✡ADHD気質で神秘的なことに興味がある方々へ
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。◆エントロピー増大の法則「エントロピー」とは「乱雑さ」や「無秩序さ」の度合いを定量的に表す概念のことで物理学や情報理論で使われる用語との事です。このエントロピーは 物事は自然に任せるかぎり 時間の経過と共に だんだんと乱雑になっていく そしてその乱雑は増大していくという法則だそうです。このエントロピー増大の法則についてとても分かりやすく解説されている情報がありましたのでご紹介させて頂きます。なぜ地球上だけに、「エントロピー」という悪魔に抗える奇跡が起こっているのか?経済産業省の伊東直人さんという方の記事ですが書籍(本)という媒体は記録を長く後世に残し続ける優れた情報伝達媒体であるという考察をされておられその中でこのエントロピー拡大の法則を説明されております。この中でエントロピーの本質的な説明として この世界のあらゆる事象は 自然のままにすることで 秩序だった状態から バラバラな状態に向かって行く。あるいは あらゆるモノは新しくはならない。 古くなっていくしかない。 劣化し続ける。と解説されております。これはモノ(物質)のみならずヒト(生物)もまた同様です。しかし実はこの地球上であって時間と共に劣化しないモノがありそれが「情報」であるという考察もされています。この部分もとても興味深い視点だと感じます。◆エントロピーと臨界点エントロピーは物理的には・熱が拡散して 均一になる(冷める、広がる)・秩序ある状態から 無秩序な状態になっていくことを示しますがこの概念は様々なヒトの文明・歴史の流れにも相似象として現れております。中国の秦は、それまでの戦乱の時代から産まれた中国初の統一国家でしたがその強大な中央集権体制と急激な改革から始皇帝の死後、わずか15年で滅び再び混乱の時代へと入り、漢王朝に取って代わられることになりました。ヒトの世界では制度や仕組み自体もまた導入時そのままの状態を保ち続けることはできず秩序から無秩序へと変化していくいわゆる経年劣化していくという法則なのですね。ただしヒトの世界では物質的なエントロピー以外に精神的な臨界点というものも同時に存在しております。たとえば戦争はその時代の体制に対する不満が民衆の中に徐々に蓄積し、それが秩序を崩壊させ一時的な無秩序現象として現出した状態のことでしょう。但し、近年の戦争は明らかに軍産共同体が引き起こした意図的人工的なものが殆どだと思われますが。この無秩序な現象がある臨界点を超えた状態になったときエントロピーの不連続性が消失し連続的な変化が起こり始めると言われております。物理的には例えば水という気体・液体・個体の三態に変化する物質が気体・液体として共存できる臨界点(限界の温度・圧力)を超えると超臨界状態=液体でも気体でもない連続的変化が生じます。これは一般に知られている0度で水は氷になり100度で水は蒸気になるという温度を遥かに超える高温・高圧の状態であります。例: 水の臨界温度(374℃)と 臨界圧力(22.1MPa)を超えると 水は液体とも気体ともつかない 「超臨界水」になる。この技術を流用したものがドライクリーニングですね。(この場合、使用するのは水ではなく 二酸化炭素になりますが)◆精神世界のエントロピーと臨界点「強く想い続けていると現象化する」というようなことを聞いた事があると思いますが、これはある意味では真実なのだと思われますただ精神エネルギーが物質化するには相当の時間とエネルギーの蓄積を要すると思われますのでそこには個体の精神エネルギーというより集合体(集合意識)のエネルギーありきということになるのでしょう。ですから・・自分(個体)が祈ったら現象化した!ということがあったとしても実際には自分以外の多くのヒトの集合意識が類似した目的で「そうしたい!」という願望が蓄積し臨界点を超えたそのタイミングで現象化したというのが真実なのだと思われます。またその場合の「強い願望」というのはカタチばかりの祈りとは全く異なる 粗野で切実で切迫した激しい渇望感 エントロピーで言うところの 無秩序的な ほとばしるような情念的衝動なのだと思われます。その激しい念的波動が臨界点を超えたとき精神的エネルギーと物質的エネルギーの境界を超えた相互に影響し合う連続的変化が生じるということだと推察されます。そして多分・・これが物質化・現象化の根本的な仕組みではないかと思われます。ですから(実相で観れば)極めて強い恐怖心・怒り・憎しみ・渇望感といった念的波動はエントロピーの法則を加速させ臨界点に向かわせるためのエネルギー源とも言えます。◆世界線のバックアップとやり直しの世界線エントロピーの法則と臨界点について長々と記してきましたが実はこのエントロピー(無秩序)と臨界点(境界を超越した連続的変化)という現象こそがヒトが次元上昇の際に作動する変容の正体ではないだろうかという推察なのです。そしてそのエントロピーと臨界点の究極がいわゆるヒトの肉体のエーテル化現象ということであります。肉体と精神体(意識体)はいまの時点ではまだ分かれ区分される境界が存在しますがそれが徐々に消失していきやがて融合し合う・・それは避けられない方向性と思われます。しかしそのためにはエントロピー(無秩序)だけではなく臨界点(超越点)に達する膨大なエネルギーと絶妙なタイミングがなければならない・・そこが問題なのだと思われます。ヒトの次元上昇を意図しそこに導こうとする存在があるとすれば正にその臨界点に達するためのタイミングをどう実現させるか!そこが一番苦悩するところではないか?ということなのです。◆世界線のバックアップとやり直しの世界線そこでこれを実現させていく有効な手順として多くの世界線を支線として派生させてバックアップとして保持しておき本線の世界線のエントロピー&臨界点のタイミングがずれて次元上昇に失敗したらバックアップしていた支線の世界線を再起動し、再度エントロピー&臨界点のタイミングをはかっていく・・これはもうほとんどが何度も膨大なシュミレーションを繰り返しながら微妙なタイミングをつかんでいく作業ということになるのでしょう。それはヒト個人の意識というより大多数の意識の集合体である集合意識の流動化(ワンネス化)へとつながっていくと思われます。また今回の次元上昇では意識体(精神界)のみならず肉体(物質界)もまた同時にエントロピー&臨界点に達し流動化(エーテル化)していくという難易度の高い実験(?)になっていくということなのでしょう。世界線のバックアップという概念はプログラムを構築しテストを繰り返すというプロセスを行っているプログラマーの方ならばお分かりだと思いますがプログラムのバグが起きたり期待される処理が行われなかったときそのためにその処理が開始される直前の段階のバックアップデータを残しておきいざプログラムがハングしたときにはそれを停止させ原因を追究しながらバックアッププログラムに改良を加えたのちに停止位置から再起動させて実験を続行していく・・手順ですね。要は我々の世界線という意識の世界は至るところにバックアップの支線が存在しそれが停止していればその時点で時間が停止した状態で保持されており改良のうえで実験が再開されればその時点から時間は流れ始めその世界線に存在する我々にとっては停止は認識されておらず時間は連続して流れ続けて来た・・という訳です。それは例えて言うならば芸術家は自分のこだわりが納得できるまで作品を創り直し続けるし料理家は自分の納得できる味を表現できるまで料理を創り直し続ける。失敗した原因、微妙なタイミングを追求し続けていくものですね。ですから・・この世界を創造し運営してきた「存在」もまたこだわりをもつ「いち芸術家」であるということなのですね。先の「世界線のバックアップ」という概念もコンピューターが普及しインターネットが普及しまたスピリチュアル系情報として世界線(並行世界)という概念が拡がっていなければ認識として在り得なかった訳です。要は・・ ヒトが次元上昇(変容)していく 臨界点=絶妙のタイミングというのは この世界の創造者であり運営者の 水面下での 膨大なシュミレーション 試行錯誤の結果 導き出されている(現出している) という真実なのです。ですから・・それを知らずに(知ろうとせずに)この世界に表出している「果実」をただ享受するだけの存在はもはやかつてヒトラーが未来を予言した究極の予言の中に出て来る 大多数が機械化人間と化してしまうということになるのでしょう。例え次元上昇しエーテル化を果たしたとしても・・そしてその仕組みを知りこの世界を創造し運営してきた「いち芸術家」である「存在」を認識しその実現をサポートし続けようとする側のヒト(意識体)はヒトラーの予言にある 超人あるいは神人として存在が大きく変容し人類の新たな未来世界を裏側から支えていく存在になっていくという事になるのでしょう。だいぶ余計な妄想まで踏み込んでしまいましたがほとんど直感的なイメージをつたない言語力で置き換えたので稚拙な表現になってしまいました。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。ヒトの意識はとても刹那的・流動的でとにかく留まるところを知らないのですが面白いもので「流れ」と共に「節目」が必ず存在していると思われます。流れ が「動的」であるのに対し節目 は「静的」であると言えます。◆世界線の分岐何度か過去記事でも触れましたがこの世界では絶えず世界線の分岐が派生しており微妙な違いからくる近接した並行世界も存在する訳ですが過去に大きな決断による分岐はそれを実行した場合と実行しなかった場合とでその後の進路が大きく異なる世界線もまた存在しているのでしょう。「あの時 ああすればよかった・・」と想うときその選択をした結果としての世界線もまた存在していると推察されます。ただし・・世界線は植物の根っこのようなもので一旦、分岐して伸びていったとしてもそこにエネルギーが流入していかなければいつか自然に枯れてしまうという感じなのでしょう。◆この世界は収束に向かっている私たちの生きているこの世界はいわば閉じた世界であり仮そめの世界(方便の世界)であるためその目的が果たされていく都度徐々に収束に向かって行くという流れが在るようです。そのため世界線も分派派生していく方向から一定方向へ収束収斂していく方向へ進んでいるようです。このため選択自体が制御され始めているとでも言いましょうか一定の範囲の選択に絞られていくというかもっと言えば「そう選択させようとしている 思念の存在がある」と感じております。この前提から世界線の分岐点までの巻き戻りやり直しという現象が生じていると言う考察があります。主に若い世代にそれを周知させるために多くのアニメで表現されておりますがマインドフルネスで言うところの「いまここ」もまたいまここの分岐点に時間が巻き戻ってやり直しが行われている。何らかの新たな選択をする方向へと仕向けられている意識させられているという考察もあります。何度か過去記事でも触れておりますがヒトは・肉体・意識体で構成されておりそこに・宇宙思念体が随所で介入することでこの世界の意味を成していると推察しております。肉体は タンハー(欲求の根源)意識体は 習気(習慣・常識・シバリ)そして宇宙思念体はこの世界を動かしている本体(思念)ということになります。この宇宙思念体が拡大膨張し続ける世界線を収束収斂させるために例えば・・ヒト(意識体)が右の方向へ進もうとしたときそちらに進むことにより世界線が膨張してしまう未来が生じる場合分岐点の手前まで巻き戻し左の方向へ進ませるためのやり直しをさせようとする・・そのシグナルをキャッチして思念体の誘導通りに左に進めばそれで済むのですがそれでも右へ進んでしまった場合何度も時間をさかのぼり繰り返し 繰り返しそれこそ「その選択をするまで」やり直しをさせ続けていく・・私たちの世界は実は既にその段階に入っておりその選択を容易に進めていくため瞑想や禅・ヨーガ(あるいは密教)により意識下の意識を目覚めさせようとしているのであり「それが本流になりつつある」のではないだろうか・・要は宇宙の思念体の意図を言語ではなく思念としてキャッチしてそれを体現していくスキルこそが大切でありそれは瞑想・禅(ヨーガ)・密教といった深い意識の領域にアクセスしていく方法を通じて醸成されていくという考察です。