトを農場あるいは農作物でたとえてきましたがそれは放っておいて自動的に成されるものではなく何らかの波動・エネルギーがあってこそ成し得るものだと感じます。古来からヒトの身体には7つのチャクラと言われる霊的な波動エネルギーの拠点がありそれらが開いていくことでヒトは次元が上昇していき物質や縁起の理によるシバリから解放されていくということと想われます。実際にはチャクラは通常でもある程度活性化しておりそれがヒトの物質的精神的活動に大きく影響を及ぼしていると推察されます。このチャクラはヒトの身体の中心線に沿って主にホルモンの分泌部位や神経帯に分布しておりますがチャクラの活性化こそがヒトをより次元の高い存在へと変容させていくための機能と想われます。ただ・・チャクラが活性化するから次元が上昇するのではなく本質的には前述した「農場の理」すなわちヒト自らが土壌となりタネを呼び込み水と光を注ぎそして開花し実を結ぶ・・ヒトが農場となり穀物となるそのための機能であり装置であり真の目的はより根源に近い思念体からの思念をタネとして植え育てそして実りを迎え次へとつなぐ・・それを果たすために用意された機能であり超人化・神人化が目的ではない。それは結果に過ぎないということと推察します。長くなりましたのでここで ひと区切りさせて頂きます。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。最近観たYoutube動画で人類のオリジナル体は人類発祥の頃から約100万体ほどでありそれ以外はすべて派生体であるというような内容のものがありました。これはとても興味深いもので元々、神(宇宙根源)が直接創造した人類=オリジナル体は100万人ほどでありそこから原人との混血種が派生していき現在の80億人に至っているという事です。オリジナル体の数は変わらず、多分、様々な時代に偉人としてあるいは時代の転換を促す役割として目的を持った輪廻転生を繰り返していると想われます。それ以外のヒトは 生めや増やせや地に満てよで増殖してきた人類ということになりますがその混血度合によりオリジナル体の資質をより濃く受け継いでいるヒトは時代のリーダーとなり牽引役や転換役を果たしてきたのではないでしょうか。いわばオリジナル体はタネであり起点でありオリジナルの血統を色濃く受け継ぐ準オリジナル体は物語の進行を表から裏からサポートしていく役割であり最終的に果実を実らせて次の世界の種を創造する目的を果たす・・ということではないでしょうか。ここで言う「果実」とはいわゆる電脳人類=電子化との融合による新人類の創出ということなのですがその途中経過で 縄文時代のようなワンネス化の復活日本古来からの 武士道精神(愛信義)の復活などが同時進行で並行して現出してくる・・などと推察しております。ですからその世界は(世界観は)現代の様相を遥かに超越した次元界ということになるのでしょう。その意味ではノストラダムスの大予言に出て来る現生人類とは別のモノの出現あるいはヒトラーの予言にでてくる超人あるいは神人の出現というのも常軌を逸した空想とも言い切れないのではないでしょうか。話しが「オリジナル体は100万人」に戻りますが現在80億人の人類のうち100万人がオリジナル体とすると8000人に1人という割合になりますね。日本の人口は現在 約1億2千万人だそうですのでオリジナル体は約1万2千人存在する(或いは現れる)ということになるのでしょうか。勿論全員が同時代に現れているとは限りませんが人類にとっての大節目の時代が目の前に まさに始まっている訳ですからこの機に合わせて転生してくる可能性は十分に在ると思われます。◆超人、神人の発生とは?人類が滅亡するか否かの分かれ目の時期超人や神人が現れて時代を大きく転換させるという類の予言は多くありますね。聖書や神道でも「聖霊降下」という表現でイエスキリストやミロクメシアの降臨や多くの聖霊(神人・超人)の出現が予言されています。前述したヒトラーの予言がとても興味深くわたしのブログでも何度か触れております。ご参考として↓ヒトラーの予言(第8章と第9章をご参照)それら聖霊(神人・超人)の出現というのは正確にはかつて存在してきたオリジナル体がこの時代に一斉に蘇る=よみがえりということであってそれは派生体に聖霊が降下するということでは無いと個人的には感じております。派生体はいわば農場の土壌のような役割でありオリジナル体は土壌に蒔かれるタネでありそれを起点として新たな文明や世界線の基となる根が生え芽が出て地上に伸びていき葉を茂らせ果実を実らせる。そして更に進化し続ける新世界文明および未来の世界線へとつないでいく・・ですから根本的に存在そのものも役割も異なっている訳ですからいわば人種が異なっているという訳ですね。ただ・・誰がオリジナル体で誰が派生体なのかは表面上は全く分かりませんが強いていえば波動で感じ取る直感で感じ取るしかないのでしょう。それもまた神仕組みなのでしょうから。妄想的考察でした。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。最近よく ヒトの思考領域はどこに在るのか?ということを頻繁に考えております例えば・・ヒトと話していて相手の人柄、考え方、話しの筋道、雰囲気を感じ取りそこから話しの内容が更に深く展開したり或いは表面的・儀礼的なやりとりで終わったり。相手の雰囲気や世界観に直接触れることで自分も何らかの影響を受けて認識や価値観が変わったり。影響を受けたことに無自覚なうちに自分の思考パターンが変わっていたり。自他のコミュニケーションの中で感じ取るこの雰囲気や世界観というものは一体何なのだろうか・・実はこれが「幽界」(仮想幽界)なのではないだろうか。◆幽界(世界観)=思考領域(仮想世界)私自身の体験になりますがADHD気質とウツ気質であったためだと思いますがどうも思考領域が狭く物事を反応的に捉えがちな特性がありました。いわば刺激に対して即反応する。それをよくよく観察して観ると反応の根底に 嫌だ、面倒臭いという厭世的なベースが在り反応の根本的なパターンは・感情的な好悪・自分が信じている常識・所属する会社・団体・コミュニティの 常識や信条でありそれはもはや固定的・既定的なものとなっておりました。そこには思索・考察は無く既存の価値観で 単に反応している 判断を機械的に振り分けていると言ってもよいでしょう。これは長年のウツによる被害者意識も相当に影響を及ぼしていたとも感じております。ですがそんな私であっても話す相手が深い洞察や見識を持った方であったり行動に一貫した信念を持った方であったり利他の志をもって行動し続けているヒトであったりすると会話を通じて相手の方の価値観や世界観を感じると共にその世界観の土俵の中に自分も引き込まれることがあります。いわば 感化されるということですね。これは一種の「幽界」であり仮想世界であるとも言えます。そしてそれはヒトの思考領域の役割もあり相手の思考(波動)領域の中で自分の思考(波動)が同調した状態ということではないだろうか。特に私のように衝動的・刹那的な意識で被害者意識が強くなっている時には自分自身の思考領域(=幽界)が極端に貧弱になっているため自力での思考が思うように動かずそのため相手(他人)の思考領域を間借りして自分の思考を動かしている・・いわゆる影響を受けやすいということです。それが徐々に自分自身の中に幽界(思考領域)が深く拡がっていくにつれ自身の思考の土壌となる領域が耕されていき本来の思考が自然と稼働するようになり自分独自の考え方、理念、志が醸成されて行きそれが自然に行動となって表出してくるようになってくるという訳です。これは理屈ではなく体験からくる実感なのですが。ですから・・常識、世間体、ルール、シバリなど頭(表層意識)の理解で自分の行動パターンを変えようとしてもその元々の原因となるモノは意識下にある訳ですから困難極まりないということです。自分を変えて行く根本の領域は意識下にありそれはいわゆる目に見えない「幽界」=仮想世界に在る世界観なのだと思われるのです。