今日も皆様と共に一日を始められた事、心から嬉しく感謝申し上げます。

闘病中の方も求職中の方もおられると思います。

 

私はブログを始めさせていただき、神仏様、万物様に感謝のみの祈りを捧げましょう、とお伝えさせていただいておりますが、永年それを推奨し実践してきた訳ではございません。

実際は、数年前まで、神仏様を軽んじていた訳ではありませんが、特に何かをするという事はありませんでした。

生まれ育った家には仏壇はありませんでしたし、お墓を管理する役目もございませんでした。

そして離婚しておりますが、嫁いだ先も同じでした。

 

親戚の逝去や、御盆の日等に、機会に恵まれたら、葬儀に参列し、お墓参りをするといった具合でした。

書物等から成仏をしていない霊が多いことに驚愕致し、成仏をしていただきたい一心で先祖供養を始めるようになりました。

 

どの方々にも守護神や守護霊が見守っている事は事実ですが、強く守っていただきたい為に、ご先祖様を供養しておりません。

ただただ未成仏霊に成仏していただきたい気持ちです。そうでなければ永く継続する事は困難ですし、自分の為に、嫌々やっていては、その気持ちを捧げることになってしまい、しない方がマシという事になるでしょう。

 

私がこのような事を書くまでもなく、これを読まれて、当然の事と思われ、読む必要の無い方も多くおられると存じます。

 

人が人を評価したり裁く必要が無い事は既に書かせていただいております。

それは天である神が全てを裁くからです。全ての人間が裁かれている最中であるとも言えるわけですが、

僭越ながら私の小さな世界での事を少し書かせていただきます。

 

以前のブログで書かせていただきましたが、私は公立保育園の調理員として働かせていただいております。

4月に職場異動になりました。

その異動辞令は個人的には理不尽にも思えるものでした。

2020年12月26日から2021年3月28日にブログに書かせていただきました私の体験実話ストーリー〈同和(えた・えった・非人と呼ばれた人達)の妻に自殺に見せかけられて殺されそうになっていたHを私が救い離婚させた事で、私が同和の人達(近隣住民・職場の保育士・知人・見知らぬ人達)に集団ストーカーをさせられたり、殺されそうになったり、こちらに非があるように車の事故をさせられたり、職場・自宅への嫌がらせが4年以上継続している内容〉を書かせていただきました実話がございます。

職場の主任保育士も同和であり、私を貶めようとした悪業により、私が左遷されたかのように他者からは思われるような異動でもありました。

 

4月からは新しい職場で、ご一緒に働く人達も変わりました。

私の職場は常に2人です。一緒に働く方がもう1人いるわけですが、私やその方が休む時には、代替さんが来てくださる訳です。

そして代替えさんが一人では無く、2人おられます。

私は4月から新しい3人の方と知り合い、働かせていただく事になりました。

 

まだ3か月も経っておらず、毎日会っている訳ではございませんが、その方々のことを知るようになるのに多くの時間は必要無いと感じております。

3人の方の年齢は40代、50代、60代ですし、皆様子育てを経験し、人生経験も豊富な方々であられます。

しかし知識や意識の違い、それから発する言葉や行動の違いは大きな差があるものだと感じないではいられません。

 

御一人の方は、方位除けも神社でやってもらい、パワーストーンのブレスレットも身につけてはおられますが、全て・・・とは申しませんが、プライドが高く稚拙なため、自分の意に反する事は、全て周りのせいにし、悲劇のヒロインとなる言動が目立ちます。

そしてその御方は、一人っ子として育ったらしいですが、親御さんとほぼ絶縁状態であり、専業農家の家に嫁ぎましたが、土は苦手と、家業には携わっておられません。

親と絶縁し、嫁ぎ先の家業を疎かにするようでは、ご先祖様に感謝する気持ちはもとよりお線香をあげる行為も無いのだろうと感じました。

 

他の御二方は、それなりにご苦労もあるでしょうが、一人の方は、ご主人が職場の方々からお土産でいただいたパワーストーンについても、後に、合う石は良いが合わないものはしない方が良いという知識を得られ、正しい対処をされたり、