この概念は瞑想を行うときもとても有効ですが日常生活の中でもストレスが溜まりイライラしている時でも「もし、ここで 衝動的に怒りを発してしまったら・・」「もし、ここで パニックになったまま 無造作に行動にでてしまったら・・・」 その選択を回避させ 何らかの収束をさせるために いまここに時間が巻き戻り やり直しのタイミングが 目の前に来ている と感じることで 最悪の選択を回避できる また 最善の選択へと向かうこともできるこれは頭でそう考え理解するのではなく瞑想や禅を通じて そうなのだと感じるものがあれば そうなるという類のものですが。瞑想の実践と共に日常生活でも常時活用している概念でもあります。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとございます。◆五感を通じてのシャバ世界この世の中は五感(目・耳・鼻・舌・皮膚および体内感覚)で感じている世界ですが仏教的には仮そめの世界とも言われています。元々は外側からの刺激を五感で受け止め・肉体奥のタンハー(ヒトの根源であり激しい喉の渇きに 似た欲求)で反応するかあるいは・意識体の習気(じっけ)(習慣・常識・ルール・集団的慣習)で 反応するかそのいずれかの「反応の仕方」がそのヒトの人生をカタチ作っていくという訳ですね。ただ・・ヒトの刺激に対する反応はタンハーや習気を介さない反応もありそれは選択的反応というべきもので「7つの習慣」でいうところの「刺激に対する反応との間には スペース(余白)があり そこに人類最後の自由が存在する」ということだと思われます。それはタンハーや習気に起因する個人の経験値や感情による反応ではなくもっと大きな・・例えて言うならば「宇宙的思念との同期同調」からくる選択肢であると思われます。このあたりをもう少し深めていきますと・・・◆刺激と反応の間の「スペース」とは?私たちの日常はよくよく観察して観ると刺激に対する反応の連続でありそのほとんどは反射的な反応が占めていると思われます。いわゆる無意識的な反応(選択)ということですね。それは現実界(空気界)での現象でありそれとは次元の異なる瞑想で深く没入している世界「思考が停止し 深い思索の領域に入り切っている」その状態、その瞬間を前述の「7つの習慣」では「刺激と反応の間に在るスペース」と表現していると思われます。ヒトの「表面意識上の思考」はとかく過去の経験やそこから派生する感情に左右されやすくそれを自分の思考による選択をしていると思い込んでいますがそのほとんどが刺激に対する反射的反応の連続であることに気づかないまま意識が流れていきます。これは至極当然のことであり日常生活の中で朝起きてから洗顔して頭髪を整え朝食を済ませてから衣服を整え玄関を出るという一連の動作をこなしているのは習慣化しているからでありそれは考え事をしながらでも自動的に発動していますね。習慣化した反応パターンは無駄な意識エネルギーを使わずに済む反面無意識的に反応してしまうという訳です。駅のホームをスマホを操作しながら歩いていてヒトやモノと接触して事故を起こす・・というのも分かっているけど止められず痛い目に会わない限り意識的に気づく状態にはなれないという訳ですね。つまり・・ヒトを動かし反応し続けているその本体であり源にあるものはヒトの意識の奥に存在しているタンハーでありまたそこから派生した習慣化した習気であるという事なのです。ですから・・いまここに気づくというのは自分がいまこの瞬間もタンハーと習気のままに動いていることに気が付くということになるのでしょう。◆宇宙思念の世界(無我の境地)へ禅や瞑想を深めていくと日常の経験や思考からくる諸々の感情から離れシャバ世界の囚われから遊離した自由で無碍な世界に没入できる瞬間があります。この状態は「無我の境地」であり別の表現で言い表すならば「宇宙思念との融合点」であると思われます。ある意味「空気界から無気界」へ「シャバ世界から無我の世界」へ次元移行しているとも言えます。元々は無気界(無我の世界)が真実の世界であり空気界(シャバ世界)は仮そめの世界であったのですが長い期間多分数千年か数万年にも及ぶ「シャバ世界での膨大な試行錯誤」が必要だったのでしょう。こちらの世界(空気界)が本物であちらの世界(無気界)は空想だと刷り込まれているということ。ただ何らかの理由でその膨大な試行錯誤の終焉と共にヒト(意識体)もまた次の次元へと移行していく段階に入ってきているという真実。その次元の移行期間に巡り会っているというある意味奇跡に近いタイミングとでも言いましょうか。ですから・・映画「マトリックス」にもあったように赤いカプセルを選ぶか青いカプセルを選ぶかその選択の可能性が残されているということだと思われます。◆タンハーと集合意識の関係私たちの日常世界ではとにかくヒトの感情を揺さぶりヒトの内面奥に存在するタンハーを刺激し続けようとする「流れ」があります。多分・・ヒトのタンハーは個々人から発するものではなく人類全体の集合意識から発していると思われ地球上のあちこちの地域あるいは時と場所を選んで現実世界に表出してくる・・それは地底のマグマが活火山の火口から噴出してくるが如きであり個々の地域の住人や個々人の問題ではないようにも感じます。ある一定の限度を超えると現象化し始め一旦、現象化が始まるとそのエネルギーが減少していくまで放出され続けていく・・例えば地域紛争や災害・事故干ばつや汚染、貧困、対立様々なカタチで表出してくるものと思われます。ただしタンハーは一面ヒトの活動を促進・進捗させていく原動力でもありその表出・噴出の仕方が問題になると思われます。とくにその表出の仕方を大きく左右しているのがタンハー表出の際に媒介となる集合意識ではないだろうか・・だいぶニッチな考察になってしまうのですがヒトの意識は常に集合意識の影響を受けているのでありヒトもまた何らかの依るべき集合意識を求めているとも言えるのではないでしょうか。たとえば宗教団体もまた多くの信者信徒を擁することで同じ価値観 共通する理念互いに支え合う意識を共有しそれが結果として集合意識を形成する。あるいは神社に祀られている神様もまた長い年月を経て多くの参拝者や信徒からの「祈り」の意識を集めその集合意識が「神を形成していく」とも言えるのではないでしょうか。あるいは企業やコミュニティもまたその集団の理念や目的価値観や共通の活動を通し徐々に独特の集合意識を醸成していく。それが長ければ長いほど文化となって浸透していく。これは地域や民族あるいは一族といった単位でも同様のことが言えるのではないでしょうか。ヒトは単独では生きられないと思わされており実際にこの現実のシャバ世界では自分以外のヒトとのつながりによる「相互依存」がなければ生きていけない仕組みになっている。ですからヒトは絶えず自分が所属する集合意識を求めそこに属することでの安定安心充足感を得ながら生きているということになるのでしょう。ここで問題なのは「いかなる集合意識を選択するか」ということだと思われます。このシャバ世界は集合意識同士のぶつかり合いや融合が絶えず行われておりそれはあたかも体内の細胞が分裂して巨大化したり互いに攻撃し合いいずれかが他方を破壊したり取り込んでいったり。ヒトも企業も民族も国家もみな様々なレベルでの集合意識に影響を受けながら活動を繰り広げているということなのでしょう。そしてタンハーはその集合意識を介して現実世界に表出してくるということだと考察しております。◆これからの世界を担う集合意識の選択妄想的考察になってしまうのですが・・やはりこれからの世界は宇宙規模でのミッションに直面しているという洞察抜きでは想像できないように感じております。もちろん地球規模での次元上昇ありきなのですがそのプロセスでヒトの意識も肉体もかつてない変容が生じそれが段階的・連続的に行われていく・・その際にも何らかの核となるビジョンのようなものがあるのではないだろうか・・たとえば・電脳化(ヒトそのものの電子化)・ワンネス化(意識のボーダレス化)・士道精神の復活(日本人の意識の根底にある)といったものが融合しながら進捗していく・・その中の士道精神というのは多分ですが・・日本古来から特に聖徳太子が存在したいまから1600年ほど前の日本の建国とも言える時代から脈々と培われてきた集合意識幾多の戦乱や災害などの苦境の際もこの日本を裏から支え続けて来た存在が蓄積してきた集合意識それが士道精神と言われるものであり剣道・柔道・合気道・華道・茶道などの武芸にその片鱗を残し続けてきていると思われるのです。日本が日本として残ってきた存在理由がそこにあるのではないかという事なのです。士道精神は愛・信・義を中核とする理念であり生き方であるとするならば必ずそれは崇高なる集合意識として蓄積され続けてきているそれが必要とされる時が来るまで封印され続けて来た・・という考察です。いまの時代目先の流行や作為的な操作された集合意識でヒトを動かし続けようとする方々も大勢いらっしゃいますがその方々もまた見えざる集合意識に翻弄されている訳ですね。その中で日本人としての目覚めを掲げ活動されている方々も次第に増えておりますね。その日本人として目覚め世界を新たな方向へ牽引していく士道精神その中核となる集合意識が出雲大社に在るのではないだろうか・・これは出雲の歴史と出雲大社の不可思議な謎を鑑みるに出雲族と言われる存在がこの日本を裏の世界から支え続けて来た陰の存在であり真の士道精神の中核を成す集合意識を醸成してきたのではないか・・という考察なのです。まあこれも妄想的考察ですが日本人は真に危機的状況に陥った時日本人の深層意識を通じて士道精神の集合意識に接続され自ずとその生き方を選択していくように仕組まれている・・とも感じておりますしそう願ってもおります。そして・・何よりも己の礎となる集合意識についていかなる集合意識を選択していくかその選択していくための領域が深い瞑想による無我の領域無気界の領域ではないかということなのです。瞑想は単なる放念や弛緩の状態ではなく実は集合意識を選択していくための重要なスキルではないかということなのです。長々となってしまいました・・
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。行き詰った時というのは大概において目の前に見えざる分岐点が迫ってきていることを体で感じているときだと思われます。ヒトそれぞれまたその時々によりそれは人間関係であったり仕事関係であったりまたこれまでの自身に身に付いていた当たり前だと思い込んでいた習慣や常識であったり・・15年以上前になりますが当時所属していたコミュニティで剣道を習いそのときに指導して頂いた先生がよく 守破離(しゅ・は・り)という剣のミチの極意を口にされていました。簡潔に言えば・守 ~型を守り修練し続ける・破 ~型に囚われず型を破る・離 ~既存の型から離れ新たな型を創るということです。武芸のミチには、先ず「型」がありこれを繰り返し繰り返し修練する。それがカラダに身に付いていくと一定の成果・レベルに達する。すると、そこに必ず「行き詰まり」が生じる。そこで終わってしまうかそれともその先に進めるかはその葛藤と対峙し更なる試行錯誤の果てにあるモノ「破」に及ぶか否かにある。そして更に元の型から離れて自らの型を構築していく。ただそこで終わるのではなくその先はまた再び「守破離」を繰り返して行く。これは武芸のミチのみならずビジネスや日常のあらゆるシーンで活用できる概念だと思われます。基本となる「型」の修練あってこそ次の「破」につながっていく訳ですね。歌舞伎の中村勘三郎さんの名言「型があるから型破り 型がなければ単なる型なし」はとても含蓄があります。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。密教や神道に深く惹かれるものを感じメンタル改善のために瞑想を行いながら神秘的な領域を個人的に探究しております。~~~~~~~~~~~~~~~~~~弘法大師の記した「吽字義」という著書について過去記事でも触れましたがその中に三密の要諦となる三句一字という概念があります。三句は『菩提心』を因とし『大悲』を根とし、『方便』を究竟となすとあり一字は「吽」(ウン)ですね。このうちの「三句」についての考察をさせて頂きたいと存じます。個人的な見解ですが密教や神道がはるか過去に発祥し現代まで伝えられて続けて来たのは現代に生きる私たちが次の時代につなげるため次に生き残っていくためのノウハウ・技術の伝達のためであると感じております。