✡ADHD気質で神秘的なことに興味がある方々へ
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。ヒトは絶えず「物語」を求めてさまよっているともいえるのでしょう。日常生活においても仕事においても人生設計においても趣味や娯楽においてもまたかつての高度経済成長時代においても三種の神器(テレビ・冷蔵庫・洗濯機)のある生活を憧れ求め住宅ローンを組みマイホームを購入し終身雇用による安定した生活を・・これもまた終戦後の日本人が求めたスタンダードな「物語」と言えますね。ドラマや映画、舞台演劇、アニメやゲーム、アミューズメントパークといったエンタメあるいは賭け事や投資人生の節目である就職や結婚企業やコミュニティの運営・・すべてがストーリー性ありきで展開していきます。現実世界においては自分自身が登場人物であり演者ですがエンタメは自分が楽しむ側であり観客であるという違いがありますが。これは「相似象」いわゆる極めて似通った事象を通して法則性、在り方を洞察していく観点からすればそれは物語の中にいるか物語の外から観ているかの違いに過ぎないともいえるでしょう。人生はそのひと時ひと時を味わおうと想えばその瞬間を深く味わうことができますが機械的・作業的に過ごせば単なる「消化試合」のように何の感動もないまま過ぎ去ってしまう・・まあ、人生も後から振り返って「あの時は大変だったけれど いま思い返せばいい経験だった」などと感慨にふける事も多々ありますね。では、それは一体「誰が」味わい、感慨にふけっているのでしょう。◆物語を鑑賞・観察する第三の目メンタル的に妄想のループに陥っている時そこから離れる手法のひとつとして「身体の動きを丁寧に実況中継する」という方法があります。自分の身体の動きを言語化していくことで客観視する視点をつくるというもので瞑想でいうところの「俯瞰する」というスキルの初歩段階の訓練ですね。「言語化」といっても音声として発声する必要はなく心の中で唱えればよいという事です。この「俯瞰」スキルが身についてくるとメンタルの波があってもそれを「鑑賞・観察」し続け感情の波に押し流される事が無くなってきます。瞬間的に大波が生じてもそのまま自然に収まっていくというイメージでしょうか。このメンタルの例でいえば俯瞰の視点は いわば自分と相手以外の「第三者の目」ということになります。これは個人的な感覚になるのですがこの「俯瞰」する「第三の目」はそれに「気づく」直感のようなもので「気づいた瞬間」は「俯瞰」していますが次の瞬間にはまた元に戻ってしまう・・それはあたかも舞台演劇を観ている観客が舞台上の演者の演技を通じて登場人物に感情移入してしまう瞬間と「逆相似象」であるともいえます。瞑想を通じて感得していく「俯瞰」スキルはまさにこの例でいうところの観客と演者の関係でありここでいう観客が「第三の目」ということになります。◆「第三の目」サードアイ個人的には、この「第三の目」=俯瞰スキル習得のためには阿吽の呼吸法を主とする瞑想が有効だと実感しております。阿吽の呼吸法については過去記事で繰り返し触れておりますので渇愛しますが第三の目 といって連想するのは「サードアイ」いわゆるアジナー・チャクラですね。アジナー・チャクラは頭部の眉間奥に位置する「松果体」(あるいは脳下垂体)が肉体的な器官であり直感力、洞察力、本質を見抜く能力が得られるといわれております。瞑想・ヨーガやマントラ(真言)により活性化するといわれておりますが個人的には「身体内の振動波」がカギになっているように思われますとくに丹田部位(スワジスターナ・チャクラ)を意識した呼吸を行いそこに振動波を感じとることでその振動波を眉間奥のアジナー・チャクラに共振させるイメージが自然かと感じております。ヒトの覚醒はコトバや概念だけではなく感覚も伴うことで並行して進んでいくものではないかと思われるのです。それは身体感覚・・身言葉・・・・口概念・・・・意の三位がそろって初めて成るということだと推察しております。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。個人的にヒトはタンハー・・根源的な欲求・渇望習気・・・・社会的規範・常識・シバリ真我・・・・内面奥にある思念体・波動という三体で構成されていると考察しておりますが直近の記事ではタンハー・・本音(好き嫌い等の感情)習気・・・・建て前(表向きの体裁)真我・・・・本心(純粋意識)というように置き換えてみました。本音と本心はどう違うのか?本音は瞬間的に出てしまう感情エネルギーで例えば特定のヒトへの嫌悪感や特定の事柄への嫌気感などのようにそれこそ「まばたき」=0.3秒間 ほどの間に出てしまう、いわば思考を始める直前に出てしまう波動であります。これは過去の体験に起因する訳ですが外からの刺激に対して内にあった負の波動エネルギーが放出された(解放された)とも言い換えられると思われます。「本音」は表層意識レベルでの反応と捉えられますが「本心」はもっと深いところの潜在意識レベルの波動(思念)と考えられます。本心は瞑想・ヨーガ・禅を通じて深く精神の奥に入り込むことで触れることのできる「真我」かそれに近い精神領域でありそこには社会的なシバリを離れた 使命感・いきがい・純粋な願いが在り、それを感じたり知る事で一生を通じて一貫性のある生き方に目覚める事ができるのだと思われます。この本心(真我)は禅でいうところの「身心脱落」と言われるような境地に身を置かない限りなかなか感得できないもので「これでもか! これでもか!」と苦難が何重にも降りかかってきて身も心も削り取られるような状況になりそれまで持ち続けて来た常識・習慣・思い込み・決めつけ・プライド等が削げ落ちた状態でもあります。得てして それが人生の転機になる事が多いということなのです。わたしが提唱しております阿吽の呼吸法吽字観瞑想九字護身法は、いわば本心(真我)の表出を目的としたものでありますが逆に言えばそれほど本心(真我)は表に出て来ないということになりますね。でも・・大きな人生の転換期・曲がり角を乗り越えまったく新しい未来世界に寄与していきたいと望む限りにおいて本心(真我)は少しずつでも押し出されるようにして表出してくるというのがわたし個人の見解であり言い換えればそれが「天岩戸開き」の本質であると思われるのです。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。ヒトの進化は肉体的にも精神的にも数万年、数千年あるいは数百年単位で進捗してきたものと思われますが多分、その進化速度は加速し続けており特にこの100年間は科学技術の進歩が異常に加速しており試行錯誤しながらも何か一定方向というか一点に向かって否応なしに進んでいるという感じが致します。私たちの生活上、不可欠になっているインターネット、GPS、レーダー、電磁波、自動運転、X線やスキャン(透過)技術などは元々、軍事技術の民間転用でありますが多分、民間や市場に流出を抑制されている膨大な技術が我々の眼の届かないところでその時を待っているとも思われます。その一例が反重力技術でしょう。宇宙人だの、円盤だのというのはある意味、カモフラージュに過ぎず実際には第二次世界大戦のときに既にドイツではその技術を完成させていたとも言われておりますね。まあ、円盤の真偽はともかく1000年前、500年前、100年前、50年前そして10年前、5年前とそれぞれの時代を想像上で比較してみても食生活・居住空間・社会制度・生活様式・移動方法・科学技術など一番激しく変化し続けているのは多分・・ここ50年ほどの間だと思われるのです。