そして「幽界(仮想世界)の領域」を深く拡充していくために瞑想が在ると思われるのです。ただゲームやアニメ、エンタメによる仮想世界もありますね。それもまた一種の幽界(仮想領域)でありますがそれは一方的なインプットでありいわば外側から内側への一方通行。そのためいつの間にかその仮想世界の世界観が自分の中に新たな価値観・思考パターンを無意識の内に刷り込んでいるとも言えますね。自分の本質的な幽界(仮想領域)を拡充していくためには瞑想と日々の主体的行動が不可欠で特に瞑想は変化の起点ともなります。推奨させて頂いている阿吽の呼吸は吸うとき(ア~)と吐くとき(ウ~)に丹田に感覚(意識)を置き止息(ウン)で深い感覚に入ります。書道で半紙に筆先をおくとき、武道で一撃を相手に打ち込むとき、あるいは精密な作業をするときも無意識のうちに息を止めておりますね。※個人的には 瞑想のときは止息(ウン)のときに 瞑目と結印を同時に行っています。 この状態は一時的な仮想幽界を模しており 身(呼吸と体感覚) 口(アウンの言葉) 意(仮想幽界の中に入る観想) を一致させる効果があります。 特に止息(ウン)は ごく個人的見解ですが 意識下の感覚を拡げる効果がある と感じております。 この感覚は 「内から外へ」 であり 深い思索の積み重ねが堆積していき 徐々に表に押し出されていく 主体的な意識と行動が表出し始めていく という感覚が得られます。 これはいまの段階での体感ですが。 個室で自分ひとりの時間の中での瞑想は深い体感を得られますが日常の中通勤電車の中や仕事中のひと時或いは歩行しながらであってもごく短時間の瞑想も可能となります。特にアウンの呼吸と併せることで5秒間でも可能で意識の切り替え(区切り)に役立ちます。いま実践中なのは呼吸のリズムを三拍子でとりながら行うという方法で好きな三拍子の音楽を聴きながらあるいは思い出しながら実践中です。これは3・6・9の数靈の持つ神秘性と併せたものですが密教でも三密加持といわれているように3の数靈あるいは3の倍数は不可思議な効果があるとも感じております。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。吽字義は弘法大師空海が残された未来に生きる私たちへのメッセージとして底に在る要諦を掴み取り蘇らせたいという想いで稚拙ではありますが考察を重ねております。とはいえ1200年前に書かれたものでありその時代と現代では語句の意味合いや 発音自体も当然異なっている部分もありその時間的な隔たりを埋めるには中間に解説者が必要となります。そのため(1)にも記しました通りこのブログでは真言宗に関わる方が執筆された文献を参考とさせて頂いております。◆字相と字義字相とは・文字の「姿・形・音声」そのもの・梵字の独特な形状、およびその音・目に見え、耳に聞こえる「文字の物理的 な側面」 字義とは・文字に隠された「真実の意味・内実」・その文字が象徴する教え、宇宙の根源的 真理など・阿は万物の本初、吽は万物の終極や 無不損滅(損なわれることがない)など 文字のカタチ(字相)を入口としてその本質(字義)を悟るそのための解説と実践法が密教に在るという訳ですね。◆「吽字」の四つの側面阿字(ア)字~法身の義・・仏麼字(マ)字~化身の義・・菩薩汙字(ウ)字~応身の義・・縁覚訶字(カ)字~報身の義・・声聞これは4段階でもありそれぞれの段階でのサトリ・世界観でもあります。◯「訶字」 因縁の義 すべての存在するものは 必ず何らかの原因が 既にあって存在している◯「汀字」 一切諸法損減の義 損滅が無い 不損滅◯「麼字」 我に二種有り 人我 法我 人我は相対的な存在としての我 小我 法我は絶対的な存在としての我 大我 一切諸法に我人衆生等有りと知る 是を増益と名づく(※増益とは) 菩提心から出発する主体の絶対的存在 性=自己を損なっても他者を益す◯阿字 不変の意味で 原因は存在しない。 一切の存在は その本質において 因縁を離れており 絶対の真実相と真理の直接の現われとして 存在している。それぞれの段階に応じたサトリ(気づき)ということになりますが阿字にはさらに3つの側面があります。阿字の実義とは三義有り、◯不生の義 ・一切の存在は多くの原因から生じており 究極的にその根本原因を見出すことが 出来ない。・存在とは何かを説明する答えがない。 それは絶対的な意味で因縁と自性を離れた 現存在の在り方。・二元的意識から離れた中道。 ◯空の義 ・自ら性有ること無し(自性無し) ゆえに空である。 無自性=虚空(こくう)※何も無い(虚無)という意味ではなく 固定的な実体がないからこそ、すべての ものは自由に変化し、相互に関わり合って 存在できるという意味。◯有の義 ・存在がことばであるという意味で 声は有り。 吽字を表す四字の概念(世界観)は言い回しを変えた4つの側面でありそれを体得(体現)するための行法が身口意の三密ということになる訳です。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。阿吽の呼吸法については参考にさせて頂いている文献がありますのでそちらをご紹介させて頂きます。ちょうど1年ほど前に書いた記事ですが結構気に入っており自分でも何度も読み返しております。以下、ご参考まで。アウンは始めと終わりを表わしており神社や仏閣の入口で仁王像や狛犬が邪気が入り込まぬように氣を発しているそのスガタそれが阿吽ですね。昔からこのアウンの呼吸法にはとても興味があり正しい呼吸のしかたを探しておりましたがあるご高齢の剣道家の方が愛読書を紹介されているブログがありその中の一冊『剣のこころ 勝海舟と直心影流』という本の中の一節に阿吽の呼吸についての解説がありました。この本のご著者は直心影流という流派の継承者の方から免許皆伝を授けられた並木 靖さんという方です。とても参考になっております。以下、引用させていただきます。~~~~~~~~~~~~~~~阿吽の呼吸を具体的に説明すると、「アー」「ウン」「ウーン」である。「アー」は口を開き横隔膜を下げながら、肺の下腹部へ息を入れる。肺の上部へ息を入れると、肩があがり、強く吸うと肩に力が凝り、両手の動きが不自由になる。口を開くは、鼻から肺へ、口から腹へ入れるという意味であるが、実際は肺の下部に入れ、下腹へ圧しつけるのである。「ウン」は下腹へ圧しつけた儘(まま)、息をせず、気力を丹田に充実させるのである。「至誠無息」という言葉は、人が一生懸命になった時息を止めて行う事を意味するが、その息は、この「ウン」の状態である。書道も楷書は、一字書き終るまで息を止め、「ウン」の状態で気合を込めて書くのである。茶道も又、茶筅を回して茶を立てる時は、ジッと息を止めるという。剣道では、気合で相手を押す時等、勿論 息を止めた「ウン」の状態である。「ウーン」は、丹田の力を抜かず、静かに鼻から息を出す。川島曉師の教えによると、人は「ハッ」と驚く時、必ず息を吸い込む。息を吐きながら驚く者はいない。ということは息を吐いている時は驚きが少ないのである。また力強い動きは、必ず吐く息で行う。息をつめ「ウン」の呼吸で動く時は、鼻から息を出さないが、その代わり丹田に納めた気合を全身に向けて吐くのである。相撲の立ち合いがそうである。弓道では、離れの直前の伸合いが、静かに行うが同じ呼吸である。剣道の切込みは、無声の気合の場合、同じ呼吸である。「エイッ」と気合を発する場合は、「ウーン」の息を太く短く吐くのである。相手の呼吸を窺って打ち込むということは、相手の吸う息の時に打つのである。段違いの相手の場合、気合だけで倒すことも可能ある。相手が息を吸い、吐こうとする瞬間、気合で攻める。と「ハッ」として息を飲む、又攻める。相手に息を吐かせず攻め立てると、遂には気合だけで倒れてしまう。従って油断の無い者は、太く短く吸って、細く長く息を吐くよう心掛けるのである。これが不動心を養う呼吸法の秘訣である。直心影流の基本の型『法定』は書道でいえば楷書に相当する。一息一刀といって、一つ一つの動作総てに呼吸を伴う。