その意味で本来はそのミチの方々から具体的な実践方法や学びを幅広く公開して頂くのが望ましいと思っておりますがどうも宗派や規律のシバリからかなかなか統合されたカタチでの発信は難しいのかとも思われます。ただ・・そんな現世の事情とは関係なく世界は変容していくのですからあとは他人に頼らず個々に考察を深め自分のモノにしていくしかないとも考えております。◆三句は瞑想の重要な概念瞑想を深めていくとわたしの場合は個人的にですが 首から上の意識と 首から下の意識が在るという感覚が生じております。三句で言うと 首から上が「方便」の世界 首から下が「菩提心」の世界そして 特に手を中心とするカラダの各部位が 「大悲」の世界という感じでしょうか。◆『菩提心』菩提心はいわゆる仏教でいうところの自己のサトリ(自利)のみならず他者を救いたい(利他)の想いであり「利他愛」とか「奉仕の精神」という概念ですね。これは多分ですがヒトだけではなく自然界にも存在している不変的な意識なのだと思われます。いわゆる「ワンネス意識」のことです。密教や神道では 元ひとつという概念が根底にありこれは宗教的な意味合いとは別に宇宙観を表わしていると思われます。ヒトの意識いわゆる首から上の世界は「方便」の世界であり二元的意識の世界ですが首から下の世界は「ワンネス」であり「菩提心」そのもの自然界・宇宙とつながっている世界ということになるのでしょう。瞑想で身体感覚に意識を置いたり呼吸や身体の動きを意識しして思考から離れることを学びますが正にそれは首から下の世界であるワンネス・菩提心に触れることを意味していると思われます。◆『大悲』元々ひとつであった意識が可能性(変化)を求めて発意しそこからすべてが始まった・・それが宇宙でありその途中経過であるのがこの地球上の現実世界であるという概念。これはスピリチュアルの世界だけでなく密教の宇宙観にも通じるものですね。密教には曼荼羅というものがありこれは金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅があります。ここでは深くは触れませんがひと言でいえば金剛界 = 大悲(宇宙の法則)胎蔵界 = 大慈(菩提心・慈愛)となるのでしょう。ここで言う「大悲」はいわゆる「悲観する」ということではなく 宇宙の普遍的法則のままに観察しているという意味合いになると思われます。個人的には瞑想を深めていくことでこの「大悲観」で観察している自分=俯瞰している自分という感覚が目覚めていくと思っております。◆『方便』ここでいう「方便」というのはいわゆる二元的意識のことで自分か 他人か陽か 陰か表か 裏か善か 悪か見方か 敵か是か 否か0か 1かという二極分離の意識のことです。この二元的意識がなければこの現実世界で物事はいつまで経っても進捗せずひとつのままで無限に時間が経過していくだけになってしまうということですね。いわばこの世界の進捗発展のための「方便」という訳です。ですから・・「真理ではない」ということですね。ヒトは生きて死にますが生きている間は方便の世界で暮らし死ぬことによりワンネスの世界へ戻るということになるのでしょう。葉隠でいうところの 武士道とは死ぬことと見つけたりという言葉の意味はとても深くて浅学の身では語れないものでありますがヒトは死すことで 元ひとつに戻るという意味合いも含んでいるのではないでしょうか。この「方便」を認識しているのが 首から上 = 脳という事になるのでしょう。◆「大悲」は どの部位?ある意味「大悲」という概念は法則そのものを理解する意識法則(縁起・因縁果報)を概念的に捉える感覚が必要となると思われます。この概念的に捉える感覚を活性化させるのが手の役割ではないだろうかということなのです。空間や時間の認識芸術的感覚や知的レベルの向上などヒトの能力のアップや維持をしていくためにはどうしても身体を使った練習・学び・修練が必要となるでしょう。その際に感覚器官(眼・耳・鼻・舌・皮膚など)が必要となりますが極めつけは「手」の存在でしょう。ヒトは手を使って文字を書きモノを組み立て微細な作業を行う。他の宇宙的存在から観れば ヒト手は脳の一部のように見えるのではないだろうかなどと想像してしまいます。(その意味では 眼も脳の一部が 露出した状態なのでしょうが)そして・・脳が手を動かすと共に手が脳に刺激を与えるということも有りなのでは・・つまり手を使った動きは ヒトの認識能力向上 特に概念的感覚の活性化につながるのではないだろうか?ということなのです。密教では真言(マントラ)を唱えながら手印を組んでいきますがそれもまた手印を組み真吾を唱えることで仏という宇宙観(概念)と同一化しようとしているということなのでしょう。話しがそれますが過去記事で密教の九字切りも真言と体の動き特に手印で空間に格子状に線を描き次いで五芒星を描き最後に✓を打つ。これもまた手という器官あっての呪術(概念)ということになるのでしょう。さらに脱線しますが・・個人的にこの「手印」にはとても興味があり瞑想をするときも頭を切り替えるときも利用しております。「手印」といっても仏像の手印を真似するのではなくオリジナルでして 両手の指を互い違いに 第二関節で組み合わせ 親指だけは指先の腹の部分で合わせるちょうど神社の屋根にある千木(ちぎ)のようなカタチですね。これが気にいっていて瞑想をしているときやパソコンで作業をしたり企画や制度設計をする際にこの手印を組んでいたりしています。そして・・時々合わせている親指の部分を円運動させながら接触している部位を微妙にずらしていくと何故か足つぼマッサージのように心地よくなるという感覚があります。深い瞑想をするときはこの千木のカタチの手印をムスビまた頭をリフレッシュさせたいときに親指の円運動を行うというようにしております。この手印というものは結構奥が深いようですのでお気に入りの手印をお試し頂くのも宜しいかと思います。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。現象化のプロセスというのは起点となる発想 着想があり次いでそこに情熱 こだわり 意欲が後押しとなりそして具体化のためのヒト・モノ・カネ・情報を集め準備しそれらを「自分」がコントロールしながらいつ・どこで・誰が・何を・どうするか具体的な動きを計画し実行していく・・休日に旅行に行きたい!遊びに行きたい!趣味に没頭したい!と想ったら概ねそのようなプロセスで発想~行動まで進むのではないでしょうか。◆世界線の現象化のプロセス~日常の仕事でも休日のレジャーでも・やりたいこと・やるべきこと・やらなくてはならないことを どのように進めていくか考え準備し実行していくわけですが日常の習慣化・ルーティン化したものは別として新たに取り組むことについては従来の発想とは別の新しい発想創意から始めるということも時に必要となりますね。この新たな発想創意というものが「世界線の起点」となるモノではないだろうか?ということなのです。勿論いきなり思いついたことだけでなく過去に思いついたことが着想として表出してくる場合も多いと思われます。但し「起点」となる発想創意があってもそれを「後押ししていく情熱こだわり」が なければ単なる思いつきで終わるでしょう。ですが「後押ししていく情熱こだわり」が あれば実現に向かって少しずつ物事が進んでいく。そしていつか機が熟したとき物事が押し出されていくように現象化し 表面に現れてくるこれは個人の日常の中で絶えず当たり前のように行われていることですね。これと同様に世の中に現われて来る現象もまた起点となる発明発想(発意)がありそこに多くのヒトの情念(タンハー)が集まり起点となる発意をタンハーが後押しするが如く世の中に押し出していく・・そのスガタはまるで植物の根っこがタネから地中に伸びていくスガタに酷似しているように思われます。いかにすぐれた発想(発意)であってもそれを後押ししていく情念(タンハー)がなければ根っこは伸びていかない。そこには・・わたしたちが目に見える「現象の世界」とは異なる「実相の世界」があると想われます。◆実相の世界世の中を長く生きていると物事はとかく思い通りには進まないあるいは理不尽なことも当たり前のように在るということを痛感します。「当たり前のこと」があるのと同時に「当たり前ではない」こともあるものだということが分かっていく訳ですね。まあ何があっても最後は受け容れていくということになるのでしょう。いわば頭では理解できずとも体では納得するしかないそれは特に自分に不幸な現象が降りかかってきたとき「なぜ自分がこんな目に会うんだ!」と苦しむ。しかしその現実を受け容れるしかないのであれば納得するしかミチはない。そこには理不尽と感じる感情や情念が在ると同時にそうなってしまった「何らかの見えざる条件が 重なり合ってそうなった」ということ・・つまり実は「そうなった世界線が生じた 起点となる発意創意があった」そして「その起点を世界線として 成長を後押しさせるタンハー(情念)が あった」ということなのです。これが「現象の世界」を理解するために必要な「実相の世界」という概念であります。いわゆる「法則」のひとつということになるのでしょう。例えてみると・・難しい交渉事でどのように相手を説得するか?難しい状況であるほど相手の顔色や言動に細心の注意を払い自分の言動や表情にも気を配りつつ筋道を順序立てて説明していく。時にこちらの主張で譲れない点は明確に表明しつつも相手の感情情念を揺さぶり過ぎないように加減しながら伝え決して相手の情念(タンハー)を氾濫させないようにしながら結論まで持っていくこといかに相手が情念(タンハー)に流さないギリギリのところをかすりながらも理解させるべきポイントを流し込むかその加減が本当に難しいところです。これは多くの方々が経験してきていることですが交渉事に長けている方はこの機微を熟知しているといことですね。この例でいうと目的を果たすためにいかに相手の方がマイナスの情念に流されないように加減していくかという点です。一旦、情念に流され始めるといわばそこを起点としてマイナスの世界線が生じ始める。ですからもしそうなってしまったらいかに早い段階で軌道修正をしていくかにかかってしまう。これが極めて面白いところであります。わたしたちの日常においてもこのような「物事の分岐点」「物事の流れ」を意識する場面がある訳ですからさらに大きく意識を広げていけばいかにこの世界には多くの分岐点多くの流れがあらゆる時と場所に存在しているか・・ということなのです。◆世界線は絶えず「軌道修正」と 「やり直し」が行われているこれは妄想的考察ですが私たちは 自分が意識するから それが起点となり 世界線が生じているという思い込みに囚われがちではないでしょうか。意識に表出した部分だけみればそれは正論でしょうが前述してきた通り 世界線には その起点となる意図(意思)が 存在しており その世界線は ヒトのタンハー(情念)により 成長進展しているというのが実相ではないでしょうか。そしてこれは極論的な発想なのですが ヒトは 世界線の起点を創るモノと 世界線の成長を助長するモノ に分類される つまり・・・世界線の起点となる発想創意を 意識化していくヒトと・世界線の起点を押し出していく タンハーの役割をするヒトの2種類が存在しているということ。これは厳密にいえば同じヒトであってもその時の想念次第でどちらにもなり得るということになりますが。例えば・・ネット上で新しい発想創意を発信したヒトこれは世界線の起点となったヒトですね。そしてその起点となったヒトを応援したり逆に誹謗中傷したりをするヒトたちは世界線の起点を押し出していくタンハーの役割をしているという訳です。これは別に優劣とか良し悪しの話しではなく「実相」としてそうなっているということなのです。ここの部分はわたしが以前からモヤモヤしていたところなので文字化・言語化したことで何となくスッキリした感じがしています。◆世界線の起点を創っている存在と 純粋思念妄想的考察ですが世界線は絶えずやり直しや後戻りが行われていると感じております。これは「私たちヒトではない存在」いわゆるこの地球上というヒトの世界線を創った存在という意味ですがそこには明確に意図がありその意図に従って現象化が行われ続けて来たということです。そしてその現象化に伴う世界線の創造は皆さんも御承知の通り無限に近い世界線の派生すなわち 並行世界の存在という概念で知られてきています。ただ・・これからの時代は タンハーではなく 純粋な思念が 世界線を形成していくそういう時代になっていくとも感じておりますし必ずそうなってもらいたい!という想いがあります。この部分は改めて書きたいところですがもう強い者勝ち早い者勝ちのタンハー優位の世界には飽き飽きしてきた・・というのが本音であります。特にわたしのようなADHD気質のモノにとっては・・