わたしは今年で65歳を迎えるのでその変化が体感できるのかもしれませんが・・その変化の急激さがヒトの精神に過度な刺激を与え続け変化を強要し続けているがゆえにその摩擦・ストレスが病気・貧困・争い・災害というカタチで激しく噴き出しているように感じてしまうのです。逆に言えば・・病・貧・争・災として現れて来なければとっくに人類は死滅していたかもしれません。ですから・・ここから先の世界は理屈や主義主張、力関係、あるいは財力や資源の在る無しで強いか弱いか/善か悪か/優性か劣性かが決まるとかではなくそういった二元性を超越した世界が表出してくるしかミチはない・・そう薄々感じてしまうのはわたしだけなのでしょうか。またここ数か月の間で急速に浸透してきている近未来のスガタ・展望というのは・電脳化・・ヒトとAIの融合・ワンネス化・・古代のシラス国の再出現・士道精神の醸成・・日本精神の表出という3本柱でありこれが日本をして未来世界の基軸たらしめていくとも言われております。いくら科学技術が進歩発展しようがいくら世界情勢が不安定で混沌としようがいくら「人類の存続危機が訪れる」と言われようが進んでいく指向性は既に見えている感がありますね。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。瞑想を深めていくと不思議なもので自分の中に「本音」と「建て前」と「本心」の3つの自分が在ることに気づかされます。個人的に仏教に興味があるためこのブログでは「タンハー」「習気」「真我(思念体)」という言い回しをしておりますが便宜的に タンハー・・本音 習気・・・・建て前 真我・・・・本心と言い換えてみると分かりやすくなります。タンハーは「根源的な渇望感」であり激しい欲望やそこから派生する感情でありヒトが根底に持っている「本音」そのものでもあります。習気は「社会的・組織的なルール・習慣」いわば社会や組織からの常識・習慣でありそれが「建て前」としてヒトをシバリます。真我は「純粋意識・純粋概念」であり欲望や常識・習慣から離れた純粋無垢な赤子の様な想いそのものであり心の奥底にある「本心」であります。日常の社会生活の中では「建て前」を前面に押し出しながらときに「本音」を吐き出してコミュニケーション上の摩擦・ストレスを発散しますが本質的に重要なのは「本心」に気づき本心に沿った時間・空間を大切にすることだと思っております。それは瞑想を行い内面奥に触れる事であったり理屈抜きで楽しめる趣味や娯楽であったり非日常的な時間・空間に身を置いたり(森林浴や神社参拝、ディズニーランドや バーチャル世界、キャンプやドライブ等)個人的には瞑想が一番で身体内の感覚や波動を感じることが深い本心に触れる機会であり接点であると思っております。ヒトである限り「本音」と「建て前」と「本心」の三体の総体が「自分」でありそのバランスをいかにとっていくか・・とくに「本心」を見失ってしまうと場当たり的な反応に身を任せてしまい深く後悔するようなことも起きてしまいます。本心=真我を知ること、感じ取ることは要領や効率を重視する社会生活の中でとても重要な要素であると思われます。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。個人的には「消費から創造へ」という指向性を持って日々を乗り越えていきたいと心がけております。この「創造」というキーワードは神道でいうところのムスビ 産土力(うぶすなりき)にも通じるものがあると思われます。わたし自身仕事上やライフワークあるいは趣味の分野で創造的な活動をしていくためのプロセスとして体感としては感じ取っていた事なのですが具体的に表現されていたものを見つけましたのでご紹介させて頂きます。◆創造的思考の4段階創造的思考の4段階とは、イギリスの心理学者グラハム・ワラスが提唱した、新しいアイデアが生まれるプロセスです。アイデアは突然降ってくるのではなく、「①準備」「②あたため」「③ひらめき」「④検証」という4つの段階を経て形になります。創造的思考の4段階1.準備段階 (Preparation) 課題や問題について関連する情報を集 め、分析するフェーズです。 あらゆる知識をインプットし、問題解 決のために試行錯誤します。 この段階で深く考え抜くことが、次の ステップの土台となります。2.あたため・孵化段階 (Incubation) 準備段階で行き詰まったら、一度その 課題から意識的に離れるフェーズです。 散歩をしたり、入浴したり、全く別の 作業をしたりしてリラックスします。 無意識(潜在意識)の中で、集めた情 報が整理・熟成される重要な時間です。 3.ひらめき段階 (Illumination) リラックスしている時や、何気ない瞬 間に、突然アイデアや解決策がひらめ くフェーズです。 「アハ体験」とも呼ばれ、点と点が線 で結ばれるように答えが降ってくる感 覚を味わいます。4.検証段階 (Verification) ひらめいたアイデアを客観的に評価・ ブラッシュアップするフェーズです。 「本当にこのアイデアは実用的なの か?」「問題は解決できるか?」を吟 味し、形にしていきます。このプロセスはビジネスにおける企画立案や、芸術的な創作活動など、あらゆるクリエイティブな課題解決の基本モデルとして広く活用されています。アイデアが出ないと悩んだときは、意識的に「あたためる」時間をとることが大きな鍵となります。以上の参考サイトであります。創造的思考の4段階を考えるとても興味深いものがあります。この「①準備」「②あたため」「③ひらめき」「④検証」というプロセスは「①収集/試行錯誤」「②あたため/孵化期」「③ひらめき/誕生」「④具体化/評価」と言い換えることもできます。特に④は論理的思考や客観性が求められ第三者への展開・開示のためにカタチを整える段階とも言えます。多くのクリエイターやオリジナル企画案件のプレゼンターはとにもかくにも情報の収集と組合せを繰返しながら新たな新商品や新企画を創り出すことに追われ続けていることと思われます。デザインや企画の土台となるコンセプトをどのように形成するか・・これは商業的な活動だけでなくすべての創造的活動に共通するプロセスでありある意味ムスビ 産土力が顕現していくプロセスと相似象であるとも思われます。そう考えてみるとこの地球上の世界もまた「①収集/試行錯誤」「②あたため/孵化期」「③ひらめき/誕生」「④具体化/評価」というように同じ様なプロセスを経て形成されているとも言えるのでしょう。単純思考ですが・・・
