大瀧詠一が亡くなった、ということで、

数年前に書き、お蔵入りになっている原稿を思い出した。


「岩手の逆襲」というお国自慢本に載せる予定だったのが、

制作途中で震災が起き、企画が変わって、別の本を書いたため、

世に出なかった文章。


岩手ゆかりの音楽家を紹介したなかで、

彼に関する部分を自己引用して、とりあえずの悼辞としたい。


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プレスリーやビートルズの影響で、

ロックの人気が高まりつつあった半世紀前の日本。

もっとも、洋楽であるロックのリズムやビートに日本語をうまく乗せるのは、

なかなか難しいことでした。


その難業に初めて成功したとされるのが、

4人組のバンド〝はっぴぃえんど〟です。

というと『風をあつめて』『はいからはくち』といった

抒情的で前衛的な詞を書いた松本隆のセンスに目が行きがちですが、

曲をつけ、歌う人がいなければ、日本語ロックにはなりません。


ちなみに、松本や細野晴臣、鈴木茂は、生粋の東京人。

そして「曲をつけ、歌う」ということに最大の貢献をしたのが、

江刺出身の大瀧詠一でした。


彼はのちに、こんなことを言っています。


「〝はっぴぃえんど〟時代は、オリジナルなもの、

自分にしか出来ないものは何かと考えて、

宮沢賢治とかイーハトーブの世界を意識したことはありましたね」


じつは松本や細野も賢治ファンだったようで、

のちに映画『銀河鉄道の夜』の音楽を一緒に作ったほど。

つまり、バンドの方向性自体に岩手的なものが存在していたわけです。


その後、大瀧は豊富な音楽知識と〝パクリの名人〟とも呼ばれた作曲術、

そして独得のまったりと眠気を誘うような歌唱により、

ポップス界の巨人になります。

82年に、日本で初めて発売された12枚のCDのうち、

じつに3枚が彼の関連作品でした。


また〝多羅尾伴内〟などの変名を使って、数々のCM音楽を手がけ、

他のアーティストにも多くの曲を提供。

松田聖子の『風立ちぬ』や森進一の『冬のリヴィエラ』が有名ですが、

いかにもこの人らしいのは『イエローサブマリン音頭』(金沢明子)や

『うなずきマーチ』(うなずきトリオ)でしょう。

クレイジーキャッツをこよなく愛した彼は、民謡とビートルズ、

漫才とマーチを融合させるという遊びを大真面目にやってのけました。


「東北の人には、背中からジワッとくるような独得のユーモアがある。

スピード感があってテンポのよい関西圏のそれとは明らかに違いますね」
と言う彼は、自身の音楽でもそれを体現していたのです。


もっとも、その作品以上に岩手っぽさを感じさせるのは、

彼の生き方だったりします。
一番売れていた頃から、

オリジナルアルバムを4年に1枚くらいしか発表せず

〝オリンピックアーティスト〟などと呼ばれていましたが、

ここ十数年はほぼ休眠状態。

その理由について、彼は音楽がデジタル化され、

簡単にコピーされる時代の到来を予見していたとして、こう言っています。


「そんな状況で、何が一番よい方法なのかと考えたら

〝創らないこと〟になって今に至るんですけど(笑)。

誰でもみなそうでしょうけど、やっぱり創る作業は苦しいですからね」


そして〝岩手のよさをアピールするような音楽を作ってみては?〟

という提案にも、
「いやいや、岩手は宣伝することがあまりないというところがいいんですよ

(笑)。

自然をありのままに残す方がよっぽど良いですね。

騒がれて人が大勢訪れると、ゴミ問題など新たな問題が出てきて」
と、この本(『岩手の逆襲』)の筆者としては、

少々困るようなことまで言ってくれています。


さらに〝今後の活動〟をきかれても、
「特にありませんね(笑)。

70年代から80年代にかけてはずいぶん頑張ったという自負がある。

だから、私はもう既にいないものと思っていただきたい。

各地の土壌でも研究しながら、人間として普通に暮らしていけたらいいなと」


この境地はある意味、

賢治が『雨ニモマケズ』で謳った

〝デクノボー〟精神にも通じるかもしれません。

そういうものを拠りどころにして、

日本語ロックの創始者は岩手人らしい音楽的余生を送っているわけです。


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彼の死については思うことや、また、そこから連想したこともある。

それについては、別記事にするとして、

まずは、冥福を祈りたい。