そして打太刀・仕太刀に別れて型を修業するが、打太刀が導いて、仕太刀が従うのである。始めに「アー」の息で上半円を行い、天地の間に我ありと大の字になり、「ウン」と息を詰める。次に木刀を翳(えい、かざす)して「ウーン」と息を吐くのであるが、仕太刀が真面目な初心者の場合、「アー」の呼吸を肺の上部に入れ易い。そして打太刀が、大の字の「ウン」の状態を、少し長く時間取ると、仕太刀は真面目に、息を抜かず耐えるが、上体はフラフラゆれて来る。そこで打太刀が、もう一締めしめると、仕太刀は「バタッ」と倒れる。全く一指も振(触)れぬのに倒れるのである。倒れた者は、それによって、阿吽の呼吸を体得してゆくのである。呼吸を肺の上部に入れるから、心臓が圧迫されるのであって、肺の下部に入れた正しい呼吸法ではたおれる心配はない。倒れる事はけっして良いことではない。しかし、初心者が初心者らしく真面目に修行し、先輩が真剣に指導したら、やはり倒れることはないだろう。剣の道はそれだけ激しいものだ。阿吽の呼吸には、今一つ呼吸量の秘訣がある。これは観世流謡曲の秘伝と全く同じである。謡は、声の良し悪しには関係なく、三年習って謡の声となり、十年修行して一人前と聞くが、これも呼吸法の難しさを示している。観世流では呼吸を、瓢箪と三日月で、教えている。「アー」と息を吸った状態が瓢箪である。下腹へ充分吸い込み、上部を締めて、吸い込む息は全量の八割である。十割吸ってしまうと、謡いはじめの声が堂々とでない。また謡ながら吐き出す息は、二割を残して、新たに息を吸う。二割を残さないと腹に力が無くなって、やがて堂々とした声は出ない。二割残した状態を三日月で示している。これは剣道もその通りで、息を胸の上部まで一杯吸い込むと、丹田に力が入らず、上体が固くなる。又全部吐き出すと丹田の力が無くなり、腰が据わらない。このように阿吽の呼吸は総ての道に通じ、道を究めるにはこの呼吸法によらねばならない。~~~~~~~~~~~~~~~以上で引用を終わります。ご参考になれば幸いであります。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。以前より、スピリチュアル系情報として「幽界の消失」というものがありました。これは元々、この地球上は ある意図の元ヒトが生死を繰り返し繰り返し行い続けその経験値は過去世として蓄積されながらヒトの意識(魂)自体は現象界~幽界~霊界という異なる次元を行き来していると言われてきました。その中で「幽界」はヒトが生から死に切り替わった際生前の執着(囚われ)を落とし次の輪廻に進んでいくための「領域」として存在していました。それが何らかの理由により多分、数百年前~そして現代に至るまで段階的に消失してきた・・という事らしいのです。(多分、今現在は既に存在していない という説が在ります。) そのせいでヒトは死後の一時的な行き場(領域)を失い執着(囚われ)を取り切れない状態で地上への輪廻転生を余儀なくされている・・ただ、ヒトは死後幽界で数百年?かけて執着を取った後に転生してくるためいま生きているヒトたちはまだ幽界が消失しきっていない時期にある程度は執着を落としてきたのだと思われますがこの100年ほどの間に亡くなったヒトは特に行き場(領域)が無いゆえの混乱パニックに陥り、それがいわゆる「霊障」という現象を引き起こし生きているヒト(縁のあるヒト)ヘ精神的・肉体的に影響を及ぼすようになっていったと推察されます。元々は地球上以外の異世界への転生が可能になった地球上への輪廻のシバリから解放されたということらしいのですがそれは執着を取ったヒト(解脱したヒト)の意識(魂)の話しであって多くは輪廻システムがまだ機能していると思い込み、限りなく続いてきた慣習の惰性として転生してきているということのようです。ここで問題なのは自分以外のヒトの残留思念(靈)が行き場所を失い、そのために生きているヒトに影響を与え影響を受けているヒトは何が原因で精神的・肉体的不調が生じているのか分からない現象が生じてしまう・・宗教的な表現でいえば「霊障」ということになってしまいますがその「霊障解消」のために明治以降、さまざまな「浄霊」を行う団体が表れてきました。それは多分幽界消失と極めて密接な関係があるのではないだろうかと推察されます。ですが・・・さらにそれは生きているヒトの精神領域にも深い影響を及ぼしているのではないだろうか・・と推察されるのです。◆今の時代に蘇る密教これはごく個人的な仮説なのですがここ百年ほどの間物質開発は凄まじいスピードで進み自然破壊や資源の採掘による地球という生命体からの搾取は留まることがありませんでした。それは深い意図(目的)のもと行われてきたことと思われますがそれはヒトの霊的領域を封鎖しなければ成し得ない極めて二元的な意識を必要としていたということだと思われます。(そうしなければ物質開発が進まない為)そして・・その目的を達成する目途が立った今今度はそのタイミングと呼応するように物質文明から精神文明へと転換してしまった・・ですから今現在の物質文明はその余力に過ぎないのであり収束に向かうためのシナリオを粛々と展開しているということ。問題なのはその物質文明から精神文明へと急転換するための具体的な修法がどこにあるのか・・だと思われます。話しが変わりますがわたしは元々ウツ気質で特に3年ほど前からの1年半の間は相当ひどいウツ状況でした。いわゆる強い被害者意識とそのための怯え・恐怖逆に攻撃されていると感じるがゆえの逆上・怒り・憎しみその感情の起伏に振り回され続けておりました。いまは呼吸法を中心とする瞑想特に阿吽の呼吸を意識した瞑想を行い続けることで身体の内側の感覚が保てるようになりその感覚の広がり=思考領域の拡がりがそのまま意識の拡がりにつながっている・・という感覚知があるのです。この意識の拡がりが刺激に対して反応的になりやすいその瞬間『ン? 』という間をもたらすのです。これは理屈抜きの実感そのものです。いわゆる「7つの習慣」でいうところの「刺激と反応の間にはスペースがある」「それは人類に最後に残された 選択の自由」ということにもつながると思われます。いままで外部からの刺激に感情的 習慣的に反応してきたこと自体に『ン?』と気づく間 = スペースを感じられるのです。それは時間にすればほんの一瞬まばたき1回分 0.3秒間くらいだと思われます。この感じがとても斬新でこの『ン?』の一瞬の間(ま)でぃままでの慣性的な反応とは「異なる反応を選択できる」ことに気づく…これがわたしのウツからの脱出の突破口になった核心と実感しています。ブログで阿吽の呼吸をしつこく取り上げている理由はその実感ゆえなのです。但し、まだ阿吽の呼吸の方法を日々試行錯誤しているところでしてようやく自分なりに合ったカタチをつかめるかもしれないといった段階ですが。わたしの阿吽の呼吸は過去のブログでも何度かご紹介したある武道家の方が解説されているものを参考にしております。次の記事でそれを改めてご紹介させて頂きます。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。吽字義の理解を深めるための機会となれば幸いであります。今回は、吽字の別釈としての四字のうち「訶字」(カジ)の等観歓喜の義について触れたいと存じます。言葉の解説というよりもニュアンスを感覚的に掴んで頂ければと存じます。◆等観歓喜の義~引用始め~「等観歓喜の義とは、此の吽字の中に 訶字有り、 是れ歓喜の義なり。 上に大空あり、 是れ三昧耶なり。 下に三昧の画の字有り、 是れ亦三昧耶なり。 二の三昧耶の中に行ず。 三世の諸仏皆此の観に同じたまう。 故に等観の義となづく。」 いわば、吽字には あらゆる仏と平等であるという境地に 住することができる喜び という意味がある。 つまり、 吽字の中の訶字は歓びを意味している。 そして、 上の大空点はさとりの象徴・三昧耶を 示している。 また下部には三昧の画がある。 これも同様に三昧耶・さとりの象徴を 表している。 この二つの三昧耶の中において、 吽字による観法を行ずるのである。 