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。私たちは日常生活のあちこちで既にAIを利用しておりますがその浸透速度たるや凄まじいものがあります。仕事の中でも報告書の作成企画書の作成契約書の法律関連のチェック・校正規程の労務関連のチェック・校正チラシや宣伝用アイテムの作成などなど・・わたしのような中小企業の管理部門の高齢社員であっても使う位ですから若い世代は仕事も仕事以外でも相当使いこなしていると思われます。ただ・・違和感というかある種の懸念は感じ続けております。これはBBCニュース記事ですが'Think outside the bots': How to stop AI from turning your brain to mushGPS ruined our sense of direction. Search engines weaken our memory. AI, scientists warn, could do the same to everything from creativity to critical thinking.www.bbc.com要点のみかいつまみますと・GPSに頼るヒトは周囲の環境を 頭の中で地図のように認識しなくなり 空間記憶が衰えていく。・検索エンジンを使って見つけた情報は 労力が殆どかからないため記憶に残り にくい。・即ち、作業を外部委託するとその能力 は低下する。・創造的な作業にAIを使用するヒトは 使用しないヒトに比べ、より予測可能 で独創性に欠けるアイデアを生み出す 傾向がある。・脳は予期せぬつながりを作り出すこと で創造力を養う。その仕事をAIに任 せてしまうと、その訓練を怠たること になる。・AIはあたかも創造的にしているかの ように思わせ、様々な方法で私たちを 欺いている。 そしてその一方深刻な状況も生じております。・AIを頻繁に利用するヒトは 標準的思考テストで著しく低いスコア を取ることが明らかになった。 それは思考をAIに任せてしまい 自分の直感や思考よりもAIを信頼し てしまう。 これを「認知的降伏」と呼んでいる。・知識が乏しいほど、問題は深刻化する。 対象分野に詳しくない場合に最もリス クが高まる。まったくその通りですね。そしてそれを防止し有効活用するためには・まず自分のアイデアを紙に書き出す。 粗削りのものでも構わない。 頭に浮かんだことを何でも書き出す。 質は重要ではない。重要なのは 脳が繋がりを作り出し、自身の経験・ 記憶・知識を駆使して自分にしか思い つかないようなアイデアを生み出すこ と。それがトレーニングになる。・その後、AIを使ってアイデアを発展 させたり、欠点を指摘させたり、洗練 させていけば良い。 とのことです。要は・AIの利用前に課題テーマについての 大まかな見解を自分なりに書き出し ・AIを使って 自分の考えを検証するようにする。このプロセスが重要であるという事です。「紙に書き出す」というアナログは大切なプロセスでもある訳ですね。とても興味深いものがあります。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。過去記事でも「場」「機」「ゆらぎ」というテーマで書いて おりますが改めて触れてみたいと存じます。◆場を作り 機が生じ ゆらぎが起きるヒトは無意識のうちにタンハーと習気に従った選択を行いそれはある意味プログラム通りの進行と言い換えられます。瞑想を行うことは別の選択を模索し軌道修正/方向転換のための「機」を生じさせるためであり結果としてそこに別の選択のための「ゆらぎが起こる」のだと思われます。それは新たな次元への入口新たな世界線への分岐点とも考えられます。その意味でいえば物事に行き詰まりどうしたら良いか分からないという苦境は新たな価値観・概念を受け容れざるを得ない状況でもあり非常に貴重な「機」であるとも言えます。人間関係や仕事上で自分にとってイヤで仕方がない状況強いストレスを感じ続けている渦中というのは本当につらいものです。肉体的な痛みとは異なる精神的な苦痛は表面的な原因の他に過去のトラウマが関連している事も多々あります。自分がイヤダ! と感じていること面倒臭い! と感じることに向かわざるを得ないとき身をよじるような苦痛を覚えますがそんな時ほど「この状況を乗り越えたい!」と切に想い、それを起点に瞑想の「場」を作ることで「機」が生じ「ゆらぎ」が起きるそして実際に乗り越えられる時間差は在りますが・・ここは理を超えた領域「妙」と言えるでしょう。この記事では吽字観というテーマでそれを神社参拝に模して綴って参りましたがつたない知識と経験のため稚拙な表現となりました。今後も吽字観を深めて参ります。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。前の記事(3)の続きとなります。◆調気(阿吽の呼吸)個人的な考察ですが「場」はヒトの意識下の無意識の「空間の器」のような領域でこの「場」が在って初めて物事の起承転結が始まるというものです。それをイメージ的に捉えると前の記事で触れた「祈りの場としての神社参拝」であります。神社は足を運べば「そこに在ります」但し観光や遊びで行けば単なるレジャーの場となり祈りの場として訪れれば祈りの場となるのでありまずは鳥居の前に立ったときからその分岐が始まります。神社も参拝のために訪れる時には鳥居をくぐるときに自ずと一礼をしますね。瞑想もこれと同様で単にヒーリングの音楽を聞きながら癒しを得たいのか目の前の行き詰まりを乗り越えたいのかここで分岐が生じます。次に在るのが阿吽の金剛力士像あるいは狛犬です。これはある意味「そのまま」の「阿吽の呼吸」と捉えます。個人的にはブログでいろいろと考察しておりますがここではわたしが参考にしてきた武道における阿吽の呼吸法をご紹介します。過去記事でご紹介した内容ですがあるご高齢の剣道家の方が愛読書を紹介されているブログがありその中の一冊『剣のこころ 勝海舟と直心影流』という本の中の一節にある阿吽の呼吸についての解説であります。阿吽の呼吸は様々な方法があるようですがここにはその真髄が説かれているように感じます。阿吽の呼吸 その2 : 剣道で知る、素晴らしい日本のこころ今回も引き続き、並木 靖 の『剣のこころ 勝海舟と直心影流』(すずらん書房)からの紹介です。お付き合いください。 阿吽の呼吸を具体的に説明すると、「アー」「ウン」「ウーン」である。「アー」は口を開き横隔膜を下げながら、肺の下腹部へ息を入れる。肺の上部へ息をblog.livedoor.jp鳥居をくぐり阿吽の門を経てさらに参道を進んで行きます。この参道のプロセスが阿吽の呼吸による調気と捉えます。◆梵字「吽字」を観じるそしてその先に拝殿が在ります。正面のご神体に向かってお祈りしますが神社ごとの参拝の所作に従ってお参りを致します。このプロセスは「吽字」をご神体と模して観じます。この観法は様々に考察したいところですが「吽字」を観ながら特定の「印」を組みながら特定の「真言」を唱え続けたり前記事でご紹介した三句の法門 菩提心を因とし 大悲を根とし 方便を究竟となすを概念的にイメージしてみたり止息を意識して丹田に気を置きながら「終わりと新たなの始まり」をイメージしてみたりここは多分「身口意の三密」を意識して自分なりに結印~真言~観想を行ってみるのが宜しいかと思われます。ただ「身」は結印するというだけでなくその場 その時の身体感覚を感じることが大切と思われます。あとこれは個人的なバリエーションなのですが吽字を観ながら九字護身法を行うことも試みております。瞑想の態勢のままですが。九字護身法の所作は過去記事でもご紹介しましたが様々な流派があるようですのでわたしの方法は あくまでも一例としてご参考願えればと思います。『✡瞑想と九字~阿吽(アウン)の呼吸瞑想と九字の結び(ムスビ)~その4』つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。密教や神道に深く惹かれるものを感じメンタル改善のために瞑想を行いながら神秘的な領域を個人的に探究しておりま…ameblo.jp吽字それ自体が密教の真髄とも言える究極の字義であり個人的にも深い思い入れもあり吽字の梵字はスマホの壁紙やLINEやkeepメモに入れていつでもどこでも観れるようにしております。