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。密教や神道に深く惹かれるものを感じメンタル改善のために瞑想を行いながら神秘的な領域を個人的に探究しております。~~~~~~~~~~~~~~~~~~瞑想では「俯瞰する」こと肉体感覚や五感で観ずる感覚あるいは感情の動きさえも観察していくことの重要性が説かれていますがこれは 感情も 思考も 五感を通じての感覚さえも 観察の対象であり 「ただ観察している」 「ただ観ている」 「ただ感じている」 「それに気づいている」 という 執着や囚われから離れた状態ということになるのでしょう。仏教的にいえば「四苦八苦から離れる」ということでしょうか。四苦八苦とは・・・生きる苦しみ・老いる苦しみ・病の苦しみ・死の苦しみ・怨憎会苦~互いに憎しみ合う苦しみ・五陰盛苦~五体が在るがゆえの苦しみ・愛別離苦~愛するモノと別れる苦しみ・求不得苦~求めても得られない苦しみであり「俯瞰」は苦しいと感じながらもそれを観ている、感じていることに気づいている状態。例えて言えば 舞台のうえで 嘆き悲しみ 打ちひしがれている役柄を 演じながらも それを観ている視点が在るということ。このあたりはとても面白いところなのですがまだ私自身も深い瞑想というものを体験しきれていないため表現しきれないところでもあります。ただ何となく感じるのは・感情や感覚から わずかに遊離した状態・それを観ている視点が在る状態でありそれは 「肉体」としての感覚 「意識体」としての感情 とは異なる視点が生じるとでも言いましょうか。~~~~~~~~~~~~~~~~~~話しが少し変わりますが「思念体」というのはわたしが個人的に想像している概念ですがヒトが生きていた時に発した固有の「残留思念」・・(固有意識)多くのヒトたちの共通思念が醸成された「集合思念」・・(集合意識)宇宙やこの地球上に普遍的に存在する「宇宙思念」・・普遍的意識などがあると考えております。~~~~~~~~~~~~~~~~~~ヒトは「意識体」でありいわば「肉体」と「宇宙思念体」の中間に位置する存在であり 非常に不安定で変化しやすい物質であると思われます。それは エーテル体という「氣」の概念で捉えられている存在で絶えず流動し続けております。そしてそれは・・ヒトの意識の変化に応じて肉体の中に位置していたり肉体の外側に飛び出していたりあるいは対象物まで時間と空間を超えて果てしなく薄く長く伸び続けていたり変幻自在とも言えます。ただ通常は肉体感覚と一体化していて肉体の中に在るため自分と他人自他の区別が明確になっております。それが肉体の外側に飛び出していたりすると肉体と意識体が分離しやすくなり残留思念とも共鳴同期しやすくなったりでいわゆる「心ここに在らず」「思考に囚われていまここにいない」状態になりやすくなってしまう。ですから・・瞑想(禅)・ヨーガで身体感覚に意識を向け続けたり身体内に沸き起こる感情に意識を向けていくことでエーテルの流れが肉体(身体)中心の流れを取り戻し意識体としての安定を得られるようにするという訳です。更なる妄想的考察ですがこれから徐々に加速度的に進捗していく(と思われる)物質のエーテル化はヒトの「肉体」という「意識体の拠りどころ」が不安定な状態になっていくことでもありそれがヒト(意識体)に一時的に大きな不安と恐怖を与えることになると思われます。ただ多分ですが・・同時並行的に起きていく現象として徐々にヒトの記憶が曖昧になっていったり深く思い込んでいた価値観や考え方が全く別の観点から見れるようになったり強い執着を持っていたモノへの愛着心が急速に薄まっていったり・・モノやお金に対する物欲プライドや意地といった執着他人を支配しようとする支配欲ヒトに認めてもらいたい承認欲求強い憎しみや怒り・遺恨といったヒトの世に当たり前のように存在していた思念が地球レベルで希薄化~消失していく。そしてそれに伴いヒトの意識は徐々にしかも加速度的にワンネスに向かって宇宙思念体と同化し始めていく・・場合によっては先行して次元上昇していくヒトやモノ、動植物などは存在そのものの波動(波長)が変化しあたかもそこに始めから無かったかの如くそれ以外の多くのヒトびと(次元上昇に至っていないヒトたち)の記憶や記録から消失していく・・ということになるのでしょう。それはまさに次元上昇して新生した地球への移行であります。一方、強い執着や欲求、激しい遺恨などはエーテル体の中に「瘤(こぶ)」や「しこり」のような濁りを生み出しそれが次元上昇を阻害しいつまでも現生地球に縛られ続ける・・というヒトたちも残っていくことでしょう。いわばここからが 真の正念場ということになっていくのでしょう。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。密教や神道に深く惹かれるものを感じメンタル改善のために瞑想を行いながら神秘的な領域を個人的に探究しております。~~~~~~~~~~~~~~~~~~同じタイトルで長々と綴ってきましたが今回でとりあえず締めさせて頂きます。ここからはごく個人的な考察になりますが。◆九字の結び(ムスビ)前の記事で記しました①九字を切り②五芒星を描き③中心にチョン✓を打つこの3つのプロセスは実は3つの異なる世界観をムスビつけるという行法ではないか?と感じております。①九字を切る~それは 物事を進捗させていく法では? この説明は少し長くなるのですが前述までの記事の通り九字では空間に四縦五横の格子状のカタチを描きましたがそれは結果として空間中に タテ3 × ヨコ4 = 12マスの空間を描き出したことになります。ここに面白い考察があります。日本の四季は春・夏・秋・冬それぞれ3か月ずつで1年12か月となります。3か月毎の異なる季節(区切り)が4段階あります。つまり 自然界での1年間の進捗は 3か月毎の区切りが 4回(4段階)あって 全体でワンサイクルのリズムがあるということ。また人体細胞は新陳代謝により絶えず入れ替わりを続けていますが体の部位によりその期間は異なるものの3~4か月で約90%が入れ替わると言われています。 脳 :約1年 肝臓:約1年 筋肉:約200日 皮膚:約1か月 血液:約3か月 骨 :成長期2年未満・成人2年半全身で見ると約3か月ということです。つまりヒトの体は1年間のうち 3か月毎(四季)のサイクルで 細胞が入れ替わりながら 春夏秋冬の4回を経て それが全体でワンサイクルで循環しているということですね。 ヒトの体も四季ごとに新陳代謝しながら季節の変わり目を節目としてリズムをとっているという訳です。企業やその他社会的な組織の運営も3か月四半期ごとに計画を見直しながら進めていくことが多いですね。また、リズムといえば音楽ですが楽曲のジャンルでいうと・・心地よい音楽の代表格としてワルツがあります。ワルツは3拍子ワン・ツー・スリーを繰り返して行きますがこのリズムが自然界のゆらぎに近いため心地よさに満たされていくと言われています。また1拍目に強いアクセントがあり2拍目と3拍目は軽く流れる。その強弱のパターンが心拍や呼吸のリズムに共鳴するからとも言われています。いわゆるズン・チャッ・チャッズン・チャッ・チャッですね。これが4拍子になるとワン・ツー・スリー・フォーの4拍となり1拍目と3拍目に強いアクセントがあり2拍目と4拍目は弱い。そのパターンは歩くリズムに近いためこの4拍子は安定感をもたらしヒトのリズムを整える効果があると言われています。いわゆるズン・チャッ・ズン・チャッズン・チャッ・ズン・チャッですね。私たちが耳にする楽曲の多くは後者の4拍子になりますね。朝や昼間といった活動が活発な時間帯は4拍子の楽曲がヒトのリズムを整え夜や睡眠前の落ち着いた時間帯は3拍子の楽曲が安らぎをもたらすという訳です。ですが・・・よくよく3拍子の楽曲を聴いてみると 3拍子・4回ひと区切りで 次の 3拍子・4回ひと区切りに続いていくというものが多いようです。ちなみに次のサイトで3拍子の楽曲をいくつもか紹介しておられるのでご参考まで~~~~~~~~~~~~~~~~~~よば的思考 ~3拍子の魔法~|よば~~~~~~~~~~~~~~~~~~(すみません。リンクさせて頂きます)3拍子の楽曲で個人的に好きなのは次の曲です。忘れじの言の葉 (Forgotten Words) ft. 安次嶺希和子 / 未来古代楽団 Mirai Kodai Orchestraこのあたりはまだ直感レベルでしか分からないのですがどうもこの自然界(あるいは宇宙全体?)には 3という区切り(サイクル)を 4段階繰り返すことで 物事が締めくくられる あるいは 目標が進捗していくという普遍的な方程式というか法則のようなモノがあるのでは?と感じております。そして「九字」という呪術は 3区切り×4段階 という概念を空間に表現し 自らが達成を望む 目的・目標を念じ それを法則に従って 段階的に進捗・現象化させていく という秘められた技術なのではないか? ということなのです。②五芒星を描くこれは前の記事でも触れましたが元々、「ヒト」は肉体以外にエーテル体と言われる要素(?)としても存在しておりいわば次元というか質の異なる物質が何層か重なり合って存在していると言われております。このあたりは知識不足でよく分からないのですが要は見えない次元の異なる物質としても存在しているということでしょうか。五芒星を空間に描く際五つの先端をそれぞれ頭・両手・両足に模しひと筆書きで描いていきますがその際 頭 ⇒ 右足 ⇒ 左手 ⇒ 右手 ⇒ 左足 ⇒ 頭の順で進んで行きます。これがどうも エーテル体の流れる順番ではないか、との説があります。よく日本列島全体あるいはそれぞれの地域でも龍脈と呼ばれている氣脈があると言われていますね。ヒトや動物でも同様に見えざるエーテル体が絶えず流動し続けている「氣脈」があるのではないか・・五芒星を描くときエーテル体の流れ=氣脈に従ってそれを描いていく。これは ①で描いた九字の空間に ヒトを重ね合わせているということになるのでしょう。③中心にチョン✓を打つこれは、いわゆるムスビの印であり多分「神」というか「宇宙的な存在」「宇宙の根源」という意味だと思われます。個人的な浅学な見解になりますが 「・」テン=神・宇宙的存在・根源を意味し点を打ったあとに「✓」チョンと跳ねるのは ①九字(物事の進捗を意図した空間) ②ヒト(エーテル体) ③神(宇宙的存在) の三位三体を結び合わせるという意味があるのではないか?と感じております。その結果 ヒトが望む物事の進捗を 自然の摂理に従って ヒトと神(宇宙的存在)が一体となり 現象化していくということなのだと思われます。このあたりを深掘りしていくと際限がなくなりますのでこの辺で終わらせて頂きます。◯阿吽(アウン)の呼吸◯ムスビ(産霊)◯九字というテーマで綴ってきましたが神道と密教とスピリチュアルをごちゃ混ぜにしたような内容となりました。これからの時代何を指針としていけばよいのかまた何が真実なのかそれが真偽混然となり求めても正解というものに行き着けるのかも分からない・・ですが人類規模での大きな分岐点節目が到来しているということだけは多くのヒトが感じているのではないでしょうか。個人的なつたない探究ですが今後とも深めていきたいと存じます。真にありがとうございました。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。密教や神道に深く惹かれるものを感じメンタル改善のために瞑想を行いながら神秘的な領域を個人的に探究しております。◆護身法としての九字九字は密教での護身法として知られていますが戦時中は身を守るための呪術として多くのヒトが祈りと共に修していたと言われております。元々は平安時代における陰陽師より伝わっている呪法なのですが密教の修験道、いわゆる山伏にも深く浸透していたようです。このあたりは過去の記憶から記しておりますので史実とのズレが在るかも知れませんが。