複数あるご自分のご先祖様のお墓や、嫁ぎ先の今後のお墓や仏壇をどうしていったら良いのか・・・どうする事は良くないのか・・・を今から真剣に考えておられます。

そして私が先日、もう1人の方と世間話しをしていた時ですが、私が「ご先祖様を供養する事が大切だというのは最近知ったことで・・・」と話しますと、その方は「ご先祖様を大事にしていれば、まず問題無いって言うよね」と明確に仰いました。その台詞を聞いて私は少し驚きました。

やはり、人徳のある御方は、そのようなお考えを持ち、実践しておられるのだと感銘を受けたのです。

 

ちなみに方位除けをやってもらった・・・という方は、

方位除けを家族の為にやってもらうという考えと行為は、素晴らしいものだと思いましたが、

それ以外があまり良いようではないようです。

不運続きだ・・・不運続きだ・・・と口にされますが、その全ての不運を周りの人達のせいにしておられます。

反省・内省するところが微塵も無いのが、聞いていて残念に思えました。

この方も、反省し自身を見つめる事がもう少し出来たなら、同じ状況だとしても捉え方が違ってくるのではないだろうか・・・と思え、回りくどい言い方は私は苦手ですので、率直に指摘させていただきましたが、それも後日、傷ついたと言われてしまいました。

 

私が神々様の御意思、最高神シヴァ神の化身、今は肉体を脱いでおられますが、サティア・サイババ様の御意思を聞けるようになりましたのは、ここ最近の事でございます。

御縁をいただき、著書も多く出されている、青山 圭秀(まさひで)氏が講師を務められている瞑想講座 普遍の技術Art1を受講し、マントラを賜り瞑想を始めてから私が神の声を聞こえるようになった事は今迄も少し書かせていただいております。

 

少し前、不思議な夢を観ました。

それ迄、先祖供養が大切と解かり、自宅にて短冊をたて、3本供養は毎日しておりましたが、お墓参りはあまり重要視しておりませんでした。

両親の実家の先祖代々のお墓は車で1時間程の所にあり、遠方では無いため容易に行けるのですが、本家の方々が管理してくださっておりますし、そこに、のこのこ手を合わせにいくのも、お墓の管理を監視しに行くようにも思われるのではないか?と、気が進みませんでした。

家で毎日お線香を捧げているのだから充分であるとも思っておりました。

 

しかし、その時みた夢は、どなたかのお葬式でした。

その夢を見ながら、このお葬式はどなたのお葬式なのだろうか・・・と考えている自分がおりました。

 

夢は様々あると思いますが、起きると忘れてしまったりするものも多いろ思います。

覚えていてもさほど気にしない事も多いのではと想像致します。

 

その夢を見て朝目覚めた時に、ただの夢では無いと感じました。夢の中で遺影を見たわけでも、死に顔を見たわけでも無いのですが、亡くなって1年も経っていない伯父さんの葬儀だと何故か解かりませんが、確信を持てました。

供養が足りていないのだ・・・と理解出来、お墓参りを始めなければいけない・・・と思えました。

 

実際、母方の供養は、母の兄夫婦が健在であり、母の兄は、定年しているという事もございますが、毎朝仏壇にむかい、お経を唱えておられるとの事でした。お墓参りをさせていただくと、いつも枯れていないお花が捧げられておられます。

 

父方の供養は、父の兄夫婦は他界してしまったため、家を継いでいるその息子さんご夫婦がお墓をみてくださっていますが、まだ現役で共働きという事もありますし、亡くなった同居の義母は、悪気なく「お線香をあげなくても良い」と仰っていたそうです。その方ご自身もそうされていたようです。お嫁さんの負担を少なくするという意味もあるでしょうし、お線香の煙で、部屋等が汚れるという意味があったのかもしれません。

 

しかし肉体を脱ぎ、魂になって始めて解かり、気づく事が多いのも事実です。

 

木村藤子 著書の多くの本を読ませていただきましたが、お父様が亡くなったあと、お父様の霊に、大祓詞を1000回、唱えて欲しい、と懇願され、成仏していただくために、早めにそれを実践されたと読みました。(詞や回数が本文と異なっていたらすみません。以前読ませていたきましたので記憶が曖昧なところがあるかもしれません)

 

私は夢を見た数日後、

従兄弟夫婦の本家に立ち寄らせていただき、このような夢を見たから、お墓参りを時々させていただきます、とお伝えさせていただいてから、そのようにさせていただいております。