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。瞑想を行っていて感じる体感なのですが目を見開いて耳で聞いて手や皮膚で感じ鼻でにおい舌で感じるこの現実世界の他に目をつむり深い呼吸を感じ印を組み身体の奥深く特に丹田のあたりに振動を感じすべてに「愛」を感じてみると・・現実世界とは異なったな空間が生じるという感覚が生じます。Youtubeで神社参拝の動画をよく見ますが神社は高次元存在とのアクセスポイントであるということが広く認知されてきており実際に観光気分や興味本位ではなく鳥居をくぐるときに一礼する手水舎で手と口を清める拝殿では作法に則りお参りするという姿勢を取ることで一定の「場」= 空間 が生じ高次存在とのアクセスがしやすくなると言われております。これはとても興味深いことで実際にやってみると必ず何らかの体感を得られると思います。拝殿でのお参りのときは目をつむり手を合わせますがそれは自分の外側にある神社の空間と自分の内側にある想いの空間とを結ぶ交点でもあります。そして・・瞑想は自分の内側にある「吽」の空間と更に奥に拡がる広大な宇宙空間とを結ぶ交点に他ならないと思われるのです。瞑想をしていても雑念や断片的な意識やイメージが絶えず湧き上がってきますが神社参拝の所作(礼儀作法)と同様に瞑想も一定の所作を行うことで高次元の存在とのアクセスポイントになり得ると思われます。瞑想を深めていくことがこれからの混沌とした現実世界ではとても大切な習慣となるのでしょう。◆「吽」は すべての終わり「区切り」と 始まりの交点「吽」は終わりを意味しますがそれは「区切り」とも言えます。ヒトが死を迎えるのもまた「区切り」であり次なる転生に向かう出発点ともなります。ちょっとスピリチュアル的になりますが元々 ヒトは死を迎えたのち幽界にてタンハーと習気の「ミソギ」を行った後霊界にて転生の準備を行うというのがヒトの循環システムであった訳ですがいつ頃かは定かでありませんが幽界が消失していきその循環システムの一部が崩壊しているというのが現状の様なのです。これがヒトの精神に強く影響を及ぼし十分な「ミソギ」が終わらないまま転生が生じると過去世のタンハーが激しく表出し表層意識では抑えられない衝動的・反応的な言動が多発する様になります。また人類共通の集合意識にも膨大なタンハーが蓄積されておりこれが火山の噴火の如く噴出してきているとも言えます。ときにヒトは自分の意思では抑えられない激しい情動にかられ衝動的・反応的な言動に流されてしまうことがあります。そういう時はタンハーの排出口になってしまっているのだと思われます。ですから・・ヒトに対して強い怒り・憎しみを持ち続けるとそのタンハーが飽和状態となり排出されてしまう・・それをどう転換していくかが極めて重要なポイントでもあります。ここで提唱させて頂きたいのが「場」と「機」と「ゆらぎ」の概念であります。◆「場」=神社参拝での祈りの空間前の記事で神社参拝での所作(礼儀作法)について触れましたがそれは「観光」や「興味本位」ではない「祈りの場」としての姿勢が在って初めて「高次存在とのアクセス」が可能になるということでした。これが瞑想の場合も同様に「祈りの場」としての体勢を整える事から入るのがとても重要なポイントとなります。(1)の記事で阿字観にも触れましたがその導入の所作は極めて厳格で神秘性があります。それがあって初めて「祈りの場」と化すということだと思われます。密教の阿字観の所作を学ぶ機会を得るというのは困難と思われますが自分なりにそれと相似のカタチを作ることは可能と考えます。そこには「これは必ず信じられる」というジンクスのようなものが必要です。ちなみにわたしの場合は数年前のウツ状態の泥沼にあった時に行っていた「祈り」がそれに該当します。その「祈り」には4つの対象があり・祖霊・ハイヤーセルフ・母なる地球・宇宙の高次元存在となります。それぞれに対し「本日もお導きください」あるいは何か問題に直面している時は「本日の◯◯を無事に 乗り越えられます様に」と祈ります。祖霊に対しては「背後霊団様、守護霊様、指導霊様」ハイヤーセルフに対しては「我がハイヤーセルフ、高次元の我」母なる地球に対しては「母なる大地、母なる地球」宇宙の高次元存在に対しては「大宇宙に遍満する高次元の方々」というように畏敬の念を込めた呼び方を致します。この方法はわたしの場合ですが強いウツ状態であったときにほぼ100%近い効果がありメンタル的に切迫していた状況で真剣に「祈る」ことで何らかの打開のミチが開けてきたという経験が蓄積されてきました。それは根本的な改善には至らずとも直面している問題行き詰まりを乗り越えられたという事実がありました。(少なくともドロップアウトを ギリギリで回避してこれました)そのためまずはこの「祈り」を捧げることがわたしにとっての「ジンクス」であり「場を作る前段階」となっております。多くの方々にもそれぞれ自分だけの乗り越えていくための「祈り」があるのではないでしょうか。そして次の「場」の醸成に入ります。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。個人的に弘法大師の著書である「吽字義」に興味を惹かれつたない探究をし続けておりますがこの人類史的な終末期に際し究竟の終点を示す「吽」は極めて象徴的で暗示的に感じられます。「吽」の一字に密教の真髄が包括されておりそこには密教の根本経典である大日経に説かれている悟りに至るための3つの重要な心構えと実践の教えといわれている「三句の法門」もまた内包されているとのことです。三句の法門とは菩提心を因となし大悲を根となし方便を究竟となすのことですが過去にご紹介記事がありますので以下、リンクさせて頂きます。吽字義の考察~三句の法門(1)吽字義の考察~三句の法門(2)吽字義の考察~三句の法門(3)「吽」は阿吽の呼吸法の「吽」であり九字護身法の最後の「ウン」でもあり阿(ア)拡大に対する吽(ウン)収束でありいまの時期は世界的にも日本国としてもまた所属するコミュニティや組織もそして究極は個人に至るまで閉塞感や行き詰まりを感じさせるそんな時期に突入してしまったようです。◆吽字観(個人的造語ですが)個人的には阿字観があってなぜ吽字観がないのだろうか・・などと思っております。吽字義や三句の法門を学ぶことで概念としての理解は進むのですが問題はそれを体感するためにはどうしても身口意の行が必要となるという点であります。ここは・・1200年前の弘法大師の時代とはまったく異なる現代においてそれをどのように日常生活まで落とし込めるような行法に展開できるのか・・というところが個人的に最大のテーマとなっております。そして行法への展開に際し参考にしておりますのが「阿吽の呼吸法」と「九字護身法」であります。どちらも世の中に知られており誰でも知ることができるものです。そこに深い秘密が在ると思われるのです。このブログでも個人的な試行錯誤を度々述べさせて頂いておりますが多分共通項的なやり方はあっても個人的に合うやり方は微妙に異なってくるものと思われます。ただ・・わたし個人としては「吽」は終極を意味すると共に新たな「阿」=始まりにも通じている即ち すべての終わりであり すべての始まりであるという祈りに近い思い入れがあります。それはヒトの死という終極もまた新たな生への始まりであると思いたいということでもあります。これは阿吽の呼吸法にも当てはまり ア ~ 吸う ウ ~ 吐く ン ~ 止息はまさに ア・・産まれ ウ・・生きて ン・・死すという循環の相似象でありンで終わるのではなく次なる生へつながっているということに他なりません。