三世のすべての仏も皆、 この自証化他の二利の観法を 同様に修するのである。 それ故に、吽字には あらゆる仏と平等一体となる境地に 住するという意味がある と言うのである。 空海の願もまた、 吽字による二利の観法を 行ずることによって、 諸仏とともにかかる等観歓喜の境地 すなわち金剛界五智の総徳に住する ところにあったことは明らかである。 何故なら、ことばの真の理解とは、 このような境地・ 如来のさとりの智慧に住することに 他ならないからである。」 ~引用終わり~【注釈】※三昧耶: サンスクリット語のsamayaに由来し 約束・志・誓願などを意味する。※三昧: サンスクリット語のサマーディ (samādhi)」の音訳で、深い瞑想状態、 精神統一の状態を指します。※自証化他の二利の観法 この観法は、仏の「悟り(自利)」と 「救済(利他)」が一体であることを 理解し、最終的には「自分=大日如来」 として、自らも他者も救う実践を目指す もの※二利:「自利利他」のことで 自分を救うことと他人を救うことが円満 に両立している状態。この「等観歓喜の義」は自利=利他という二利の観法の実践でありそれを三昧耶(志)と三昧(深い瞑想)を通じ仏(超越した存在)と一体となり自他共に救う実践に向かって行く。そこに超越体と同様の「歓喜」が生じる。というものですがそこには深い瞑想と共に利他の行動(奉仕・貢献)といった実践がセットになっていると理解します。ある意味、志なき瞑想では一時的な安息や弛緩は得られてもそこから先には進まない、志を持ち今の最善を尽くす、それは自分のためだけではなく周囲のためにもなる行動であればそれが瞑想を一段と深める事にもつながっていきここでいう「等観歓喜」が生じて来るということなのでしょう。これはスピリチュアル系でよく言われている「ワクワク感」と似ておりますがただ単に自分に利すること我が身我が家の楽しみだけのワクワク感も良いのですがヒトとしての本質を高めていくにはどうしても利他の想いからの志と瞑想、そしてそこから来る実践が必要になってくるということになるのでしょう。この「等観歓喜」の概念は深い瞑想を行っていく際その先へと導いてくれる観想でもあると感じております。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。弘法大師の残された「吽字義」についての学びはこれからも引き続き行って参りたいと存じますが問題は学びと対になる肝心の実践プロセスの方なのです。それは果たして僧侶として出家して隔絶した修行のための環境の中で一定の行法の実践を何十年も積み上げていかなければ成し得ないものなのだろうか・・?これは個人的な考察ですが一般にも知られている密教の行法例えば・身口意の三密・阿吽の呼吸(及びそれに伴う深い瞑想)そして・九字切りといったものの中にその真髄が有るのではないかと思われるのです。◆意識下の意識へのアプローチヒトの意識は表層の意識と意識下の無意識があることは現代では広く知られております。そして表層の意識は氷山のてっぺん部分でありその意識下には膨大な規模の無意識領域が拡がっている訳です。そして表層意識のほとんどが意識下の無意識の領域に在る思念に従って表出したものであるということなのです。これはいわば表層意識上の意識で表層意識自体を変えようとしてもそれは不可能であり真にヒトの生き方を変え限界を超越させていくには意識下の無意識にどうアプローチするかということが重要なポイントであるということは自明の理でもあります。世の中にはそれを成すための「ノウハウ」が氾濫しており、それは・電子的・機械的な音や波動により 潜在意識にアプローチするもの・アファーメーションのように 表層意識から刷り込んでいくもの・一定の行為行動を何らかのトリガー (きっかけ)と共に反復的に行い続け ほとんど無意識に反応するレベルまで 刷り込んでいくものなど様々ですが要はそれらは表層から無意識層へと刷り込みを行うことでヒトの刺激に対する反応を変えて行くという類のものと推察されます。しかし、それらのほとんどが一過性のもので終わってしまう。その真因は表層意識と意識下の無意識とは構造が全く異なっておりそれなりの手順を踏まなければ無意識との真の意味での「連携」は困難なのではないだろうか・・そしてその「手順」こそが弘法大師が体系的に残された密教でありそれは私たちが知り得る・身口意の三密・阿吽の呼吸そして・九字などの行法であると思われるのです。「身口意の三密」を検索すると~~~~~~~~~~~~「身体(身密)」「言葉(口密)」「心(意密)」の三つの行いを指しこれらを整えることで仏と一体となり即身成仏(現世で仏になる)を目指す。とあり具体的には身密は印を結ぶ口密は真言を唱える意密は本尊を観想することですが日常生活では「手洗いや合掌(身密) 感謝の言葉(口密) 思いやりの心(意密)」のように行動・言葉・心を調和させることが実践となります。~~~~~~~~~~~~とあります。とても分かりやすい説明ですね。この身口意3つを調和させるというのが要でありこれがミチを極めていくための要諦だと思われます。◆身口意の三密合一の境地こそ 無意識領域の解放=限界突破のカギ?マラソンのトップランナーの方は自身にとってのベストなフォームを試行錯誤し続けて身に付け(身密)自らを奮い立たせ支えとなる信念を言葉で表し(口密)競技に勝ちたい!という意志を強く想い(意密)この3つがひとつになる時こそ無意識領域を解放し限界突破が可能となっていくものと思われます。あるいは芸術作品を創作するクリエイター例えば 仏像を彫像する仏師の方の場合始めに彫像の技術の基礎を何年も学び模倣から始めて作品の制作をそれこそ数えきれないほど繰り返す。徐々に自分の中に自分がイメージする仏のスガタが映像化してきてそれを体の動くままに彫り上げていく。それはあたかも丸太の木の中に既にイメージした仏のスガタが存在し周囲を丹念に削ることで本来のスガタが現れてくる・・・そんな感じなのでしょうか。芸術も武芸も演劇も絵画も音楽もしかり。高度に洗練された技術+独創性があって始めて作品が現象化していく・・このクリエイターの方々が芸術活動に取り組む姿勢と過程で多分、無意識のうちに三密合一のプロセスを行じながら創造性を発揮しているということだと思われるのです。◆創造活動のカギとなる深い意識領域への アプローチ~身口意の三密は創造活動のための方程式、型のようなものだとも言えますがより深く高いレベルの創造活動を成そうとするときヒトは自然に「瞑想状態」を求めるようになると思われます。これはある意味現実世界の喧騒から離れ情報を一旦遮断しひとりの世界に入りきること即ち ひと区切りをつけることが ヒトの脳や精神に非常に有益であるからだと思われます。まばたきの不思議についてだいぶ前に記事にしましたがまばたきは一般的に3秒に1回(1分で20回)で1回につき約0.3秒間これは1日8時間睡眠とした場合1日当り 19,200回これを時間換算すると19,200回×0.3秒間= 5,760秒つまり 睡眠時間を除き 1日当り 96分間≒約1時間半目を瞑っている時間が在るということです。そして面白いことに眼球の表面の潤い(保湿)のためならば本来は1分間に3回ほどでよくそれ以上のまばたきは 外界からの情報を 無意識的に遮断し 情報の整理を行っているということなのです。また、実験を行い「複数のヒトが同じ映画を観ているとき 全員が同じシーン同じタイミングで 同時に まばたきをしている」という結果が出たというのも非常に興味深いところです。ヒトは無意識のうちに外界からの情報整理のためにまばたきをしている・・ならば新しい状況に対応しようとするときより深い思索を要する状況に直面したときまばたきよりも長い瞑目(瞑想)を自然に欲するのも うなずけます。さらに深い情報整理を行うために・・次の記事で阿吽の呼吸と瞑想について触れてみたいと存じます。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。