勿論、供養が足りないようだ・・・等という事は言及致しません。

働きながらお墓を守ってくださっている事は感謝すべき事でありますし、私がしなくてはいけない事でもあるのですから、ただただ感謝しかございません。

最近はございませんが、最初そうお伝えして、お墓参りをさせていただいた時、先に亡くなった私の祖母の臭いが、お墓の場所で感じ取る事がありました。「あ~、お婆さんが、臭いで歓迎を示してくださっている・・・」そう解りました。

 

日常会話では、ご先祖様やお墓をどれだけ大切にしているか、等という会話は殆ど必要がなく、話題にも上りません。

しかし周りで人徳のある御方や人望の厚い方は、よくよく聞いてみるとご先祖様を大切にされておられるのでなないかとも思います。

 

言葉には限りがあり、私の語彙の表現も拙く申し訳ありませんが、

ご先祖様に感謝の祈りを捧げる行為は、成仏していただいていないご先祖様に成仏していただくものでもございますが、それは同時に、感謝をするという気持ちを持つという重要な自身の事に繋がり、それが自身の人生をより豊かにする事にも繋がるという事を、実践し経験から体感していただけたらと存じます。

 

男女や長男、次男、お墓が在る、無いに関わらず、人が人として行うべき行為と考えていただけたら嬉しく存じます。

 

そして何事も中道(ほどほど)で良いと、釈尊(ブッダ・シッダールタ・釈迦)は仰っておられますので、お線香やお墓参りでご自分を呪縛する必要はありません。何事もしなければいけない、と考えたり、出来なかった自分を責めてしまったり致しますと、本末転倒となり、人生を豊かにする趣旨と離れていきますので、

ほどほどに出来る範囲で、ご自分を追い込むこと無く、させていただく・・・という気持ちで出来ることが良いのではないかと存じます。

 

釈尊を書かせていただきましたところで、前回の続き、般若心経の続きを書かせていただきたく存じます。

 

いつも書かせていただいておりますが、

人は神の子(神)です。誰もがです。

人は過去生の罪・欠点を償うために肉体を何度も持ち、この世に生まれてきます。

魂は永遠であり、罪・欠点の無い魂は生まれ変わる事なく、神界へ戻れます。

罪や欠点の償いは、この世の試練や困難としてやってきて、それが罰となり贖罪となります。

それを経験し、乗り越えることで、過去生の罪がなくなり、魂が磨かれ進化し、次に生まれる時には、現生よりより良い人生となるわけです。

罪なき魂は生まれてきません。全ての人が罪人であるという意味でもあります。

試練や困難を罰として受けることは、過去生の罪がなくなりますので有難いものという事でもありますが、同時に新たな罪・欠点を作らないように努めなければなりません。善業(プラスのカルマ)は、来生善なるものとして受け取ることになりますが、悪業(マイナスのカルマ)は、来生、悪(試練や困難)として受け取る事になるからです。

それは想い一つであっても神は見過ごしません。

 

天網恢恢疎にして漏らさず(てんもうかいかいそにしてもらさず)

 

自身から発する言葉、想い、行為はどれをとっても良心(神)に基づいたものでなくては、罰を受けることになると知っていなければなりません。

 

私の職場には労働組合がございます。労働組合にはトップに委員長がいるのがどこでも普通だと思いますが、

前組合委員長は委員長でもあり、職員でもあり、御坊さんでもありました。お寺を継ぐお坊さんを兼業されておられました。

定年になり、委員長の職を辞したあと、あるセミナーで講師として招かれた事がございました。

そのセミナーの中で、次のような話を聞くことがございました。

「檀家さんたちとの集まりの中で・・・

そこで、私は、私達の前生が、韓国や北朝鮮や他の国であったかもしれないのだから・・・・」

と話されたそうです。

檀家さんの中にはそのような知識がなく、よく思えない異国を挙げられ、気分を害した方もおられたようです。

お寺と檀家さんは切り離せない存在だと想像致しますが、御坊様の知識がより多くの方々に周知されていけば、より良い世の中に変わって行くであろうに・・・と思わずにはいられませんでした。

少なくとも、素人の私がブログで発信するよりは、お寺の御坊様の御言葉のほうが、はるかに信頼されることは間違いないと思えます。

 