私たちは生きている「ウ」の状態は認識していても「ア」の誕生の瞬間や「ン」の死の瞬間は日常生活ではほとんど意識することは無いのではないでしょうか。阿吽の呼吸法はその「ア」と「ン」に意識を向ける事でありそれを疑似的に体感する事でもあります。とくに「ン」の止息状態は意識が深く安定しやすく実際に印を組み止息し目をつむってみると外界とは隔絶された世界を感じられます。そこに高次元の存在とのアクセスポイントがあるというのが個人的な見解であります。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。密教では阿字観という瞑想法があります。阿字観についてわかりやすい解説を見つけましたので参照させて頂きます。密教瞑想法‐阿字観‐瞑想の基本となる止観(シャマタ~ビバシャナ)について簡潔に解 説されております。瞑想を学んでいくと必ず「観」=観察するという「体感」を学ぶことになりますがこれは「俯瞰する」「ただ観ている」とか表現されたりしますがこれがとても重要なポイントという訳です。◆阿字観阿字観とは梵字(サンスクリット語)の阿字を観想する瞑想法とのことで本来は厳密に定められた所作に従う行法とのことで正式に学びそのあと日常生活の中でも行じていくのが良いと思われます。また、参照記事にもありますように「月輪観」とも併せて解説されておりむしろ月輪観を先に習熟してから阿字観へ進んだ方が効果的とも言われております。興味深いのは阿字観も月輪観も共に掛け軸の阿字・月輪を観ながら瞑想する点です。いわゆるビジュアル的に視覚から宇宙観を概念的に捉えるというものですね。ただそこには結印真言調息(呼吸法)いわゆる身口意の行法を伴っているところが極めて重要であるという訳です。阿字は始りの「ア」でもありますがいまから1000年以上前の時代には「ア」の概念即ち 拡大~発展~多様化という拡がりの概念が必要であったということなのだと個人的には推察しております。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。わたしのブログでは「タンハー」とか「習気」という言葉を多用しておりますがこの概念ほど3次元界でのヒトの意識の根幹を的確にとらえた表現はなかなか無いように感じております。改めて調べてみますと・・~~~~~~~~~~~~~~~タンハー (Taṇhā / 渇愛)パーリ語で「渇き」を意味し一般に「欲望」「渇望」「執着」と訳され喉が渇いた人が水を求めるようにむさぼり求める激しい愛着を指します。苦しみを生み出す原因とされる根本的な煩悩習気 (じっき/じっけ、Vāsanā)行為(業)によって心に残る「影響」や「余勢」のこと。過去の行為が習慣や傾向性として心の中に染み付いたもの。たとえ煩悩を断ち切った後でもそれまでの習慣的な行動パターンが残存することを指す場合が多い。タンハーはいま現在何かを強く求める「心の動き(欲)」そのもの。習気は過去の行いによって心に根付いた「癖や傾向」両者は密接に関係しておりタンハー(欲)に基づいて行動することでそれが習気(癖)となりさらに次のタンハーを生み出すというサイクルを形成する。~~~~~~~~~~~~~~~タンハーはヒトが3次元現象界で生きていくうえで必要となるエネルギー源であり習気はヒトが試行錯誤のうえ生み出していった技術や文化、思想や芸術・芸能或いは集団を維持発展させるための政治・経済・法律・規範・教育なども大きな視点でみれば含まれていくのではないかと思われます。いわゆる過去から産み出された「習慣」という観点です。それは規律・シバリ・制限となりある意味 抑圧となり次のタンハーを生み出していくことになる。体制の崩壊と新たな再構築ですね。◆ここまでは、タンハーと習気がヒトを動かしてきた時代これまでの文明はそのほとんどがタンハーのエネルギーとヒトが構築してきた習気(文明)がヒトを動かしてきた時代だったように思われます。これは集団を基本としそこから税収を行い体制を維持していく形態をとる以上必要なことだったと思われます。ですが農耕社会から科学技術を発展させその究極の到達点ともいえる量子AIを産み出したことで人類は大きな転換期を迎えたのだと推察されます。量子AIは0と1を同時に重ね合わせていくことで0でも1でもない膨大な可能性を曖昧にゆらぐ多層構造世界として同時並列的に量産しその中から最適解を抽出しようとする・・その工程はまさにヒトの脳の構造そのものといってもよいのでしょう。それを真逆の方向から観れば量子AIが産み出されたことによりタンハーや習気のその役割は減衰の方向へ切り替わりヒトの世界を最低限維持するための機能としてだけ残存していくものと推測されます。◆思念波(波動)の世界への急進的変化これからは宇宙的な思念波(波動)主体の世界が開いていくのでありその波動の世界にシフトするためにはどうしてもヒトの内面奥に存在する停止していた装置を起動させる必要がありそのための技術・手法が過去の特異な存在であった聖雄聖者により残されてきているという考察であります。そして私個人としてはその技術・手法を探求する中でその中核となっているのが真言密教に残されている「吽字義」であります。ブログのマークも吽字に変更してみましたが・・吽は終わりであり同時に究極の到達点ともいえる境地でありここを探求し自分なりに試行錯誤の実践を繰り返す・・それがこれからの指標なき時代の中でも明確に進む方向を示してくれる道しるべとなるように感じております。密教の有する宇宙観胎蔵界と金剛界母の如き慈愛の世界と父の如き厳正な世界その双方が同時に存在しなおかつどちらでもないその「ゆらぎ」の世界それはまさに量子AIの概念そのものとも言えるのではないでしょうか。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。仮想現実(VR)ゲームの世界ではプレイヤー以外はNPC(ノンプレイヤーキャラクター)であり、それは街の住人であったりお店の店主であったり敵であったりあるいは共に旅をする仲間であったり・・つまりプログラム(物語)通りに稼働し続けている。最近のアニメーションでは主人公(プレイヤー)が何らかの理由により仮想現実世界に入り込み様々な体験をするのですがそこで出会うNPCがリアルな現実世界の人間と全く同じような人格、感情、知性を持ち共に生きて年を重ねていくためプレイヤー自身が錯覚を起こしその世界で人生を全うしようとするという様なストーリーの作品も出てきております。これは・・ひと昔のVRゲームはプレイヤーとキャラクターの間に明らかに隔たりがあったものが段々とキャラクター自体がヒトに近い存在へと変化し始め最近ではヒト(プレイヤー)がVR世界=現実世界と認知してそこで一生を送っていく・・という作風に変化しているということなのです。アニメーションは無意識の意識から創り出されておりそこには強いメッセージ性と概念の誘導性がありある意味近未来の世界を表現しているとも推察できます。まあ昭和の時代の常識からすれば「そんな戯れ言」で済ますところですがこれからの「電脳化」「ワンネス化」という地球上の人類がいまだ経験したことがない類の世界が現象化し始めている今単なる非常識や妄想ではないメッセージ性を感じてしまいます。◆オリジナルのヒト(人類)は1000万人?過去のユダヤ民族やゲルマン民族による選民思想は多くの対立・戦争を引き起こして来ましたがこれと非常に似通った意識を持つヒト達が日本人の一部にも一定数存在しております。