◆九字護身法「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」という九つの文字を唱えながら◯両手で九つの印を組む方法と◯空中に九本の線を縦横に引いていく方法があります。ここでは後者をご紹介いたします。流れとしては 真言(マントラ)を唱え そのあとに 九つの言葉を唱えながら 九本の線を縦横に碁盤目のように描き そして 空中に描いた線の上にかぶせるように 五芒星✫を描き 最後に 描いた五芒星の中心に 「吽(ウン)」 と点を打つ そして 閉めの真言(マントラ)を唱えて終了となります。邪気払いや災厄除け精神統一あるいは願望達成などを目的として行うこともあります。具体的な作法を記してみます。これは私が高校生の頃今から48年ほど前に密教系の団体で学んだやり方なので多少の記憶違いあるいは流派によっての違いもあるとは思いますがご容赦願います。✫✫✫✫✫✫✫✫✫✫✫✫✫✫✫✫✫✫✫✫1.右足を半歩前に出し2.右手で手刀のカタチを作り 剣先を額の眉間に位置させます。 手刀のカタチは 右手の人差し指と中指を伸ばし 他の指は丸め、親指で薬指を抑えます。3.左手も手刀の形にしますが サヤとして下向きにして腰に当てます。4.その状態で 「オン・マリシエイ・ソワカ」 という摩利支天の真言を3回唱え5.次いで「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」 と唱えながら 目線から胸前あたりの空間に 右手の手刀で 左から右へ→ヨコ 上から下へ↓タテ の順番で交互に直線を 四縦五横の格子状に引いて行きます。6.その描いた格子状に 重ねて上書きするように 「バン・ウン・タラク・キリク・アク」 という 五大虚空蔵菩薩の真言を唱えながら 右手の手刀で五芒星を描きます。 描く順番は ひと筆書きです。 この五芒星は エーテル体としての ヒトの骨格を表わしています。 自分の側からみて ①「額の中央・眉間」から ↓ ・・・バン ②「右足」へ ↓ ・・・ウン ③「左手」へ ↓ ・・・タラク ④「右手」へ ↓ ・・・キリク ⑤「左足」へ ↓ ・・・アク ①「額の中央・眉間」へ戻る と進んでいきます。 この順番は エーテルの流れでもある と言われております。 7.最後に「ウン」と唱えながら 描いた五芒星の真ん中に チョン「✓」を打つ。8.そのあとに右手手刀の剣先を 額の中央・眉間の位置に戻し 閉めの真言 「オン・キリキャラ・ハラハラ・ フタラン・パソツ・ソワカ」 を3回唱えて 右手手刀を左手(腰のサヤ)に収める。✫✫✫✫✫✫✫✫✫✫✫✫✫✫✫✫✫✫✫✫興味深いのは神道では神様を表すとき「マルチョン」すなわち丸い円を描き真ん中に点あるいはチョン「✓」を打つそのカタチが神様を表現していると言われています。九字切りにせよ神道のマルチョンにせよこのチョン「✓」すなわち「吽(ウン)」で「✓」を打つカタチに意味があるものと思われます。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。密教や神道に深く惹かれるものを感じメンタル改善のために瞑想を行いながら神秘的な領域を個人的に探究しております。◆ムスビは神道の究極概念~現象化の摂理ムスビ(ムスヒ)について亀山神社のウエブサイトにあった解説では~~~~~~~~~~~~~~~~~~「ムスヒ」とは「結び」でありさまざまなものを結びつけてそこから生命や活力を産み出していく力です。水素と酸素が結びついて水となり男女が結びついて子供ができ家々が結びついてムラやクニができる。現代流にネットワーキングと言ってもよいでしょう。すべてのものは「結び」から生み出されるという自然観、社会観は現代科学にも通ずる合理的な考え方だと思います。~~~~~~~~~~~~~~~~~~とあります。相反する性質のもの異なる概念、物質、技術、機能などを結ぶことで新たな創造がなされるという法則のことで「産霊(ムスヒ)」と表わしますが、ここでは「ムスビ」と表記致します。いわば「ムスビ」は現象化のプロセスとも言えます。ムスビを「自動車」で例えていうと・・・自動車の製造は先ず、構想やコンセプトがあり次いで、設計が始まり全体と各部の組み立てが設計図上で行われます。そして実際に機能するかを試作品で何度も試しながら検証を繰り返し繰り返し行い続けます。この作業は完成した自動車を購入する未来のユーザー(運転者)には知り得ない苦労として製品に刻まれている訳です。それは・・技術的な試行錯誤資材素材の開発そして個々に作られるパーツ同士の連動性機能や耐久性も含めた複雑な計算や実験が数えきれないほど繰り返された結果目の前に「自動車」という名の制作物が現われている訳ですね。そして別にそれらの製造工程や製造技術あるいは完成に至る「見えざる苦労」を知らなくても運転者(ユーザー)は使い方さえ分かれば動かすことはできる。但し、運転方法の習得度合や技術力経験値の蓄積あるいは運転者固有の性格などにより動かし方は異なってきますが。またある程度の走行距離ごとに点検や部品交換を行ったり事故や故障があれば修理したりあるいは目立つように色を変えたり模様をつけたり足回りをよくするためにタイヤを太めにかえたり。そして実際のドライブではどこに行くのかあるいはどのルートでどこで休憩をはさむか誰といくのか。仕事に使うのかレジャーで使うのか目的によっても使い方は異なってきますね。昔はナビがなく地図を見ながら運転しましたがいまは高機能のナビのおかげで目的地まで迷うことなく到達できます。また自動車自体の機能アップが燃費をよくしたり運転を快適にしていく訳ですね。自動車の例を長々と述べましたがこれを仮にガンダムに置き換えてみますと・・ロボットであるガンダムはコンセプト~設計~試作~製造のプロセスで製品化されそして目的に応じた自動車を購入するのと同様目的に合った機種 グレードのガンダムを購入したとします。そして購入ユーザーはそのガンダムを大切にメンテナンスしながらそして実践経験を積みながら使いこなしていく訳です。これをヒトに置き換えてみるとガンダムは「肉体」であり自分(操縦者)は「意識体」でありそして元々の構想~設計~製造までの仕組みを構築してきたのは宇宙の根源(あるいはそこに近しい存在)いわゆる「宇宙規模の思念体」であり何らかの目的が在ってこの膨大で果てしない仕組みを起動し続けているということになると思われます。個人的考察ですが「肉体」「意識体」「宇宙的思念体」という三位三体は元々ひとつで機能していたものが何らかの理由によりそれぞれのつながりが薄れ、緩み、或いは切断されいわゆる「二元的意識」が生じた。それが私たちヒトの意識(意識体)の現状ということになるのだと思われます。もしヒト(意識体)が肉体や宇宙の思念体と同化していたらワンネスの感覚知が生じてしまい自然破壊したりヒトを傷つけたりしてでも競争に走り物質文明・唯物科学を発展させ続けるということは到底できなかったのでしょう。いわば「方便」としての一時的暫定的措置なのだと思われます。ですから、〇ある程度の科学技術の進展〇ヒトの知的水準のアップ〇次元シフトしていくための環境などなど様々な条件が整いつつあるいま、ヒトは次の段階である①ワンネス化(ボーダレス化)へと大きくシフトしていくと思われます。また科学文明を発達させた本来の目的である②ヒトの電脳化(AI化)の技術も加速的に進むことでしょう。そしてワンネスと電脳化という新たな世界を維持発展させていくために必須となる極めて重要なスキルが③精神性の飛躍的向上なのですが、その基軸となるのが「愛」「信」「義」をベースとした精神いわゆる「士道精神」だと思われます。これは突飛と思われるかもしれませんがこの「士道精神」こそが日本において古来より着々と蓄積されてきた「至宝」であると思われるのです。武士の時代には武士道精神として醸成され現代ではわずかに武道やスポーツのミチを極めようと鍛錬しているヒトやそれ以外でも自分の携わる職業においてそれぞれのミチを極めるべく日夜練磨しているヒトはまさに士道精神に生きていると言えるでしょう。それは自分を律し他人を思いやり全体を優先し時に見返りを期待せずに尽くす。それは他人との比較や世間的な常識を判断基準に据えず自分の志すミチとして「自らはどう在るか」己の在り方を問い続けながら生き方・姿勢を正し続ける。そのようなイメージでしょうか。いまの世の中はとかく「早い者勝ち」「強い者勝ち」の刹那的な価値観が支配しやすいですがそれとは対極にある概念ですね。その精神世界が日本から大きく急速に拡大していく・・そのように予感しております。そして・・その古来より蓄積されてきた「士道精神」は多分、志しを高く持つヒト(意識体)のみが同期(接続)可能な高い波長波動の集合意識として秘匿されてきていると感じるのです。そこに意識が同期するためにはどうしても一定以上の士道精神を醸成していかないとたどり着けない・・陰謀論の中には日本列島には失われたアークが守られ存在し続けているとか三種の神器が存在しているあるいは日本列島および周辺の海域にはこれからの数百年、数千年の繁栄に必要とされる膨大な地下資源が既に埋蔵されているなどという説もありますがそれらを否定するつもりはありませんがそういった物的なモノよりもはるかに意味のあるものこれからの千年に必要となる至宝は既に「士道精神」という集合意識として埋蔵されている。そのカギが開けられ扉が開きそこに接続可能な状況になってきているということだと思われるのです。・・この辺りの考察はここで留めますが◆ワンネス、電脳化、士道精神に生きるこの三位三体の概念はそれぞれの分野で大きな柱として急速に現象化していきそれぞれが巨大な世界観として成長することでしょう。そして最終的に三位三体を結ぶムスビの仕組みが生じヒトは新たな次元次の段階へと移行していく・・などと想像しております。ですからこれからの時代は例えば・・自分はワンネスという精神世界を追求していく。あるいは電脳化(AI化)の技術世界に携わる。あるいは日本人の生き方の根幹となる士道精神を極める。というようにそれぞれのテーマを探求していく生き方それがこれからのヒトに待ち受けている次元上昇(アセンション)へ対応していくカギになるのではないかなどと考察しております。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。密教や神道に深く惹かれるものを感じメンタル改善のために瞑想を行いながら神秘的な領域を個人的に探究しております。◆阿吽(アウン)の呼吸法アウンの呼吸については過去に何度も触れておりますが極めて興味深く神秘性の高い技法と思われます。呼吸法の要諦は阿吽(アウン)の呼吸~その真髄は~の通りです。また、阿吽は密教とも深い関連があり特に「吽(ウン)」は意識の深淵とのつながりを可能にする密教の秘儀とも言えるものとも言えます。これは弘法大師の記した「吽字義」という著書で触れられていますが吽字義で検索すると ~~~~~~~~~~~~~~~~~~空海は、言葉や文字そのものに仏の真理が宿っている(声字実相義)と考えました。『吽字義』では、この真言密教独自の言語観に基づき、「吽」の一文字が損なわれることのない絶対的な悟りの世界(三密の本法)を表していると説いています。~~~~~~~~~~~~~~~~~~とあります。また~~~~~~~~~~~~~~~~~~空海は梵字・悉曇、つまりサンスクリットやそのサンスクリット音のままに唱える真言・陀羅尼に大変通じていた。だから「阿(ア、a)」はサンスクリットアルファベット(悉曇字母)の最初の字であり、人間が口を開いて発する最初の音であること、「吽(ウン、huum)」はまた口を閉じて発する最後の音であり、この「阿・吽」の2字が一切諸法の「本初」と「究極」の象徴であることを知っていた。~~~~~~~~~~~~~~~~~~そして~~~~~~~~~~~~~~~~~~●もし人あってよくこの 吽字等の密号密義を知らば すなわち正遍知者と名づく。 いわゆる初発心のときに便ち正覚を成じ、 大法輪を転ずる等は まことにこの究竟の実義を知るによって なり。●この一字をもって 三乗の人の因・行・果を摂するに ことごとく摂して余なし、および 顕教一乗・秘密一乗の因行果等准じて これを知れ。●この一字をもって、 通じて諸経論等に明かすところの 理を摂することを明かさば、しばらく 『大日経』および『金剛頂経』に 明かすところ、みなこの 『菩提心』を因とし 『大悲』を根とし、 『方便』を究竟となすの 三句に過ぎず。 