吽字義の考察をするにあたり文献等からの引用につきましては主に高野山大学の密教文化研究所の文献を参照させて頂いております。『吽字義』における「ことば」の思想性38ページほどの文献ですが平易な表現で解説されており何度も読み返していくことで概念やイメージが少しずつですがつかめていくように感じます。仏教用語の理解のため一般的なネット検索も併用致しますが基本的にはこの文献を主として引用させて頂きます。また、個人的な考察・見解についてはその旨、前置きをしたうえで述べさせて頂きます。◆「四字の実義」吽字の字義解説は大きくは「別釈」と「合釈」に区別されています。別釈では 吽字をさらに「四字の実義」に分けて解説し合釈は 吽字を総合的に解説しています。「四字の実義」の四字とは「阿」「訶」「汙」「麼」のことでそして「四字を以て一字(吽字)を成す」とあります。仏教用語満載ですがこれはサトリ(次元上昇)の段階を表しており、それぞれの段階を経ながら(或いは行き来しながら)変容していくという事を示しているものと思われます。話しが逸れますが声聞・縁覚・菩薩は三乗と呼ばれ実はこの下にも段階があります。いわゆる「十界」ですね。一般的な仏教用語ですが十界は「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏」の十段階でこのうち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上が六道と呼ばれ、ヒトはこの六道を輪廻し続けている、という訳です。そして声聞・縁覚・菩薩・仏がサトリへのミチという訳です。ブッダが「縁なき衆生は済度し難し」と述べられているように例え解脱(次元上昇)に至るミチであったとしてもそれを聞き(声聞)、縁を感じ(縁覚)、行じていかなければ(菩薩)そのミチを歩んでいく事はできないという事でしょう。◆「三句」は実践プロセス話しを戻しますが「阿」「訶」「汙」「麼」の四字を学ぶことが吽字を知り(因)、行じ(行)、体得していく(果)に通じていきますがその実践プロセスは(1)の記事でも触れた三句(因・根・究竟)にて捉えられていくという訳です。即ち「菩提心を因とし」「大悲を根とし」「方便を究竟となす」ですね。これは・菩提心(悟りを求める心)を 「因(原因)」=種・大悲(大きな慈悲)を 「根(根本)」=根・方便(衆生を導く手段)を 「究竟(究極・到達点)」=果実と捉え、悟りへのプロセスを植物の種・根・果実に喩えたものです。いわば学び(四字)と実践(三句)であり相互に関係し連動しあっていくという事になるのでしょう。今回は概略のみで用語解説になってしまいましたがそのうえで引き続き「吽」の字義に踏み込んでいきたいと存じます。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。前記事の続きですが実際の「吽字義」の考察に入る前にいま切実に感じていることを記させて頂きます。◆現在進行形で起こり続けている現象 その意味は?密教の用語は難解で文字の字相(一般的な表層的解釈)を理解したうえで文字の字義(その奥にある深層的な意味)を幾通りもの表現を重ねながら一字に込められた概念を捉えていくという作業が必要なようです。私たちが使っている現代口語はひとつの語句はひとつの意味を表現しますが感覚の世界を表わす密教においてはしかも「仏」という超越した存在を表わしその超越した存在と成ること(いわゆる即身成仏)を究極目標とする密教は教え(理論)と行法(実践)が両輪となっております。ですのでその実践により到達する境地は字相と字義による双方で丁寧に伝えられております。それらの内容はその時代においては表現しきれないイメージや感覚、概念を真言(マントラ)や曼荼羅(宇宙観を表わす絵画)加持祈祷(行法作法)を通して表現し寺院という特殊な空間とその中での生活を通じて出家僧(プロ)に体得させていくシステムであったと思われます。密教における即身成仏はヒトの究極目標とされますがこれは明らかに次元上昇による変容即ち超人化(あるいは神人化)を意味しその当時は出家僧を通じて未来に伝達していくことがその存在使命であったと推察されます。時代が移りいま私たちがいる「現代」の様相は弘法大師の時代の人々の眼から見たら一体どのように映ったことでしょう。日本語を基とする文化のある日本人ゆえに密教の教えのその表層的な意味や理由は理解できると思われますが要はその深層にある「意義」をどのように未来の日本人に伝達し得るか・・そのためには密教の持つ独特の世界観・宇宙観をある程度容易に理解し得る条件が複数整っていかなければならない。それが現代日本にそろい始めている・・例えば・ネットの普及による情報収集の高速化 多様化・通信手段の高速化による相互情報伝達化・あらゆる生活様式の機械化 システム化 デジタル化・科学の発達による宇宙観の変化・仮想現実世界の認知と受容 (これは特に若者に対してですが)・AIを生み出しそこに人類が生産してきた 情報を集約させようとする流れ・スピリチュアル(精神世界)ジャンルの 隆盛・世界の深層を暴こうとする陰謀論の台頭・国境という境目があるがゆえの延々と 続いてきた終わりなき紛争や競争の 世界的終焉を予期させる状況・・いわば末法末世の世界ともいえますね。そして現代の変化の速度は過去のどの時代よりも急進的であり同時にその速度を増していきます。それは究極の臨界点を目指し 急ピッチですべてが進捗しているかのように。要は密教が発祥しそのスガタのまま現代まで伝承されてきた・・実はその内容は私たちが直面している末世の時代にこそその内容が理解されそしてヒトを超越させるために秘匿されてきた技術であることが明るみにでるタイミングにきているということだと思われます。密教独特の世界観をイメージし認知受容できるようにするために現代に氾濫している情報や技術のすべてが準備され在りそして密教の提示している吽字義(三句一字)の表わす深層世界とそれを感覚知として体得していくための身口意の三密行その目指すところのヒトの超人化(変容)という究極目標その現象化ステップが始まる・・という推察であります。実際の「吽字義」の内容考察は次より始めさせて頂きます。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。浅学の身で密教のことについて云々するのはどうかとも想うのですが元々、高校生の頃から(45年前・・)興味を持ち始めたものでこのブログでも過去に断片的に触れて参りましたがその世界観がとてもユニークでいわゆる宇宙規模の「宇宙観」を感じられるところがあります。そして何よりもこの数か月間自分なりに行ってきた阿吽の呼吸法を取り入れた瞑想が自分の意識を深めている(?)感覚がありそれと同時期にこの阿吽の「吽」が密教の中でも極めて重要な概念であるということが分かり更に興味を増したということなのです。いわば趣味と実益を兼ねた考察ということになりますが。◆密教と顕教弘法大師が開いた密教により仏教は出家者(プロ)が学ぶ密教と在家者(民衆)に布教された顕教の二つの流れができました。双方の世界観の大きな違いは顕教は世界は相互的依存性の中で成り立っている密教は世界の真の実相(真実相)は常・楽・我・浄であり全く等しく不動である。絶対的な存在性において存在している。というように 根底から全く異質なものであるというところです。現代は仏教が普及していた時代よりはるかに物質的な面での知識・情報が在りいまの時代だからこそ密教の持つ「宇宙観」を在家(一般人)であっても理解し得る段階になっていると思われます。◆吽字義タイトルの「吽字義」ですがいわゆる「身口意の三密」についての解説本 身~「即身成仏義」 口~「声字実相義」 意~「吽字義」として刊行されたうちの一冊となります。。ちなみに写真は印刷博物館に保存されている吽字義の書です。ご参考:『吽字義』 | コレクション | 印刷博物館 Printing Museum, Tokyo印刷博物館では、印刷の起源から最新の印刷技術まで、コミュニケーション・メディアとしての印刷の価値や可能性を紹介し、幅広い方々に印刷への理解と関心を深める活動をおこなっています。