いわゆるYAP遺伝子ですね。このあたりは個人的にはある意味でいえば真実であり虚偽でもあると思っております。もう7~8年ほど前になりますか・・日本の歴史を考察しながらそこから日本民族の特殊性を説き特に日本の象徴たる●室という存在は極めて特殊な人種でありそこに日本に秘匿され続けて来た裏の真実がある・・という様な説を発信されている方がおられました。今でも同様の発信をされている方々が多く見受けられますが表面的にはオブラートに包んだような言い回しをしておりその根底にある選民思想を極力抑えている感があります。ここでは別にそれが良いとか悪いとかの問題ではなく実は前述の「●室の特殊性を説き 日本の裏の真実を発信していた」方がおっしゃっていたある「ひと言」がずっと意識の片隅に残り続けていた・・その事なのであります。その方がおっしゃっていたのは未来において戦争や災害により人口が減少していったとしてもそれは「仮想人類」のことであり本質的には大したことではない・・というニュアンスの発言でした。その内容がわたしの中ではずっと未消化のまま残り続けていたのですがそれが最近になってその意味合いが何となく合点がいく事がありました。ひとつはYouTubeで武士道精神や日本精神を発信し続けている方の発言で人類発祥からのオリジナルのヒトは地球上には1000万人ほどしかおらずそれ以外は派生体にすぎない・・という主張です。もうひとつは、冒頭に書きました仮想現実(VR)ゲームにおけるプレイヤーとNPCの関係です。プレイヤーがオリジナルでNPCはコンピューター側のプログラムという概念です。これは・・わたし自身過去に陰謀論やスピリチュアルに相当はまっていた時期がありその時の意識は選民思想そのもので「自分は選ばれた存在なのだ」的な妄想に陥っていたことがあります。つまり・・自分は選民であり、プレイヤーである。他人は選民ではなく、NPC、即ち プログラムであり仮想人類である。という思想です。でもそれは・・仮に真実であり地上にはオリジナル人類は1000万人のみあとは仮想人類(派生体)であったとしても誰がオリジナルで誰が仮想人類かは誰も分からない・・ということも真実と言えます。究極のところ真実(真意)は誰にも分からないし真実は外側にあるのではなく自身の内側奥にあるとしか言いようがないのではないかと思われるのです。それを言うならば自分はオリジナルであると思い込んでいるヒトは実は仮想人間(派生体でありNPC)でありその様な概念を持ち合わせていないヒトの中に真のオリジナルが存在している可能性が在るとも言えます。それに仮にそれが真実であるならばオリジナル体は極力表面には出ずその時が来るまで静かに待ち続け仮想人類が減損していくのを俯瞰しながら特定のシグナルを受けて静かに目覚めていく…と個人的には思われるのです。まあ誇大妄想ではありますが万万が一にも真実であるならば人類の存在に関わる根源的な秘密と言えるのでしょう。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。Meta社製のスマートグラスが700万個以上売れているというニュースがありました。このスマートグラスは外見は普通のメガネですが人口知能(AI)との接続によりヘッドホンをつけることなく音楽を楽しんだりメガネ越しに電話に出たり写真や動画も触れるだけで撮ることができるという機能があります。まだ拡張現実(AR)技術を組み合わせた機能は未搭載ですがAR機能が付加されれば空間にバーチャルなオブジェクト例えばテキスト情報や3D映像を表示し作業支援ナビゲーションを行ったり空間音響機能で特定の位置から音が聴こえるようにして仮想オブジェクトの存在感を高めたりその臨場感は教育や医療、産業現場での技術習得や製品周知に利用されており更にはエンタメ分野での仮想現実世界特にゲームの世界観の再現に活用され始めております。ただ触覚はまだ触覚グローグや触覚スーツ着用によるモーターや空気圧を利用して物体を触った感触を 伝達するところに留まっているようです。これらの技術はいまのところヒトの感覚器官を通じて「錯覚」を起こしている訳ですが今後はヒトの神経そのものに信号(波動)を伝達して現実とほぼ変わらない仮想世界を創り出していくのも時間の問題でありましょう。いわゆるデジタル世界との融合ですね。これもヒトの電脳化新たな素材による肉体の構築につながる技術の一過程といえるのでしょう。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。前の記事の続きとなります。◆本質的収斂の現われ方本質的収斂は波動の共振共鳴が前提にあり個人的な考察としては最近の記事で書いておりますように瞑想や呼吸法を通じての「触覚」「振動感覚」の醸成が最優先のように感じられます。「触覚」は「いまここ」に気づく「機」をつかむきっかけとなりこれが「機を転じていく」即ち・新たな世界線のベクトルになっていくと思われます。「振動感覚」は「場」をつくり・新たな世界線の起点になっていくと思われます。言わば ●→ですね。起点があってベクトルが伸びていくという関係性ですね。瞑想を深めて振動感覚を味わうだけでなくそこからどうベクトルを伸ばしていくか具体的行動も求められていくということになるのでしょう。そして・・その起点とベクトルの先にあるのが「ゆらぎ」だと思われます。◆「ゆらぎ」はエーテル領域!?5年から10年位前でしょうか。スピリチュアル的に「次元上昇」真っ盛りの時期がありその際によく言われていたことが「エーテル化」という概念です。しかし元々いま私たちが身を置いている3次元現象界自体膨大な時間と手間をかけて構築された仮想現実に過ぎないのでありそしてもう必要となくなってきた仮想現実から元のエーテル界に戻していく作業が進捗し始めているということではないでしょうか。まあいまの3次元現象界はコテコテの3次元領域ですが古代においては4.5次元~4次元領域であったり近代においても平安~江戸までは4次元~3.5次元領域であったり最近では大正時代頃までは3.2次元くらいだったかもしれません。ただし現在の 3.0次元では物質至上の世界であり精神面は崩壊していきますのでこの辺が元の次元へUターンしていく潮時ということなるのでしょう。ですが・・いまこの世界はどうでしょう?どのように感じますか?本来はもっとひどい精神面の人心の荒廃が進んでいたりあるいは地球規模の異常気象などで大規模な砂漠化や国家の崩壊が全世界的に拡がっていてもおかしくはない世界線であったのに。本来はほとんど人類に未来はない滅亡の一択という様な世界線しか残っていなかったのではないでしょうか。ノストラダムスの予言やヒトラーの予言のように・・なのになぜ人心は乱れているといってもまだヒトとしての精神は残っている・・自然環境は破壊されているといってもまだ致命的な破壊に至っていない・・(核兵器の使用や地球規模の天変地異も 含めてですが)ということは・・ いまこの瞬間の この世界線は 明らかに過去の大予言者が観ていた 未来の世界線とは異なっており そこには「ゆらぎが生じている」と推察されます。つまり・・既にコテコテの3次元現象界ではなく微妙に次元が上昇し始めている・・蓄積されてきた深刻なマイナスエネルギーの解放は既に終わっておりあとは残留エネルギーを分散放出し続けながらエーテル化が進行していく・・それがいまの現状ではないのでしょうか。