もう人生で幾百度目か分からないけど、生きる、ということについて考える。
 
「今を生きる」というのは使い古された言葉だけど、きっとすべてはこの五文字に集約されていて、究極的にはそれしかないんだろうなと思う。
 
人はついつい、未来のことを思って計画したり今ここにはないものをねだったり、過去を思って後悔したり執着したりで、なかなかこの瞬間に存在することができない。
 
自分の人生はいつまでも続くかのような錯覚の中で、今日という一日や、今この瞬間に起きている様々な奇跡を見過ごしてしまう。
 
いま東京の梅が丘というところに滞在していて、この土地にはその名のとおりたくさんの梅が咲いている大きな公園がある。2月11日からは梅まつりというお祭りも始まる。今日その公園を歩きながら梅を眺めた。これからつぼみを咲かせようとしている梅、すでに満開の梅、白い梅や桃色の梅、いろんな梅の花が咲いていた。梅の花は今まさにこの瞬間を咲いていた。日本には春夏秋冬があって、先日立春を迎えたこの国では季節の移り変わりの時期にあって、この季節特有の美しさや気配がある。やがて三月が来て、四月が来て、桜が咲いて、桜が散る。新緑の季節がやってきて、夏の暑い日差しがやってきて、やがて海にはくらげがうようよやって来て、秋には紅葉が山を彩って、冬には雪が降る。
 
人の人生にも春夏秋冬があって、今の自分にも今の自分にしかない季節がある。この季節にしか体験し得ないこと、味わえない感情がある。きっといつか死ぬ時には、それらのすべてがかけがえがなくて、いとおしく思えるのだろうと思う。
 
にも関わらず、僕は今の自分に足りないものを手に入れようと日々必死で、収入を増やそうとか、仕事をよりうまくやってのけようとか、悪戦苦闘している。それは決してわるいことではないけれど、なんか本質外してるというか違和感があって、それはつまり今を生きていないということだと思う。
 
 
今も心臓は脈打っているということ、全身に血は流れているということ、食べた晩ご飯は五臓六腑を旅して僕の血肉になっていっているということ、僕の息子達は今頃すやすやと眠りについて無邪気な夢を見ていること、今日死んでいったたくさんの人がいること、今日生まれたたくさんの命があるということ、そうして人間も地球も宇宙も瞬間瞬間移り変わっているということ、そんな中いま僕は生きているということ。
 
 
いつまでも瑞々しく生きていたいと思う。生々しく、図々しく、高く清らかに、朗らかに生きていきたいと思う。