www.printing-museum.org阿吽の呼吸の「阿」「吽」は宇宙の「a」(始め・本初)と「n」(終わり・究極)のことでこれが寺院の門の両サイドにみかける「阿形像」と「吽形像」として表現されている訳です。 梵字の阿字 梵字の吽字この究極を表わす「吽」の一字には森羅万象・宇宙そのものである大日如来が表れていると言います。そしてこの「吽字義」では~この一字をもって三乗の人の 因・行・果を摂するに ことごとく摂して余なし、および、 顕教一乗・秘密一乗の因行果等准じて これを知れ~とあり吽字により顕教であろうが密教であろうが等しくサトリへ導く とあります。ここで言う三乗とは 仏教用語でいう「声聞・縁覚・菩薩」というサトリの段階を意味しています。◆三句一字「吽字義」には次のような付記があります。~この一字をもって、 通じて諸経論等に明かすところの 理を摂することを明かさば、 しばらく『大日経』および『金剛頂経』 に明かすところ、みなこの 「菩提心を因とし」、 「大悲を根とし」、 「方便を究竟となす」 の三句に過ぎず。 もし広を摂して略につき、 末を摂して本に帰すれば、 すなわち一切の教義この三句に過ぎず。 この三句を束ねてもって一の吽となす。 広すれども乱れず、略すれども漏れず。 これすなわち如来不思議の力、 法然加持のなすところなり。 千経万論といえどもまた この三句一字を出ず。これは、真言密教の二大根本経典である大日経と金剛頂経の内容のすべては「三句」すなわち 「菩提心を因とし」、 「大悲を根とし」、 「方便を究竟となす」の三句に過ぎず さらにこの三句を束ねてたものが「吽」であるという訳です。ここでいう大日経と金剛頂経は大日経は「慈悲(胎蔵界)」の世界観と真理そのものを説き金剛頂経は「智慧(金剛界)」を体得し 即身成仏(因縁から解脱)するための具体的な修行方法を説いたものと言われております。ですから、三句一字はいわば真言密教の真髄ともいえますね。この「三句」は・菩提心を因とし ・・仏になる決意を根本とし・大悲を根とし ・・利他の精神を土台とし・方便を究竟とす ・・実践行が即悟りの境地となるという3つのプロセスのことですがその3つも「吽」の一字に帰結してしまうということです。◆密教の実相観密教の世界観は、宇宙観ともいえそれは現実のシャバ世界とはまったく異なるいわゆる「実相の世界」それは「真実相」という言葉で表されています。これはここ数年で広がっているマインドフルネス瞑想ともつながる部分が在るとも感じております。たとえば・・高野山大学 『吽字義』における「ことば」の思想性高野山大学密教文化研究所(平成4年度)の刊行物からの引用(PDFファイル)となりますが(一部引用させて頂きます。申し訳ありません)・世界と存在の絶対的真実相・総ては「吽」から生じる・無量の智 ことごとく 一字の中に含ぜり・梵字・ことばは 真実相の表象・一切の存在はその本質において 因縁を離れており 絶対の真実相と真理の直接の現われとして 存在している・因縁によって成り立っていることは 自性がないということ・顕教における世界観は相互的依存性の中で 成り立っている・密教における世界の真実相は =常・楽・我・浄 全く等しく不動 本来的な自己の性質に住していること 絶対的な存在性において存在すること 始めに読んだときは何のことか分かりませんでしたが求める気持ちを持って読んでいくと密教における真実相という観念がいわゆる「世間知」ではなく「出世間知」肉眼ではない目で観察しているというか「吽」の境地に入ることで実相観という新たな感覚が(というか本来備わっていた感覚が)蘇るということだと思われます。特に この現世ではすべてが因縁果報(因果律) によって変化し続けている(無常) という顕教の教えとは異なり 真実相の世界観は 現世の因果律の法則を離れた 絶対的な存在性において存在しているしかもそれは =常・楽・我・浄 全く等しく不動という「宇宙観」とも想える世界観・・・それが密教を極めた先人から発せられたものであればそれは・・明らかにいまこの時代の私たちへのダイレクトなメッセージに他ならないと感じてしまうのは大げさでしょうか・・ここまで考察を進めてくると密教の奥深い領域まで進んでいくには単に世間知を捨てて出世間知で知れ!という表層意識の努力だけでは無理でありそこには言葉を超えた超感覚の世界というか多分・・瞑想による意識の拡大と五感以外の認識能力の開花が必須のように思われます。それはいわゆる直感を主体とした超能力というかいまはまだよくわかりませんが。ただ 個人的にはここ数か月間強い切迫感のようなものを感じ何かリミットが近づいているような感覚があります。それは自分個人なのか ヒトに対するものなのか・・そしてそれに対応するためには自らの変容(あるいはヒトの変容)しか選択肢がないという感覚・・外に意識を向けるのではなく内なる感覚を深め目で見るのではなく実相を観るという新たな目を持つこと・・そういう段階に入ってきているのだと感じております。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。これはわたしが数年前強いウツ状態となったときの体験なのですが・・いわゆるパワハラに近い形で部下を責め立てるようなタイプの上司(役員)がいてその指示を受けながらいつも従業員との間に挟まれながら絶えず強いストレスを感じ続ける・・そのような時期が長く続いていました。そしていまから想えば相当ヘビーなメンタル不全状態いわゆるウツ状態に陥り被害妄想のループから抜けられない状況に陥っておりました。そのときあるメンタルトレーナーとの縁ができコーチを受けることになりました。その際はじめに言われたことは「これであなたの人生が変わります」とか「一生もののスキルが身に付きます」といった実際には担保されていないことを平気で公言されわたしはそれを信じ込んでしまいました。本当に申し訳ないと思いますがいまは詐欺に近いとしか感じられません。これはメンタルトレーナーなる人物に三ケタに近い◯◯万円を上納してしまったわたしの深い失敗談ゆえからなのですが。とにかく心神喪失が深いときは判断力が極めて不安定な状態でありその時期に「借金をしてでもやる価値がある」などと言い巧みに勧誘するその姿勢は本当に悪質なものでした。確かに自分の選択は自身の責任なのですが心神喪失状態につけこんで勧誘するような手口はいまだから言えることですがヒトとしての領分を超えた所業と思われる節があります。まあそういう経験があったからこそいまが在るとも言えるのですが。ここで何が問題なのかというとお金をだまし取られた・・ということではなくその時のわたしに対し言葉や理論で「あなたは妄想に囚われている」「それは事実ではない妄想なのです」とか「自分を変えるためには イメージングが必要です。 未来の目標を設定して それが実現した自分の姿を 想像してみて下さい」などと言われてもしょせんは表面意識上のお遊びであり一時的な暗示に過ぎなかったということなのです。本来は瞑想の基本から指導し囚われから離れていくための身体感覚への意識の向け方そのための瞑想の習慣化といったとてもマイナーで時間と手間暇がかかる方法が一番着実なミチであったからなのです。わたしの場合は大金を使ってしまったためその後はお金を出したくても出せず仕方なしに自分から情報収集をしながら摸索していくという方法を取らざるを得なかったのですがそれが結果としてはよかったということなのです。痛い目にあったがゆえの不幸中の幸いとでも言いましょうか。結局のところハデなパフォーマンスをしながら効果を宣伝しているような高額なものではなく地味で素朴であっても着実に結果がでていくミチがあるということなのだと気づきました。自分の変容をヒトの手に委ねてはならないという自戒の意味も込めて記しました。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。