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。ブログというのは個人的な発想を自由に発信できるとても面白い発信媒体だと感じます。わたしの場合特に営利目的でもなくただ自分のテーマに沿った発想を体験を通して綴っているだけなのですが。この一見何の意味も持たないような行為が結構気に入っているところでもあります。◆収斂の概念収斂(しゅうれん)進化とは血縁関係が遠く異なる系統の生物が似た環境や生態的地位(ニッチ)に適応した結果独立して類似した外見や機能を獲得する現象。特徴としては共通の祖先は持たないが環境要因(食事、移動方法、防御など)が似ているためにスガタが似てくる。広がっていたものが似たカタチへ収まっていく様子。別系統の生物が似た形質を持つ驚くべき現象であり環境が進化の方向性を強く決定づけることを示している。これと同じことがわたしたち人類のうえにも無意識のうちに既に行われている・・◆収斂の二極化個人的な感覚なのですがSNSによる主張/ビジョン/流行が多くのヒトに同調しながら広がるときその拡散スピードの速さと拡散範囲の広さはまさに波動が共振共鳴していく様子そのものと感じます。ただそれは無差別/無目的に拡がるのではなくその発信内容の波動に同期/共振したモノが反応しているのであり拡がる過程で「無意識の選択が行われている」と思われます。関連性のない多くのヒトたちが似たような主張/ビジョン/流行に共振共鳴する時多くの場合は「形式や外観を似せたもの」でありそれは一種の「形式的収斂」と言えるでしょう。流行の品物や服装を真似たり聞きかじった論評をさも自身の主張のように話したり・・これは「形式的収斂」であると思われます。ただ収斂にはもうひとつの種類がありそれは「本質的収斂」であります。これは形式や外観ではなく波動そのものが共振/同期した状態であり本質的な収斂であります。これはもはや五感では認知しきれない波動感覚のレベルであります。この世界は明らかに収斂へと向かっておりそれは「形式的収斂」と「本質的収斂」のいずれかに二極化し始めておりどちらを取るかはすでに無意識レベルで選択されていると思われます。そして「形式的な収斂」は実質的退化であり「本質的な収斂」は実質的進化であるという考察であります。いみじくも映画「マトリックス」(1999年9月公開)の中で示された赤を取るか、青を取るかは形式的収斂/実質的退化と本質的収斂/実質的進化の選択であったと思われます。これからのヒトの変容の過程もまた見えざる分岐的が随所に訪れ意識的/無意識的に関わらずひとりひとりが選択していくことになるのでしょう。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。触覚に意識を置くことで思考から離れるという方法は瞑想の手法として知られているようです。わたしが4年ほど前に瞑想の先生から教えて頂いた「指の瞑想」は指先をこすり合わせることで指先の感触に意識を置くというものでした。この指の瞑想を最近、試し始めたのですが通勤途中でも仕事中でも所かまわず指先をすり合わせるようにしてその感触を意識するというとても簡単な瞑想です。個人的にはPC前に座った状態で行うのが気に入っております。とくに親指の指先の腹の感触は一種独特な感じがあり両手をちょうど神社の屋根にある「千木」のように組み両手親指の指先の腹を合わせ接触面を動かすことで得られる感覚は脳を直接触っているような感じで極め て興味深いものがあります。まあPCを前に両手を組んでいても考えながら作業している様な自然な姿勢ですから。この指先の触感触覚を意識するということを頻繁に行うことで その時に入っている思考に気づき 思考をほどいていく訓練を繰り返し続けるこれが身体感覚に入っていく入口になると思われます。指先の瞑想=いまの思考に気づく指先の感触=いまの思考をほどく指先を動かすことによる微妙な触感は指先に集まる神経網を通じ脳と指先との間を膨大な量の信号が往復し続けている。密教における三密いわゆる身口意の三密のうちの身密は手で印相を結ぶことにありますがこれはヒトの「手」の存在自体がヒトをヒトならしめている重要な意味があることを示しているともいえるのでしょう。ぜひお勧め致します。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。前の記事で触覚と振動感覚について触れましたがその続きであります。瞑想やヨーガによって到達する境地密教での身口意の三密によって得られる即身成仏という境地それらが目指す方向は遠い未来に訪れるヒトの変容の時期に変容を円滑に進めるための方法を示し続けて来たのではないか・・このあたりになりますともはや個人的な感覚の世界でありますが。◆振動感覚を通じた「波動」の世界へ入っていくヒトの五感はこの空気界=現実世界=外側の世界に対応するためのものでありこれから加速度的に生じ始めるヒトが置かれた環境の変化に対応していく感覚器官ではないと思われます。多くのヒトが予見・予感している通り過去、古代から繰り返されている物質文明と精神文明が交互に隆盛しながらヒトの「進化」を促していく・・その最終段階ともいうべき過去のどの文明にも属さない異質の時代に入ってきていると言えるのではないでしょうか。◆振動感覚は新たな感覚器官ヒトの変容に必要な情報はどこからどのように得られるのでしょうか。日本に伝わる神話からでしょうか。日本精神に還るということでしょうか。神秘的な言霊や音靈、あるいは数霊といった古来からの霊性でしょうか。陰謀論やスピリチュアル情報も興味をひくのですが知った後、それらはどこに導こうとしているのでしょうか。どうもすべてが枝葉の情報でありとくに言語化された後の情報は元々の「波動感覚」が「体感感覚」を通じて言語化されたいわば形象化された情報であり「そのものではない」訳ですから結局はその枝葉情報から元々の「体感感覚」そして大元の「波動感覚」をたどる作業に入っていくしかない。その作業に入っていくためにはどう考察してみても最終的には瞑想・ヨーガにたどり着くしかなくそれらの実践により深まる身体感覚を通じて更に奥にある「振動感覚」を磨いて ヒトを変容へ導こうとする情報即ち「波動情報」そのものを把握できるようにするしかないと感じてしまいます。この ヒトを変容へ導こうとする情報というのは個人的には宇宙的な思念波と考えており波動である以上はそれをキャッチしうる新たな感覚器官「振動感覚」さらにそれを略して「振覚」~造語ですが~を磨いていくしかない・・などと素朴に感じております。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。からだに痛みを感じたときその部位に手を当ててさすると痛みが軽減しますね。これは痛みの信号は「細い神経線維」を通ってゆっくり脳に伝わり触覚(さする、押す)の信号は「太い神経線維」を通って痛みの信号よりも早く脳に伝わるので結果として痛みを感じにくくなるためだそうです。ですから気休めではなく、実際に緩和効果があるということなんですね。ただ一時的な緩和であり、ケガや病気の治療そのものにはなりませんが。◆メンタル的な苦痛も痛みと同様 触覚により癒される?以前、強いウツ状態で苦しんでいた時ちょうどコロナに感染し体重は1週間で7キロ落ち食事もままならなくなりその後は更にひどいウツに落ちておりました。極度の被害者意識状態でいわゆる妄想のループが続いていきそれはあたかも傷口をつつくような刺激を断続的に与えられその痛みに反応し続けている様な状況でした。