もし広を摂して略につき、 末を摂して本に帰すれば、 すなわち一切の教義この三句に過ぎず。 この三句を束ねて もって一の『吽』となす。 広すれども乱れず、略すれども漏れず。 これすなわち如来不思議の力、 法然加持のなすところなり。 千経万論といえどもまた この三句一字を出ず。~~~~~~~~~~~~~~~~~~と残されていることからの考察です。最後の引用にある「三句」についてですが・菩提心・大悲・方便というものでこの世界を理解するうえでの究極の概念と言えます。詳細は長くなるので省きますが多分瞑想を極めようとすればこの三句の概念こそがその到達点とも言えるのでしょうそしてそれら三句の概念を束ねるのが吽(うん)という音靈であるということ・・この「吽(うん)」を含む阿吽の呼吸は密教の真髄とも言えどうもその真髄の一部は武道や修験道に継承されておりその片鱗はあちこちに残されているようです。わたしは個人的にそれらのカケラを寄せ集めて考察しているのですが・・◆密教の身口意の三密アウンの呼吸法・・技法身口意の三密・・・観念(概念)のような関係性と思われます。アウンの呼吸法は武道の流派あるいは密教の流派でもそれぞれやり方の違いはあると思われますが大まかにア・・息を吸うウ・・息を吐く(細く長く)ン・・息を止めるというプロセスかと思われます。これはア・・始まり(誕生)ウ・・生きる(人生)ン・・終わり(死)という人生のプロセスの相似形でもありますが個人的な考察ではさらにア・・・始まり(誕生)ウ・・・生きる(人生)ン・・・終わり(死)ヴア・・ムスビ(新生)という第四のプロセスが隠れていると考えております。これは神道でいうところの産土(ウブスナ)の原理との関連です。◆産土(ウブスナ)の法則ヒトは産まれ~生きて~死を迎えますがそれは一過性のものではなく転生(繰り返す)という法則のもと生~死というワンプロセスの終了後必ずムスビという現象が起こりそして新生するいわば・・ 一旦区切りをつけて 総括したうえで 次に進む そして生~死を繰り返すという世界観です。つまりア~ウ~ンでは終わらない次なる新生(再生)のための「ヴア」がある・・なぜ「ヴア」なのかというとヒトをビックリさせるときの掛け声は一般的には「ワッ!」ですがそれは「wA!」と「vA!」の中間音「v wA!」であり「ヴア!」はビックリさせる方もビックリする方も共に「ヴア!」でリセットするからなのです。これは・・言霊としても面白く神がヒトをこの世界に誕生させるその刹那「ヴア!」と声を掛けその掛け声に反応してヒトが「ヴア!」と目を覚ます(誕生)つまり現実世界に現象化する瞬間の音靈神とヒトが交わる刹那の「交点」神とヒトとの融合点とも言えるかもしれません。この観念は「九字」の結び(ムスビ)につながると思われますがその考察は次回改めて・・「アウン」を別の見方から観るとア・・物質界ウ・・意識界ン・・無意識界という三つの概念(世界観)となりそれらを「ヴア」で結び新たな生を産み出すという感じでしょうか。アウンの呼吸は武道その他ミチを極めようとする際の精神鍛錬に有効でありますがそれだけでは勿体なく 呼吸の動き(身) 言霊(口) 観念概念(意)が結びつくことで新たな生(新たな展開)を産み出す産土(うぶすな)の技法が秘められていると思われるのです。この身口意のムスビこそ物事や状況が行き詰まったときに新たなミチ新たな突破口を開くあるいはそれに気づく(気づかされる)妙法なのではないだろうか・・ということなのです。異なる身口意あるいは異なる三つの世界観(概念)のムスビにより新たな創造が始まるという実に神秘的な技法でもある訳です。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。密教や神道に深く惹かれるものを感じメンタル改善のために瞑想を行いながら神秘的な領域を個人的に探究しております。◆瞑想がなぜ必要なのか?ここ2か月ほどの実体験ですが個人的に阿吽(アウン)の呼吸法というものを探究している最中なのですがその中で「なぜ瞑想が必要なのか?」という問いへの回答のようなモノを感じることが何度もありました。◆幽界消失の影響と瞑想の必要性神道では現象化・物質化していくプロセスを「神幽現」あるいは「靈心体」という表現で言い表すことがあります。これは神界⇒幽界⇒現象界の順番に物質化していくあるいは霊界⇒心界⇒現象界(体)の順番に物質化していくという意味です。ですからいまこの瞬間に目の前で起きている現象はすべて神界で起きたことが幽界に反映し、そのあと現界に反映している結果である。あるいは霊界で起きたことが心界に反映し、そのあと物質化した結果という意味です。この概念はとても興味深くヒトの心に表出してくる認識、感情、意識はすでにその前の次元である神界・霊界・幽界で「既に起きていたコトの反映」に過ぎないという世界観です。一方、スピリチュアル系ではここ数十年(?)の間で「幽界が消失している」という説があります。元々我々が生きているこの現実世界は地球上で二元的意識の中での「体験」をするために地上に繰り返し輪廻再生するシステムとして構築されたものでありヒトはそのシステムの内側で際限なく(?)再生を繰り返してきていると言われております。ただ・・それが何らかの理由でそのシステム自体が解体され始めておりその一環として幽界が消失したということのようです。そのためにそれまで存在していたシステム即ち ヒトは死して幽界に入り 幽界で生前生じた執着囚われに 「気づく」猶予が与えられたのちに 霊界へ移動し 次の輪廻再生へと向かうというプロセスの一部が崩壊しているということなのです。これはとても大きな変化であり地球上への輪廻再生を前提とするシステム自体が解体されヒトは他の宇宙存在と同様他の異世界への転生が可能になっているという意味合いでもある訳です。ただ・・長期(何十万年?)にわたる人類輪廻転生システムの急激な変化にヒト(意識体)は対応できず習気(習慣・習性・慣性)としてまだシステムが在ると想い込んでいる。そのため「幽界でのステップが無い!」ことにパニックが巻き起こっている。見えない世界で・・いわば死者の思念=「残留思念体」の錯乱的な波動が満ち溢れておりそれが現象界で生きている私たちに精神的・肉体的・現象的に影響を与え続けている・・いわば 訳が分からない状況が生じやすくなっているということだと思われます。ここで問題なのは幽界が無くなったがゆえに幽界⇔現界心界⇔肉界(物質界)というプロセスの一部が寸断されているというところです。それを補うためにはどうしてもヒト自らが幽界あるいは心界を 自分の内面に構築し直す必要があるそれも絶えず・・つまり 瞑想を習慣化し より内観を深め 寸断されたプロセスを 瞑想により 新たに構築し直す必要があるということなのです。そうしていかないと前述の通りこの世界は既に残留思念体の生前の執着や囚われといった波動に満ち溢れているためその影響を受けて 著しく反応的・衝動的・刹那的に 成りやすくなってしまうという考察です。ヒトは反応的・刹那的・衝動的になっているとき自分の内面奥から噴き出してくるモノいわば 激しい喉の渇きに似た 求めて止まぬ渇望(=タンハー)に 押し流されている状態に在ると思われます。ですがそれは・・そのヒト自身の固有の想い(タンハー)というよりもそこかしこに溢れて出ている 死者の強い情念波が 現界で生きているヒトと 波長波動が同期した瞬間に そのヒトを経由中継して 表に現れてきている 表出している現象であるということなのです。ですので・・残留思念体の情念波に同期しそうになったら切り替えるあるいは同期したとしても瞬時に切り換えるその術(方法)を身に付けておく必要があるということ。その方法が(個人的見解ですが)瞑想の中とくに✡阿吽(アウン)の呼吸を主とする瞑想そして✡ムスビ(結び)の型としての九字に在ると思われるのです。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。私たちの日常は絶えず刺激に対する反応をし続けています。それは意識下の無意識領域に大きく依存しています。それは感覚の世界でありもっと断片的で刹那的な世界であり同時に全体的であり永続的な世界でもあります。例えば…映画を観ていて深く感動するシーンがあったとします。そのシーンの映像美音楽登場人物の切ない想い淡い恋心ミチを開こうとする激情どうにもならない苦しみを受け容れようとする心境・・そこに日常生活から離れた深く琴線に触れる「何か」を感じたとします。そして「その感動を味わうために」何度もその映画を観てしまう。あるいはそのシーンを何度も繰り返し繰り返し見続けてしまう…ヒトは過去の思い出を回想するときそれが楽しいことであったり悲しいことであったりあるいは辛いことであたりする。そしてそのときの感情をありありと感じる。とくに夢の中で観る回想シーンは臨場感もありその時その場に居る感覚が在る。そしてそれが夢の中に居ることに気づいていない。気づくのは目が覚めたあと。つまり…「いま ここ」に戻ったその瞬間(刹那)である。ですから…ヒトは絶えず琴線に触れる感動を求めておりそれは夢の中であろうとも現実の日常の中であろうともあるいは映画やアニメバーチャル(仮想世界)のゲームの中であろうとも同じことなのです。ひょっとしたら…自分はその深い感動の瞬間琴線に触れるその想いの刹那を味わうためにこの世界に生まれてきたのかもしれない。その意味ではそれは瞬間であり刹那であるけれども意識下では繰り返し繰り返し味わいたい喜びであり悲しみであり苦しみでもある。そして…味わったのち満たされそれを求め続けるタンハー(渇望)が収束していく。それはヒトの中に内在していたタンハー(渇望エネルギー)が開放された瞬間であり何度も味わいたいと感じるのはもっと深く味わい尽くしたいというタンハーの現れに他ならない。例えば…賭け事を繰り返し繰り返し行い続けること。それは一時いっときの刹那の快感を味わうためでありヒトに対して対立心を持ち高圧的な態度でやり込めようと繰り返し繰り返し行い続けるとき。それは一時いっときの刹那の快感を味わうためである。自分が繰り返し繰り返し行い続けてきた習慣には特にそれが顕著でありなかなか自分では気づかない。自分以外のヒトに指摘されても頭では分かっていても実際には「気づく」機会が巡ってくるまではタンハーがある程度解消される時が来るまでは「分からない」し「理屈抜き」に習慣(習気)として永続していまう。つまり…状況的な 正否 常識非常識 善悪とは無関係にただそれを味わいたいがゆえにそうなっている。それを繰り返している。そして…その夢の中から目覚めたその瞬間その刹那「気づき」そしてタンハーから開放される。ここで問題なのはいかにタンハーが表出する前にタンハーが発露する直前にそれに気づくかということ。たとえそれがまばたきの瞬間「0.3秒前」であったとしてもその一瞬でヒトは選択することができる可能性が存在しています。繰り返しであることに気づいた刹那こそが新たな世界線を模索する可能性が開いた瞬間であるということ。そして…ヒトの意識下の無意識がワンネスボーダレスに向かっている「いま」自分の意識下に在るタンハー(渇望)は「自分」だけのモノではなく意識下で波動波長が共鳴同期したヒト(意識体)のタンハー(渇望)である可能性があるということ…ですからそれに気づくために阿吽(アウン)の呼吸法瞑想(ヨーガ)などの体感覚から深く意識下にアクセスしていく習慣を日常の中に頻度を上げていくことがとても大切なのだと実感しております。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。前の記事で 輪廻システムの消失 集合意識の崩壊などに触れてみましたが輪廻システムの消失は「地球」という境界の内側での転生システムの消失により転生が宇宙全体へボーダレスになったということでもありまた集合意識の崩壊もそれぞれの「集合意識」という境界が消失することで意識の融合・融和へ向かい始めるということでもあります。その意味で 並行世界の世界線もまたそれぞれの境界線が おぼろげ あやふやになり始めているのではないでしょうか。並行世界といのもとても興味深い概念ですが微妙に異なる世界線がそれこそ数えきれないほどに並行して存在しており近接する世界線であるほどその違いは僅少であり離れれば離れるほどその違いは大きくなっていく。