そして、この世の法(ルール)と天のルールは違います。

この世で罪を償ったとしても、天のルールで裁かれます。

悪業は勿論ですが、自殺(安楽死)も自分殺しの重罪になりますので、自殺をしてはいけません。

肉体を脱いでも、意識はそのままであり、自殺する前の苦しみは、肉体がある時は、肉体があるからこそ多少緩和されているのです。

肉体がなくなりますと、その苦しみは死んだあと、以前より増します。そして苦しみが増すだけでなく、自分殺しの重罪で地獄へ行くことになるのです。自殺をしても楽にはなれません。残念な事に、どんなに辛くても苦しくても、命は全うしなくては、魂を磨くことは出来ず、途中で投げ出しては、地獄から出られたとしても、来生は現生より悲惨な人生を送るという事になるのです。もう少し言えば、同じような苦しみの人生となり、再度、途中で人生を逃げ出すのか、神に試される・・・事になるのです。

 

前置きが長くなり申し訳ございませんが

前回からの般若心経(はんにゃしんきょう)の続きを、皆様とご一緒に見ていきたく存じます。

 

以前の文章を少し説明のため、書かせていただきますと、

 

通力は行(ぎょう)によって自然と開花していきます。

しかし、通力がなくても良いのです。通力は悟りの物差しではありません。なまじの部分通力を得たりしますと、それに偏してもっと大きなめざめを遅らせることがあるでしょう。

堅い信念と道理と神理の体験を重ね、慈悲のある生活をつづけていく者は、やがて神に近づき、その体験から神理を体得し、智慧の泉に到達すれば、慈悲の心も自然と備わってくるのです。

つまり、仏の境地です。

 

昔、このような方がおられました。その方は、仏教信者の方でした。

従業員が7-8人いる食堂を経営されている方でしたが、信ずる心に従って機会あるごとに布施をしていったため、店は潰れ、とうとう夫婦で、ある会社の療養所に勤めることになりました。やがてこの方は癌に侵され、あと1-2カ月の命の時でも至極元気で、その時の心境を話してくれました。

「私は信ずることをしてきたので悔いはありません。何億とあった財産をみな喜捨(きしゃ)してしまいました。

喜捨した先の仏はニセ物であったが、それでも悔いはない。私は仏を信じているので、相手がニセ物であってもいいのです」

 

この話は、ほのぼのとさせるものでした。今の世にもまだ布施波羅蜜(ふせはらみつ)の心境を持ったかくれた人がいたことを、知る時でした。普通はこうはいきません。相手がニセ物とわかると心が乱れ、くやしさと怒りに燃え、餓鬼(がき)に走るか、修羅(しゅら)になるか、愚痴の虜(とりこ)になるものです。

この方は神理や道理をあまり知りませんでしたが、知らなくても行為で知っておられました。信ずる心は群を抜き、すでに安心の境地に迫っていたのです。

 

「行深(ぎょうじん)」の布施行はかくあるものと思いますが、神理を知ることによって、信の心はより深味を増してきます。

諦観(ていかん)の境地に達した人はおだやかな心境となり、変なクセはなくなっています。

正道は神を信じますから、ややもすると孤独者になってしまう仏教者と異なって、安心の輪は広がり、行深(ぎょうじん)の実も上がってくるのです。

 

【意味】餓鬼(がき)・・・仏教の世界観である六道において、餓鬼道におちた亡者(もうじゃ)

【意味】修羅(しゅら)・・・仏教の六道の一つ。修羅道。争いの世界とされる。

【意味】布施波羅蜜(ふせはらみつ)・・・彼岸(ひがん)に到達する六つの心の在り方、すなわち「六波羅蜜(ろくはらみつ)は、「六つの完成」とも呼ばれ、可能な限り最良の方法で他者を助けることを可能にしてくれる心の状態です。

六波羅蜜は、怠惰や怒りといった目的の達成を阻む主な障害とは、正反対に作用しすべての人に役立つものです。

これが完全なものになったとき、私達を解脱へと導いてくれます。

六波羅蜜には布施波羅蜜・持戒波羅蜜・忍辱波羅蜜・精進波羅蜜・禅定波羅蜜・般若(智慧)波羅蜜があり、布施波羅蜜は、他者が必要とするものを何でも惜しみなく施すという心のあり方です。

貧乏それ自体を美徳であるかのように全てを他者に与えるという宗教も見られますが、そういう意味ではありません。ためらわずに迷うことなく進んで与えるという意味です。

美しい夕日をみたら、皆がその夕日を楽しむことができますようにと願うことも布施になり得ます。

しかし誰かの役に立つ物を持っていて、その人が必要としているのであれば、与えることを想像しているだけではいけません。実際に与えるのです。

共に食べ、共に飢える。という意味。

 