世界線という概念がスピリチュアル界に定着し始めてから既に数年は経過していると思われますがこの世界線(並行世界)という概念はとても面白く興味を掻き立てるものがあります。それはいわゆる「現象化」神道でいうところの「ムスビの理」「産土力(うぶすなのちから)」とも関連しているように思われます。◆世界線は植物の根っこの如しイメージ的に世界線はヒトの身体内部の毛細血管や神経網のような感じですがそれは植物の根っこのように地中に伸びていき地上に伸びていく茎(幹)を支える役目と地中から水分や養分を吸収しそれを地上の茎(幹)に供給する役目を兼ね備えているのではないだろうか・・この場合地中は この三次元現象界であり「地中に伸びていく根」は 幾重にも分岐を繰り返しながら派生していく世界線の支線ということになるのでしょう。そして「地中から水分や養分を吸収する」は 世界線を管理統括している 創造主(あるいは運営管理者)であり、それは ヒトの世界のあらゆる営みを 情報として吸収し続けている・・のではないだろうか?また「吸収した水分や養分を地上の茎(幹)に 供給している」というのは 創造主(あるいは運営管理者)が この宇宙世界の外側の 創造主自身が身を置く別世界に 影響を与える何らかの情報として 提供されていくということだと思われるのです。ですから・・わたしたちが身を置いているこの世界線自体はわたしたちの「個」としての幸福とか充実とか不幸とか葛藤とかそういったヒトとしての「営み」を「情報」として吸い上げ「蓄積」し別世界で転用していくための素材に過ぎないということではないだろうか・・まあ言うなれば神や仏がヒトを幸せにしようとしている訳ではなく創造主が父や母のように我が子としてヒトを愛し幸福にしたいと願っている訳でもなく極めて淡々と実験の成果を回収し続けているということ・・◆世界線を成長させていく原動力は ヒトのタンハー(根源的な渇望感)世界線の創造過程はまず世界線の起点となる「思念」がありそれを後ろから前へ押し出そうとするタンハー(エネルギー)があれば成長が始まる。始めは薄く半透明な存在であるが流れ込むタンハーの量に応じて徐々に濃度が濃くなり三次元世界への現象化直前に至る。そしてその状態でしばし停滞するが物質的な質量が生じ始める瞬間に臨界点に達し現象化が始まる・・そんなイメージでしょうか。わたしたちが認識できるのは現象化が始まったその瞬間からあとそれ以降ということになるのでしょう。ですから・・感覚器官での認知は既に在るモノを事後認証しているということになる訳です。これからの未来人類はタンハーが流れ込む前現象化以前の時点で事象を認知できるような感覚器官(目)が生じ物事の結果ではなく物事の本質そのものを感知するようになるのではないだろうかということなのです。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。いまは還暦を過ぎた身ですが振り返ってみるとADHDゆえの生きづらさの中で人生の時間の多くが何をどうしたらよいか分からない戸惑いと被害者意識と脅迫観念傷つきやすく逆上しやすい・・そんな性格として生きてきました。そして生きていくための処世術として無意識のうちに自己防衛のため自分の本心にベールをかけヒトに責められない生き方ヒトに悪く思われない生き方ヒトの仮想目線に判断基準を置き常識や強者の価値観に従属し続ける姿勢が深く根づき何が自分の本心なのかが全く見えないようになっていました。いま想うにいつも心の内側がザワザワし続ける焦燥感と現実世界への嫌悪感と羨望感という相反する感情が占めていたと感じます。要は・・四六時中心ここに在らず自分目線が無く他人目線のみ信念もポリシーも無い薄っぺらな人生だったと思います。多分ですが学生時代は少数でしたが友達がいたためギリギリ引きこもりにならなかったと思われます。そんな自分ですが今までの人生を通して心から想ってきた願望がそれも非常に明確な望みがひとつだけありました。それは・・ 変身(変容)願望それに尽きます。嫌いな自分を脱ぎ捨てて全く異なる強い自分に成りたい・・それは今でも持ち続けている切実な願いでもあります。◆タンハーと習気の世界観実は・・わたしが強いウツ状態で被害妄想的な強迫観念の中にどっぷりつかっていた時期はある意味 自分の変身(変容)願望を 心の底から導き出すための 仕組みではなかったのか・・と思われる節があるのです。この数か月間密教や瞑想(ヨーガ)という世界に魅了されて個人的に考察し試行錯誤を繰り返しながらひとり実践してきた阿吽の呼吸とそれに伴う吽字観瞑想はわたしの内面にあったこれまでの生き方への葛藤の本来の意味を掘り起こし外の世界で戦い続けるのを止めさせ内の世界の拡大と開拓を深く静かに促進し始めました。それが何と言いますか・・ADHD気質ならではの本来有する留まるところを知らない探究心に火をつけたような感覚なのです。具体的には呼吸法と瞑想を日常の中でも自宅で安息している時でも数秒でも数分でものべつ間もなく行うようになりその結果意識の深化が進んでいるような感覚が生じております。◆実相観その中でも最大の効果(?)と言えるのは タンハーと習気による波動を 意識するようになってきたという感覚です。自分の中にいま沸き起こっている感情や感覚はどこから来ているのか?・・それがタンハー(肉体の奥からの渇望感)から生じているのかそれとも生まれてからいままでの間に刷り込まれてきた習気(習慣・常識・規範意識・民族的文化)から生じているのかそれを感じ観察する『目』の如き感覚器官が生じたように感じるのです。この感覚(器官)はとても面白く自分の感情や感覚のみならずヒトの感情や感覚もまたそれがタンハーから生じているのかそれとも習気から生じているのかという観察をし始めるのです。つまりそれは・・ヒトを観ているのではなくその行為や感情を引き出す基となるタンハーや習気を観ているという現象と因果律を同時に観る目いわゆる俯瞰する目ということになるのでしょうか。阿吽(アウン)の呼吸は習得の度合いに応じた何らかの感覚強化といいますか意識下の無意識領域の開発のような効果があるものと推察されます。それは例えて言うならば武芸を極めようとするときあるいは科学を探求していくときに探究の深度に応じて段階的に開花していく 現実(現象)を事実(実相)と捉え 観察している目ということのように感じます。◆タンハーや習気を変身(変容)を促すエネルギーとして変換していく修練一般的にはネガティブな感情やストレスはそれを軽減するために捉え方を変えてみたり意識を別のモノに向けてみたりという方法(ノウハウ)を身に付けていくというのが常道のように捉えられがちです。しかし実際にはネガティブな感情やストレス特にループし続ける妄想状態は意識上に既に表出し現象化しているエネルギーなのですからそれを観察し捉えいかに自らの変身(変容)を促すエネルギーへと置き換えていくか・・それが本質的な在り方のように感じております。その修練の源となっていくのが阿吽(アウン)の呼吸であり吽字観(あるいは実相観)ではないだろうか・・この辺りは自分で試行錯誤しながら探究を深めているところであります。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。◆エントロピー増大の法則「エントロピー」とは「乱雑さ」や「無秩序さ」の度合いを定量的に表す概念のことで物理学や情報理論で使われる用語との事です。このエントロピーは 物事は自然に任せるかぎり 時間の経過と共に だんだんと乱雑になっていく そしてその乱雑は増大していくという法則だそうです。このエントロピー増大の法則についてとても分かりやすく解説されている情報がありましたのでご紹介させて頂きます。なぜ地球上だけに、「エントロピー」という悪魔に抗える奇跡が起こっているのか?経済産業省の伊東直人さんという方の記事ですが書籍(本)という媒体は記録を長く後世に残し続ける優れた情報伝達媒体であるという考察をされておられその中でこのエントロピー拡大の法則を説明されております。