そういう概念ですね。この「現実世界」が本当は仮想現実であり本質的にはゲームの世界無限に近いシュミレーション世界であるという認識は周知されつつあるようです。この「世界線」という概念の興味深いところは◯いま自分が居ると思っている世界線から 微妙に異なる近接する世界線に無意識の うちにシフトしている可能性がある◯世界線は増え続けているだけでなく 消失していく世界線もあり得るということでしょう。ヒトは意識体であるがゆえに世界線相互間のシフトも消失する世界線からの脱出も無意識のうちに行われているということなのでしょう。ただこの世界がワンネスに向かい始めている以上世界線も拡大から収斂に向かい始め世界線の数が減っていく・・というよりも並行世界同士の走波線の境界もおぼろげあやふやに成り始めておりお互いに干渉しあいながらバラけていたものが徐々に束になっていくという感じではないでしょうか。そうなると・・ヒトの意識は行ったり来たり・・激しいシフトチェンジが頻繁に行われてくるようになるのでしょう。急に人格が変わったり今までの流れが全く読めなくなったり従来の常識がいきなり通用しなくなったり。それはこの世界が実は壮大なパズルゲームそのものであり「ゲームの主催者」が最後まで目的目標に到達するためにありとあらゆるパターン(世界線)を長い長い期間をかけてあらかじめ準備してきたものでありいよいよ大詰めを迎えるにあたりあらゆる世界線の組合せを微妙にしかも瞬時に切り換えながら「物語」を進めているみたいな感じでしょうか。感覚的なものですが。それは当然ヒトの意識では認知しきれない領域でしょう。ですがパズルの答えはただひとつ。多くの世界線を巧みに組み合わせながらそして、あたかも連続しているかのような錯覚を起こさせながら物語を完結まで進めていくことになるのでしょう。この物語の進行をわたしたちヒトがいる「内側」からではなく主宰者がいる「外側」から眺めるような視点で観察していきたいものです。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。これは特に特定の信仰団体の批判や批評ではないのですがたとえば・・その団体の教えを実践することで病気・貧困・争い・災害が解消すると言われているのに上級幹部と言われる方々であっても不治の病になった実例も事故死した実例もありますしまたその団体自体が分派した団体と争いを起こしたり・・まあよくある話しだとは思いますが表と裏は異なるということなのでしょう。信仰はいわばそのヒトの中に在るものでありそれを他人がどうのこうのと批評したり決めつけたりするものではないということなのでしょう。集合意識がヒトの意識に影響を与えているということはスピ系では常識になっておりますがとても興味深いテーマであると感じております。信仰団体もまた同一の教義(価値観)や修養(実践経験)を通じて何万、何十万というヒトが固有の集合意識を醸成していると思われます。ですからその集合意識にリンクしやすくなり同一の目的・方向性を持つことで同一の価値観・判断基準を共有しその結果良いことも悪いことも「おかげ」「御守護」「鍛え」「ミソギ」となりすべてが学びとして受け容れられ更に教えの実践に挺身していくということなのでしょう。つまるところ・・「何でも在り」「すべてが仕組み」「理屈ではない」なのですね。これは決して揶揄している訳ではなく信仰は ヒトが二元的意識を超えていくための 方便として在るという見方もあると思われます。信仰だけでなく家族や仲間企業やコミュニティ民族や国家それぞれのククリの中で醸成されている大小さまざまな集合意識がヒトの選択・意思決定に大きな影響を与えているとも言えるのではないでしょうか。集合意識が意識(思念)として集合体を形成するきっかけは先駆的な価値観・気づきのあるヒトの従来にない斬新な発想が起点・核となりヒトの意識が集まり始め太陽の周りを周回する惑星群のように集合意識が成長し始めていきます。成長の過程で分裂したりぶつかり合ったり結合し合ったりとまるで細胞の如く活動していきます。そして必ず何らかの目的・目標が在るということ・・ですからその目的・目標を達成するためにはどうしても良し悪し是か否か正か誤か善か邪かという二元的意識が必要となります。そうでなければ何もしないし何も起こりませんので。ただ・・ここ十年ほどでどうもその集合意識自体が崩壊し始めているような感覚が・・妄想的考察ですが。◆幽界の消失と集合意識の崩壊!?ヒトの意思決定や価値判断基準は意識下で集合意識の影響を強く受けている即ち常時 集合意識とリンクしていると思われます。ですが・・スピ系ではさらに~~~~~~~~~~~~ヒトの深層意識にあった「輪廻システム」即ち地球上に繰り返し転生させ続けるための「シバリ」となっていたシステム自体が数十年前にすでに崩壊しておりヒトは死後他の惑星・異世界への転生が可能となっている。にもかかわらずまだ何十万年、何百万年と続いてきたシステムの残骸(習気)がヒトを地上に繰り返し転生させ続けている。ただ輪廻システムの崩壊は即ち死後~再び地球上への転生までの猶予であった「幽界の消失」でもあるためヒトの深層意識のレベルでは大きな混乱が生じている。~~~~~~~~~~~~と言われております。そのためヒトは無意識レベルで集合意識への依存を強めより集合意識同士の対立意識・支配服従意識が激化しそれが現象レベルで激しい争いとなって現れている。ヒトは表層意識レベルで表出してくるタンハー(渇望・衝動)を倫理・社会規範・常識・同調圧力・法律で何とか抑制を試みているが抑えが利かなくなった所(地域)や集団あるいは個人から激しい衝動・反射的反応となって表出してくる。ちょうどマグマが活火山から噴出してくるように。更に深刻(?)なのはヒト(意識体)にとっての最後の拠り所である集合意識自体が加速度的に崩壊し始めているということ。そのため更に渇望・衝動的欲求が強くなりより反応的な行動に出やすくなってしまう。表層意識では制御しきれないほどに。いわゆる従来、大多数のヒトが信じてきた「常識」が崩壊し「何を信じたら良いか さっぱり分からない」となり意識下が絶えず「ザワザワとざわついている精神状態」となっていく・・それが刹那的な衝動につながり「分かっているけど止められない」「分かっているけどどうにもならない」となりタンハー(渇望感)が開放され放念されつくすまで衝動的欲求のままに動いてしまう・・その意図するところはこれからは大多数のヒトが依存してきた集合意識に精神の拠り所を求めるのではなく別のモノ別のミチにシフトして行かざるを得なく仕向けているということでありそのためには個人的見解ですが多分 二元的意識に分岐する前の意識下の 一元的意識との接続を いかに頻度多く増やしていくかにかかっていると思っております。いわゆる瞑想(ヨーガ・禅)ですね。それは意識と無意識を結ぶ「神経回路」を新たにつなぐ作業であり左脳と右脳脳と腹(丹田)を結ぶということでもあると思われます。一日のうちにたとえ数分でも数秒であっても目をつむり深い呼吸とともに印を組み丹田に意識を置き意識下の一元的意識に触れる時をいかに多く頻度をあげていくか。それがカギとなっていくのではないでしょうか。
つたないブログをご訪問頂き真にありがとうございます。20年ぶりに映画「2001年宇宙の旅」を観てみました。57年前の1968年公開です。その映像美、音楽もすばらしいのですが・科学技術の進歩・人類の進化・人口知能・地球外生命体との接触など多岐にわたるそして極めて興味深いテーマが未来人類に向けて投げかけられたような映画です。受け取るヒトにより千差万別の解釈ができると思われますがいま私たちが直面しつつある・宇宙レベルの次元上昇・AI化(電脳化)というのは肉体・精神の両面での同時進行でありこの映画は57年前にそれを予言していたように感じられます。この映画ではヒトの科学技術水準が地球外への宇宙間移動可能なレベルに達した時点で地球外生命体にシグナルが送られ木星に訪れた主人公が「進化システム」に沿って宇宙存在へと進化しスターチャイルドとして新生し地球の行く末を見守っていくという流れなのですがそこには明確に・ヒトは地球上の生命体から 宇宙的存在へ進化していく・それは多くの宇宙的存在もまた 同様の道筋をたどってきている。 というメッセージが込められております。多くの予言はヒトの滅亡とヒトの進化の片方かあるいは両方を示しておりますがヒト種がいなくなり宇宙種へと切り替わるという意味では滅亡も進化も双方同時に進行していくということになるのでしょう。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。これからの世界は 一体、どうなっていくのでしょうか?表面的には世界的な経済戦争や政治的駆け引きの応酬が激しく行われています。国内的には多くのヒトの気を引かせるようなゴシップ情報が刺激を与え続けて刺激に対する反応を無理やり引き出させようとしているような・・その陰で・・ヒトの周りでは様々な変化が生じているのでは?。宇宙線や太陽フレアの増大地磁気の変化はヒトへ直接的な影響を与えつつ人体の変容を促している。電子化による生活環境の変化例えばスマホは電脳化の布石でありヒトの意識を電子界へ急速にシフトさせるための初歩段階。アニメやVRゲームは30代位までの若者に深く浸透しまさに今までの空気界を主とする意識からデジタルをベースとする無気界への意識シフトのスピードを加速させていく。(多分・・それに順応できない世代は 言わずもがなですが・・)サラリーマンは電子化により仕事現場でも現実に事務的・作業的業務の急激な変化を求められており従来のような知識・ノウハウの蓄積は電子化へ向かってデータベース化され続け効率的・能率的が能力評価の基準ではなくなる時代が到来している。多分数年内には以前で回っていたVRゴーグルのようなシステムがもっとバージョンアップして市場に出回るようになるのでしょう。様々な情報を入手でき同時に発信もできるそれを音声入力や文字入力ではなく思念(思考)により可能にしまた通信速度も現在市場に在るインフラの数倍の速さになり瞬時にレスポンスが可能となるようなシステムが現れてくるのでしょう。ただ・・その頃にはヒトの脳(意識)の在り方自体がもっと大きく変容していると思われます。ヒトの肉体と意識が変容し始め同時に脳の電脳化ヒトの肉体の電子化が進行していく。その急激な変化変容は受容できる準備ができたヒトから始まりいわばサナギからチョウへと変容していくような劇的な変化となるのでしょう。ヒトラーがかつて人類は別のモノに変化し従来の人類は地上からいなくなるという主旨の予言を残しておりますがその渦中に私たちは足を踏み入れているということなのでしょう。変容への恐怖や不安による拒絶をなるべく和らげ段階的に順序立てて粛々と進んでいく。ヒトの意識は今までのような現実的 断片的 部分的なものから幻想的 包括的 全体的なものへと徐々にシフトし始めている。その意味ではいま世間を賑わせているニュースもある意味昨日より今日今日より明日と日一日と変容し続けている事実をカモフラージュしているのではないだろうか。ほとんどハリボテのような世界・・ですが。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。これは私の個人的な経験なので一般的なものかは分からないのですが長年、私を悩ませてきた 反応的な被害者意識や強迫観念が 和らいでいく感覚を体感できるようになってきたので今の時点でのキロクとして記してみたいと思います。◆自分の頭の中で起こっていたこと・・長年といいましたが反応的な被害者意識・強迫観念を感じ始めたのは思い返してみると中学生頃から始まっており実に50年にもわたるもので私の人生の最大の課題テーマとも言えます。小学校時代から同級生たちと会話が続かず何を話したらいいか分からない状態で特に休み時間や自由時間はひとりでいることがほとんどでした。いわゆる雑談ができないし苦手でした。ヒトに話すときはあらかじめ何を話すかを決めておいてから話しかけていました。話しかけられるとすぐに反応できずほんの一瞬の感覚的なものですが 何を言われたか 何をしようとしているのか その意図や状況把握が瞬時にできないそういう資質を持っていることに無意識的に気づいておりました。この資質が大元の原因でした。これが分かるまでに50年かかった訳です。