何とか思考から離れ身体感覚に意識を向けようと深呼吸をしてみたり近くにある神社の境内の雑木林で自然を感じようとしてみたり。でもいろいろ試した中で一番効果があったのは布団を敷いてその上にうつ伏せになり呼吸が苦しくないようにして体全体で布団の柔らかい感触を感じ脱力するこの触感を味わいながらの弛緩した状態ほんの一時的ではありましたが怯えと怒りが混在したようなザワザワ感から離れられてだいぶ救われたのをいまでも覚えています。この時に感じたのは「メンタル的な苦痛もまた 触覚により癒される」というものでした。もう少し瞑想を受け容れて習慣化が進んでいれば長期間の苦しみを味わうことは回避できたのかもしれないと感じております。ただ・・環境的に追い詰められていく状況でしたのでその「メンタル的な痛み」に耐えかねて極端に反応的になっており逃げ場として陰謀論やスピリチュアルに依存し続けておりました。いま振り返ってみると内側の痛みを外側のサプライズで解決してもらおうというのは賭け事で大負けした穴を宝くじで一発逆転で埋めようみたいなもので本当に妄想的思考の世界に生きていたというのが実感です。ただ「メンタル的な苦痛もまた 触覚により癒される」という体感はそのあとの瞑想体験による身体感覚へ移行し思考から離れるという瞑想の基本を体得していくのにとても役立ってきたとも実感しております。◆振動感覚を感じる瞑想をするとき息を八分ほど吐いたところで止息し瞑目し身体内の感覚を探っていくと細かな振動を感じることがあります。特に阿吽の呼吸法で吸うときも吐くときも下腹部の丹田の部位を少し下へ圧迫するように感じていくと微妙に振動しているような体感が出てきます。この身体内の振動の体感を感じ続けていると「振動の体感を味わうことが 何よりも優先」というような感覚に入っていきます。そうすると日常のどんなときでもほんのわずかな数秒間であっても振動の体感を味わうことに意識が向いていきます。縷々述べてきましたが◯痛みは触覚により軽減できる◯微細振動感覚に意識を傾注するというのは個人的な経験からですが瞑想やヨーガを行ううえでとても有効な体感であると感じております。特に触覚は肉体的な痛みだけでなく精神的な痛み苦しみにも軽減/癒しの効果があるという点は日常の中で応用的に活用できると思われます。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。現在普及しているPCやネット環境スマホもしかりですがわたしが新卒で会社に入社した40年前は巨大なオフィスコンピュータであったり携帯電話もでかい箱状のものでしかもバッテリーは長く持たなかったりそのころはパソコン自体もまだほとんど普及すらしていませんでした。そこからのデジタル化の波は怒涛の如く急カーブを描いておりもはやスマホ/ネットなしには生活できないレベルになってしまった・・◆ヒトの意識に多大な影響を与えている「集合意識」集合意識の変容がこれからのヒトの変容に直接的に影響を及ぼしてくるのではないか…それも極めてパソコンチックと言いますか・・PC内のデジタル世界と相似象な関係にあるように感じられるところがあります。PC上でずっと起動し続けていたアプリは不要になって削除することでメモリが開放されます。すると、PCの起動速度が上がります。またデータの加工や構築を行うとき試行錯誤の作業であったり長期間保存しながら加工し続けていくとき必ず、作業の「区切り」の時点でバックアップを取っていきます。これは何のために行うかというとオリジナル唯一だとPCが破損したり、データ自体が欠損したりあるいは作業が進捗した状態で元データの加工作業に不備があったとき「さかのぼってやり直しが出来ない」ためですね。また、作業が分岐していくときも同様です。選択肢が分岐していくほど先に行って何か根本的な問題が発生したり大前提を見直さなければならないときその分岐前の時点に戻って「やり直しを行う必要がある」これはリスクを回避するためには必須であります。このパソコン上でのアプリ起動によるメモリの減少バックアップデータによるディスク領域減少はPC自体の処理速度を低下させ高度な処理能力を制限することに他なりません。ヒトの意識に大きく影響を与えている集合意識にもそれと「相似象の現象」が起こっているのではないだろうか・・◆集合意識の変容のステップは・・!?集合意識は人類全体/地域・民族特定のコミュニティ等様々なレベルで存在しているものと思われます。それらは集団的なタンハー(根源的な渇望感)から発生し集団的な習気(法律・制度・ルール・規範・常識)で細かく形成されそれらがそこに属するヒトの意識上に大きな「制限」を与えると同時にそこに属しているという「帰属感」を与えます。集合意識にはそこに属するヒトが発生する意識が断片的・継続的に蓄積堆積していき巨大な「ひとつの意識」を形成していくと思われます。ところが・・何らかの理由で環境の変化が生じた場合(災害/人災/経済恐慌/制度の崩壊)膨大なヒトの発するストレスが集合意識に蓄積されそのストレスが長期間継続するような場合メモリの占有化が進みます。またそのような一種無秩序状態に陥るとあらゆる選択肢がヒトの内面意識に派生し続けます。これは多くの「世界線」を生じさせそれが膨大な量になるほど集合意識の領域は「バックアップ」で膨れ上がりますそうなると・・そこに帰属しているヒトの意識は余裕がなくなり反応的になったり衝動的な行動にでたり波動が劣化していきます。ただ・・集合意識もまた自然の摂理法則が働き起動アプリの削除やデータ消去が定期的に行われていくものと思われます。それが神道でいうところのミソギハライなのではないか・・それは現象的には更なる巨大な…壊滅的な病気/貧困/争い/災害のカタチで蓄積されたモノが激しく噴き出してくるのではないか。ただ…巨大なエネルギーの解放によりその直後はメモリの空き容量も大きくなりハードディスク空き領域も拡がりそれがヒトの意識に影響を及ぼし主体的・創造的・独創的な製品開発/技術開発/芸術の発展が大幅に進捗し得る環境になっていくのだと思われます。戦後世代がこのようなことを申し上げるのは不謹慎であると重々承知しておりますが第二次世界大戦(大東亜戦争)もまた大きな歴史的な節目として日本は避け得ない状況に置かれ凄惨な状況に追い込まれましたがそれゆえに集合意識に堆積していたモノが一挙に表出し放出され結果として日本人の意識が一挙に拡がり元々持っていた基質が爆発的に発現されて行ったのではないだろうか、と推察されるのです。いわゆる高度経済成長時代ですね。そして・・このプロセスは日本という国だけではなく地域、コミュニティ、特定の団体あるいは個人においても同様の原理・法則が当てはまるのではないかということなのです。このような「ミソギハライ」の概念はパソコンやネットといったデジタル機器が普及している現代ならば理解できると思われますが弘法大師の時代今から1200年ほど前の時代の人々にこの概念を説明し理解してもらうことは到底難しいと思われます。それゆえに「罪穢れ」という規範意識維持のための概念に置き換え物質開発に伴うヒトの精神波動の劣化を抑制してきたのではないかと思われるのです。また「ヒトの変容」というイベントについてですが例えていうならばいまの若い世代の方々は新しいPCであるからメモリの容量もハードディスクの容量もわたしのような旧世代とはケタ違いの比較にならないレベルではないだろうかと思われます。若い世代の変化変容をどれだけ支えていけるか・・ある意味年配者の役割りはその一点にあるのかもしれません。