【意味】行深・・・深く行ずること

【意味】諦観・・・本質を明らかに見て取ること。

 

次に、「波羅蜜多(はらみた)」についてみてみましょう。

これはどういう事かといいますと、彼岸(ひがん)に至る、またはそれへの菩薩行を指します。菩薩行は彼岸に渡った者の行為ですから、彼岸に渡る前ではおかしいと言えば、いえますが、しかし、無私の行為がないと彼岸に渡れないので、渡る以前の行為も菩薩行となります。

 

まず、彼岸についてみます。

彼岸は、宇宙的広さと自由と安心と智慧を伴った宝の山を指します。

宝の山ですから必要なものは与えられる。

アレコレ考えなくとも、神の光は不思議を与えてくれます。

したがって、この世のある者がここに達すると、その価値観なり、物差しは、この世とあの世に通じる神の光にそうようになり、物事の黒白、上下にとらわれなくなってくるでしょう。この点が大いに違ってきます。

 

仏教は、彼岸を指して涅槃(ねはん)と言っています。

涅槃(ねはん)とは無為(むい)、無作(むさく)、無生(むしょう)であるといい、わかったようなわからない言葉で説明しようとします。

もしこれが本当とすると、人は生きている間は涅槃に入れません。

夜、寝ている時しか、この心境になれません。

なれないものを、どうして無理にそうあるべきというのでしょう。

 

さらにまた三宝印(さんぽういん)といって、

「諸行無常(しょぎょうむじょう)、諸法無我(しょほうむが)、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」の体得が彼岸の悟りとします。

これもわかったようでよくわからない。

もともと三宝印(さんぽういん)の底に流れるものは「無」の思想ですから、物事が「無」であれば難しい言葉を使う必要は無いでしょう。

悟りとは、なにも「無い」ことを知ることなりとすれば良いからです。

 

彼岸については、これとは違った説もあります。それは極楽浄土です。

阿弥陀如来のいるあの世で、キリスト教の天国にも似た世界とも受け取られています。

かつてのエジプト人が、インド人が望んだ世界にも通じているようでもあります。

阿弥陀はアミダと読むので、この名はかつてのアメン神(エジプトの神)の別名とみられ、さらに進んでアメンはアーメンという言葉につながるので、キリストとみる人もいたようです。

極楽とか天国といわれる世界は広く大きく、西方同居土(さいほうどうきょど)(多くの天使や菩薩、または地上で善行を積んだ人間が雑居する楽土)といわれるところから、二つは一つとみられているかもしれません。

 

ともあれ、無為、無作の涅槃を彼岸とするものよりは、この方が具体的でわかり易い。

そこで涅槃とは心境を指し、極楽浄土はその心境を持った霊人が集まる世界といえば理解できるでしょう。もともと極楽浄土は釈迦の口から出たものであり、また涅槃の心も同じ口から出たものですから、両者はまったく別のものでは無いことは明らかでしょう。

あの世などというものは、無いと思うのは間違いです。

 

ところで、釈迦は涅槃に入るとき、北を枕に西向きで横になり、眠るように昇天されました。

したがって、西方に向かって目を閉じたことを思うと、極楽は陽が沈む西の方角にある、という事になるでしょう。本当はどこなのでしょう。

やはり浄土は西なのでしょうか。この問題はおきまして、何故釈迦は北を枕に、横になられたかという事です。

これについて少し記述したく存じますが、

長くなりましたので、この続きは次回をさせていただきたく思います。

 

今日も明日も、神仏様、ご先祖様、先達の方々、万物の神々に感謝のみの祈りを捧げて共に生きて参りましょう。

良心(神)に従って、言動に移して参りましょう。

試練や困難を乗り越え、魂を磨き、共に平安のみの神界へ戻りましょう。

 

今日もブログを読んでいただきありがとうございました。

心から感謝申し上げます。

 

敵を悩ます者よ

物質の供犠よりも

知識の供犠が勝る

なぜなら 一切は

知識において完結するからだ

 