元々 頭の中は思考が止まっているような感覚で外部からの刺激(会話など)内面的に発生するトラウマや被害者意識社会的環境的な常識やルール規範などで 思考を動かしている正確には 動かされているといった感覚なのです。また会話のやりとりが続くときその会話の内容が途中で把握しきれなくなりパニック状態になり、いわゆる半ギレ状態になったりすることがよくあります。自分が反応しきれないことに腹を立てて逆切れしてしまう訳です。このあたりもとても特徴的なところなのです。他にも・時間の観念が希薄・空間把握が苦手で方向感覚がない・定型的な作業は注意力が持続できない・すぐに他の事に気が向いてしまう・いっぺんに多くの事を把握しようと してしまい、混乱しやすい・短期的な記憶力が弱く 物忘れしやすい・会話のやりとりですぐに反応できない。・面倒や苦手を感じたものを先延ばしに するなど、いわゆるADHD気質満載です。ですから・・わたしの人生はADHDとともにあったと言っても過言ではありません。もし、この気質がなかったらもっと外向きの生き方ができただろうなどと思ってしまいます。つまり・・「頭の中は思考が止まった状態」なのです。何も動いていない。そのため外からの刺激に適切なタイミングで対応できず人間関係(コミュニケーション)上の齟齬食い違いから2次的にメンタル不全となり被害者意識 強迫観念が極度に強くなりそれがモトとなりウツ症状に陥ってしまったという訳です。この認識というか解釈が正しいかどうかは分かりませんがわたし個人の内的感覚でお伝えしております。前述で 何を言われたか 何をしようとしているのか その意図や状況把握が瞬時にできないそういう資質を持っていることに無意識的に気づいておりました。と記しましたがまさにそれは自分では自覚しておりそのハンディを埋めるために「表面上の自分」を演じいかに自分は優れているか的な演出することに注力し続けてきました。これがわたしの内面を二分化させる原因となってしまいました。◆ウツ状態の発生いわば社会で生きていくために無意識のうちに思考の基準 よりどころを求めて極端な二極分化思考になっていきました。・劣等感か/優越感か・劣っているか/優れているか・ルールや規範を 破っているか/守っているか・正しいやり方か/間違ったやり方か・✕か/◯か・陰気か/陽気か・悪く想われているか/良く想われているかそうなると物事の本質を深く考察することもできず表面的な二極的判断のみに振り回され続けそれがさらに過去のネガティブ経験や未来の不安予測を増長させる妄想のループが始まり極度のウツ状態に陥りました。そしてウツ状態から脱却するためにメンタルトレーナーと高額な契約をしてしまったり、仏教系の瞑想の指導者の方から瞑想の基礎を学んだりと紆余曲折ありましたがその後は個人的にその方法を模索探究し続けて来たというところです。この強いウツ状態は4年ほど続きましたがようやく最近出口に差し掛かってきたという感じです。◆根本原因である 「刺激に対する反応の仕方」 を工夫していくこと ここからは わたしの実体験からくるごく個人的な考察なのでとくに科学的根拠のあるものではありません。前述したようにADHD気質の私個人の頭の中はどうも元々思考が停止している状態で何も刺激がなければずーっとぼーっとし続けている状態なのです。縄文時代や古代文明の頃ならばいざ知らず凄まじい「刺激と反応の応酬」の中にいる現代では「思考停止状態」は危険であり強制的に思考させられる状況に追い込まれる訳です。刺激と反応の応酬がなければ物事は進まないですからそれは仕方がないのですが一番問題なのは「無理やり思考を動かそうとする刺激に 過度に反応してしまうその波動」ということなのです。これは瞑想を通じて多少なりとも内観が深まってきたためか外部からの刺激に対する自分の反応の初動の瞬間を感じられるようになりその初動時の反応の仕方が過度に反応し過ぎているということに気づいたためです。ほとんど瞬間的で時間にすれば0.3秒くらいでしょうか。そしてその初動時の極端な反応は呼吸法により やわらげることができる。その間 2秒程度というところでしょうか。体感なので正確には分からないのですがまた、今後、呼吸法の習熟度合でこの時間は変化していくかもしれません。この「初動時の極端な反応」というのは、別の表現をすれば風ひとつ吹いていない湖の静かな湖面に「ポ~ン」と石をひとつ投げ入れるとその波紋が大きく拡がっていく・・そして大きな石であったり、投げ込まれるスピードが速いとより大きく深い波紋が広がって行く。それと相似象ということ・・現象としては 知覚過多 認識過多 思考過多が生じプチパニック的な状態と言えるでしょう。ですがそのあと何もなければ、その波紋はだんだんと鎮まり消滅していきます。この状態を別に例えていうならば禅のお坊さんが瞑想に入り切っているとき殆ど「ム」の境地にあり脳波も深い領域の波動(ゆっくりとした長い波長)になっていますが物音が聞こえたり体に何かが触れたりすると脳波はすぐに乱れ浅い領域の波動(はやく短い波動)に変化します。ですが禅のお坊さんは修行を積まれていますので次の瞬間また元の深い領域の波動に戻ります。これは「そうしようと思ってしている」のではなく「そうなる」のです。例えが長くなりましたがADHD気質の私の頭の中も同様で元々、思考がないベースにあるため外部から刺激(石)を受ければその瞬間反応(波紋)が生じる訳ですが「何もしなければ」反応(波紋)は次の瞬間から自然に鎮まっていく訳です。ところがそれを阻害し、波立たせようとするのが「思考」でありその元となっているのが社会規範、一般常識、規則ルール、コミュニティ内の取り決めや民族的な忌避などになるのでしょう。というよりもそれを守らなければその範囲にいなければ「攻撃される」「痛い目に会う」という「生存本能」といってもよいでしょう。「何もしなければ」消失する波紋も生存本能に抵触する恐れを感じれば過剰に反応し波紋はさらに大きくなったり断続的に続いたりして元の深い領域の波動には戻れません。これが一番問題となる部分であると思われます。外部からの刺激そのものや自分の内面から生じる不安や恐怖心が原因なのではなく「過剰に反応するその瞬間」 が問題なのです。その瞬間の「いま」をとらえ呼吸を吐きながら「過剰反応をただ観察する」という状態を保てれば波紋(反応)は消失していきます。繰り返しますがわたしの個人的感覚では刺激(石が投げ込まれた瞬間)に対する初動の反応(波紋が生じる瞬間)は約0.3秒間次の反応(波紋が広がろうとする)を鎮める方向へ誘導できる時間は約2秒間という感じです。それは例えば「ワッ」と驚かされた瞬間の反応が0.3秒後その驚きの反応(乱れた波動)は広がり始めますが呼吸を吐き始めてから2秒以内に呼吸の体感覚に意識が入れば反応は鎮まっていく。反応(乱れた波動)を意識し続ければ反応(波動)はそのまま広がっていく。という感じです。感覚的なものなので例えていくしかないのですが。そしてわたしが行なっているのが阿吽(アウン)の呼吸法です。刺激を受けた!と感じたら「ア~」と息を吸い 体の緊張を感じとります。次に「ウ~」と息を細く吐きながら 体の緊張がほぐれていくのを感じます。この間意識は体感覚に移動しますので乱れた波動は自然に鎮まっていきます。乱れた波動そのものをどうこうしようとするのではないというところです。この初動の呼吸こそが波紋を それ以上拡げず自然消失させていく入口になると感じております。以上が私の実体験の一部を文字化した内容であります。アウンの呼吸はとても深いもののようでして「ア」~「ウ」のあとの「ン」にこそより深い瞑想の真髄のようなものがあると思われます。それはまた次の段階ということになるのでしょう。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。阿吽(アウン)の呼吸法をわたしなりに過去記事でご紹介してきましたが個人的な実践経験では体感覚をいつも下腹部(丹田)に置くように意識し続けているせいか身体の内側の感覚の「重心」が丹田を中心とする部分に移り始めその影響かいままでのような焦燥感やザワザワ感が極端に軽減してきております。正確には焦燥感もザワザワ感もあるいはネガティブな被害者意識や強迫観念的な意識も在るにはあるのですが体感覚に意識が向いていくと自然と鎮まっていくそんな感覚です。わたしの場合ア~(吸う)緊張ウ~(吐く)弛緩ン~(止息)瞑目を繰り返していると自然と感覚が下に落ちていく感じです。ア~(吸う)のときノドから上には意識を置かないようにして肺に空気をいれず下腹に空気をいれて丹田を少し圧迫する感じウ~(吐く)のとき丹田を少し圧迫する感覚を維持しながら8分目程度吐いたところでン~(止息)のとき丹田に入る(潜る)ような感覚それを繰り返し続けています。オリジナルな方法ですが歩いているとき電車の中で立っているとき会社のデスクで仕事をしているとき自宅でゆっくりしているときのべつ間もなく気がついたときにその時々に応じて吸う~吐く~止息のリズムや長さを変えながら行っています。但し息苦しくならないようにムリなくしています。とくに止息は長めに行うことでより丹田感覚を意識できるようになってきました。ある方のお話しでは腸には膨大な量の細菌が存在しておりそして「菌」は宇宙と繋がっているということらしいのです。概ねですがスピ系カウンセラーの方々や武道やそのミチの達人と言われる方々あるいはヨーガや瞑想の指導者の方々は呼吸法と共に丹田への意識の置き方を重要視されているように見受けられます。以前、だいぶ前になりますがチャクラに興味を持ちとくにアジナーチャクラ(眉間奥)を意識しようとしてそれに凝っていた頃がありますが今だから言えることですがこれはメンタル不全の真っただ中にあった頃のわたしにとっては非常に良くなかったと感じております。逆効果だったのです。やはり、いまのように丹田に感覚を常に置けるような呼吸法が自分に合っていると感じます。わたし自身の個人的な実践体験からでした。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。私たちの日々の選択は「今日の昼食は何を食べようか?」的な日常の些細なことから「上司から求められている後輩の育成計画は、どう組み立てていこうか?」的な仕事上の課題などを未来に向けてどうしようか?から始まりいくつもある可能性=選択肢の中から選んでいる訳ですね。可能性を摸索したり想い描いたり思い込んだり・・その結果直感や偶然が重なり新たな展開が開いたりする。だが実はそうせざるを得なくなりそう成っただけなのではないだろうか?選択肢がいくつもある無限の可能性があるワクワクするというのは実は幻想であり真実は唯一無二の一択である・・・常識的にはヒトは自ら思考し 選択し 行動している。でもよくよく観察してみるとそのほとんどは周りからの刺激あるいは内面的な肉体的精神的欲求に対して「反応しているに過ぎない」ことに気づいてしまいます。もう少し言うと刺激や欲求に対して何らかの反応をするために過去の経験や社会規範 常識 ルールや見えざる同調圧力など既に在るものの範囲で選択肢を模索し選んで行動している・・・のですが実はそれは意識上の「判断」をする前「0.3秒前」にすでに決定していたことが意識上に展開しているに過ぎないと言われています。自分がそう判断しているように見えているに過ぎない。ここが極めて面白いところですね。これは屁理屈ではなく非現実的なことでもなく紛れもない真実であると言うことです。そしてその選択を意識的 無意識的にも選択させるために…この0.3秒間に何かが意識下で行われておりそれはひと言でいえば「激しい摸索」「著しい試行錯誤」が繰り広げられている訳です。それは…「肉体と思念体とのぶつかり合い」「脳と腸のせめぎ合い」「左脳と右脳のシーソー的バランス」「陽と陰の交わりであり交点」であり実にその間(ハザマ)に位置するのが意識体であるワレなのだとしたら・・意識体であるワレは肉体と思念体との間を行ったり来たり脳と腸との間のシグナルを調整したり左脳と右脳のシーソーの重心を意識したり陽と陰の両面の意識を切り替えたり実に忙しい訳です。ですからこれら肉体と思念体脳と腸左脳と右脳陽と陰の間を行き来できるノウハウというか理屈抜きでのスキルを身に付けることで新たなミチが一歩一歩開いていくということではないでしょうか。そのためのノウハウ スキルが呼吸法を主体とした瞑想(ヨーガ)ではないだろうか…と確信しております。