この中でエントロピーの本質的な説明として この世界のあらゆる事象は 自然のままにすることで 秩序だった状態から バラバラな状態に向かって行く。あるいは あらゆるモノは新しくはならない。 古くなっていくしかない。 劣化し続ける。と解説されております。これはモノ(物質)のみならずヒト(生物)もまた同様です。しかし実はこの地球上であって時間と共に劣化しないモノがありそれが「情報」であるという考察もされています。この部分もとても興味深い視点だと感じます。◆エントロピーと臨界点エントロピーは物理的には・熱が拡散して 均一になる(冷める、広がる)・秩序ある状態から 無秩序な状態になっていくことを示しますがこの概念は様々なヒトの文明・歴史の流れにも相似象として現れております。中国の秦は、それまでの戦乱の時代から産まれた中国初の統一国家でしたがその強大な中央集権体制と急激な改革から始皇帝の死後、わずか15年で滅び再び混乱の時代へと入り、漢王朝に取って代わられることになりました。ヒトの世界では制度や仕組み自体もまた導入時そのままの状態を保ち続けることはできず秩序から無秩序へと変化していくいわゆる経年劣化していくという法則なのですね。ただしヒトの世界では物質的なエントロピー以外に精神的な臨界点というものも同時に存在しております。たとえば戦争はその時代の体制に対する不満が民衆の中に徐々に蓄積し、それが秩序を崩壊させ一時的な無秩序現象として現出した状態のことでしょう。但し、近年の戦争は明らかに軍産共同体が引き起こした意図的人工的なものが殆どだと思われますが。この無秩序な現象がある臨界点を超えた状態になったときエントロピーの不連続性が消失し連続的な変化が起こり始めると言われております。物理的には例えば水という気体・液体・個体の三態に変化する物質が気体・液体として共存できる臨界点(限界の温度・圧力)を超えると超臨界状態=液体でも気体でもない連続的変化が生じます。これは一般に知られている0度で水は氷になり100度で水は蒸気になるという温度を遥かに超える高温・高圧の状態であります。例: 水の臨界温度(374℃)と 臨界圧力(22.1MPa)を超えると 水は液体とも気体ともつかない 「超臨界水」になる。この技術を流用したものがドライクリーニングですね。(この場合、使用するのは水ではなく 二酸化炭素になりますが)◆精神世界のエントロピーと臨界点「強く想い続けていると現象化する」というようなことを聞いた事があると思いますが、これはある意味では真実なのだと思われますただ精神エネルギーが物質化するには相当の時間とエネルギーの蓄積を要すると思われますのでそこには個体の精神エネルギーというより集合体(集合意識)のエネルギーありきということになるのでしょう。ですから・・自分(個体)が祈ったら現象化した!ということがあったとしても実際には自分以外の多くのヒトの集合意識が類似した目的で「そうしたい!」という願望が蓄積し臨界点を超えたそのタイミングで現象化したというのが真実なのだと思われます。またその場合の「強い願望」というのはカタチばかりの祈りとは全く異なる 粗野で切実で切迫した激しい渇望感 エントロピーで言うところの 無秩序的な ほとばしるような情念的衝動なのだと思われます。その激しい念的波動が臨界点を超えたとき精神的エネルギーと物質的エネルギーの境界を超えた相互に影響し合う連続的変化が生じるということだと推察されます。そして多分・・これが物質化・現象化の根本的な仕組みではないかと思われます。ですから(実相で観れば)極めて強い恐怖心・怒り・憎しみ・渇望感といった念的波動はエントロピーの法則を加速させ臨界点に向かわせるためのエネルギー源とも言えます。◆世界線のバックアップとやり直しの世界線エントロピーの法則と臨界点について長々と記してきましたが実はこのエントロピー(無秩序)と臨界点(境界を超越した連続的変化)という現象こそがヒトが次元上昇の際に作動する変容の正体ではないだろうかという推察なのです。そしてそのエントロピーと臨界点の究極がいわゆるヒトの肉体のエーテル化現象ではないか…肉体と精神体(意識体)はいまの時点ではまだ分かれ区分される境界が存在しますがそれが徐々に消失していきやがて融合し合う・・それは避けられない方向性と思われます。しかしそのためにはエントロピー(無秩序)だけではなく臨界点(超越点)に達する膨大なエネルギーと絶妙なタイミングがなければならない・・そこが問題なのだと思われます。ヒトの次元上昇を意図しそこに導こうとする存在があるとすれば正にその臨界点に達するためのタイミングをどう実現させるか!そこが一番苦悩するところではないか?ということなのです。◆世界線のバックアップとやり直しの世界線そこでこれを実現させていく有効な手順として多くの世界線を支線として派生させてバックアップとして保持しておき本線の世界線のエントロピー&臨界点のタイミングがずれて次元上昇に失敗したらバックアップしていた支線の世界線を再起動し、再度エントロピー&臨界点のタイミングをはかっていく・・これはもうほとんどが何度も膨大なシュミレーションを繰り返しながら微妙なタイミングをつかんでいく作業ということになるのでしょう。それはヒト個人の意識というより大多数の意識の集合体である集合意識の流動化(ワンネス化)へとつながっていくと思われます。また今回の次元上昇では意識体(精神界)のみならず肉体(物質界)もまた同時にエントロピー&臨界点に達し流動化(エーテル化)していくという難易度の高い実験(?)になっていくということなのでしょう。世界線のバックアップという概念はプログラムを構築しテストを繰り返すというプロセスを行っているプログラマーの方ならばお分かりだと思いますがプログラムのバグが起きたり期待される処理が行われなかったときそのためにその処理が開始される直前の段階のバックアップデータを残しておきいざプログラムがハングしたときにはそれを停止させ原因を追究しながらバックアッププログラムに改良を加えたのちに停止位置から再起動させて実験を続行していく・・手順ですね。要は我々の世界線という意識の世界は至るところにバックアップの支線が存在しそれが停止していればその時点で時間が停止した状態で保持されており改良のうえで実験が再開されればその時点から時間は流れ始めその世界線に存在する我々にとっては停止は認識されておらず時間は連続して流れ続けて来た・・という訳です。それは例えて言うならば芸術家は自分のこだわりが納得できるまで作品を創り直し続けるし料理家は自分の納得できる味を表現できるまで料理を創り直し続ける。失敗した原因、微妙なタイミングを追求し続けていくものですね。ですから・・この世界を創造し運営してきた「存在」もまたこだわりをもつ「いち芸術家」であるということなのですね。先の「世界線のバックアップ」という概念もコンピューターが普及しインターネットが普及しまたスピリチュアル系情報として世界線(並行世界)という概念が拡がっていなければ認識として在り得なかった訳です。要は・・ ヒトが次元上昇(変容)していく 臨界点=絶妙のタイミングというのは この世界の創造者であり運営者の 水面下での 膨大なシュミレーション 試行錯誤の結果 導き出されている(現出している) という真実なのです。ですから・・それを知らずに(知ろうとせずに)この世界に表出している「果実」をただ享受するだけの存在はもはやかつてヒトラーが未来を予言した究極の予言の中に出て来る 大多数が機械化人間と化してしまうということになるのでしょう。例え次元上昇しエーテル化を果たしたとしても・・そしてその仕組みを知りこの世界を創造し運営してきた「いち芸術家」である「存在」を認識しその実現をサポートし続けようとする側のヒト(意識体)はヒトラーの予言にある 超人あるいは神人として存在が大きく変容し人類の新たな未来世界を裏側から支えていく存在になっていくという事になるのでしょう。だいぶ余計な妄想まで踏み込んでしまいましたがほとんど直感的なイメージをつたない言語力で置き換えたので稚拙な表現になってしまいました。