【意味】供犠を大別すると、果報を求めるものと、真知を求めるものとに分かれよう。

この点は、意識の中身によってわかれてくるが、果報を求める供犠は、ある一定のところに行くと意識の向上はとまる。

だが、真知を求める供犠は、意識の向上をさえぎる壁を次々と乗り越えて、先に進む。

つまり、意識の中身によって、祭祀の中身も変わってくるからである。その意味で、祭祀は正しい知識の理解が拠りどころとなる。

何を、どう求めて供犠とするか。これによって、解脱の光を見出す者と、そうでない者とに分かれてくる。ともあれ、行為の祭祀は、神理に殉じていくかどうかに、かかっており、一切は真知において完結するというのである。

 

最後になりますが、私個人の意見を記載させていただきたく存じます。(6月13日に追記させていただいております。)

昔、アメリカに3週間の短期ホームステイをさせていただいた時、政治と宗教の話をしてはいけない、と助言されそれに従いました。

どこまで話し合っても、平行線である話題や信仰はあるものですし、それで良いとも思えます。

考えや意見は自由なのですから、どんな意見が出ても良いし、大衆の意見で決めるのが民主主義の良いところでもあると言えるのでしょう。

 

昨日、テレビで池上彰の中国についてを観させていただきました。

中国はインターネットやスマホは使えますが、グーグルやツイッター等は使用出来ず、国を批判するような投稿は全てAIで監視され、摘発されるそうです。横断歩道で信号を無視したような事をしますと、即、その場にある大型スクリーンにその映像が映し出され、それがその人の職場等にも送信されたりするそうです。従って、国民は国を批判するような言葉は一切、口に出来ないし、ネットに掲載出来ないそうです。

アカデミー賞を受賞した中国人女性の映像も、その女性が過去に中国を批判した言葉を発していた事がわかると、一切報道されなくなったそうです。

そして驚く程の監視カメラが国中に設置され・・・

犯罪が激減したそうです。

 

人は心の界によって、考え方が異なります。

罪を犯すくらいなら、被害者になった方がマシである、という高尚な考え方から

監視カメラがあるから犯罪が出来なくなった・・・という方までおられるでしょう。

もちろん、人は変われますので、住む界が変わる事もございます。

 

私が申し上げたいのは、日本は中国と比べ、自由な意見を述べる事が出来る国であり、それと同様に、自由を認めているからこそ、中国のように国中に監視カメラがありません。監視カメラを中国並みにしようとすれば、反対をする国民が多く出ることでしょう。プライバシーの侵害でもあると言えるのではないでしょうか。

しかしだからこそ、日本の犯罪は中国のように激減にはなりません。監視カメラがあれば、オレオレ詐欺で簡単に家を訪問する事も出来なくなるわけですから。

自由が犯罪の温床になっている事も現実としてはあるわけです。

 

そして大衆はマスコミの報道や意見に流されやすいのも事実ではないでしょうか・・・

 

日本には皇室制度がございます。

私自身、知識もなく、漠然と暮らしていた時は、皇室の存在を理解出来ておりませんでした。

何故、あの人達だけが、私達とは違い、特別扱いをされているのか・・・その家系に生まれただけで、税金で暮らせるのか・・・

いつも守られて、衣食住の心配もなく、先々の心配の無い生活を送れるのか・・・と。

常にそんな事を考えていた訳ではございませんが、たまにテレビで御姿を拝見した時に、そんな感情を持っていたと思います。

 

多くはございませんが、それから多少の知識を得ていった時に、、、

皇室は天照大神(アマテラスオホミカミ)の直系であり、神の家系と理解出来ました。私達全ては神の子(神)なのですが、神にも位がありますから、それは仕方がございません。

そして、天からではなく、地上で私達を見守ってくれている神の家系と、現在は理解しております。

科学が発展していない頃から偶然にも皇室は男性しか持っておられないY遺伝子を継いでこられました。

女性天皇は存在しておりましたが、男性のY遺伝子は今の天皇にも継がれておられます。

もし男性の子息が途絶え、女性(例えれば、愛子様や、眞子様、佳子様)が、婿をとり、その子息を天皇にした時、継がれてきたY遺伝子は途絶える事になります。

それが途絶える事が、問題なのか・・・どうでも良いではないか・・・と思われる方もおられると存じますが、

私個人の見解では、日本国を守る神の力(パワー)が、弱くなる・・・というものでございます。

 

幸いにも悠仁様がおられますので、まだ日本の国は大丈夫だと、個人的には申し上げたいです。