2013年1月に書いた記事。

一昨日にリブログした記事からの流れだけど、

年の初め、かつ、最近の世の中にも合ってる気がして、

今回はコピペにすることにした。

 

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「ユリイカ」の「魔法少女まどか☆マギカ」特集号。
最後の対談も、興味深く示唆に富んだものだった。

・・・(略)今の視聴者の考え方は違っていて、子供向けということはつまり子供から大人まで見られるものだ、という考え方になっているんじゃないですかね。(略)結果的に今はアニメが最も広い層にリーチできる表現形式になってるのかなと思うんですが。しかし、最近は女性があからさまに「かわいい女の子」が好きと主張するようになったと思いませんか? つまり「かわいい女の子」が女性にとってもわりと消費の対象として受け入れられやすくなっている。(以上、さやわか)・・・

・・・それから、もう一つ考えているのは「今の時代はみんな内側を向きながら大きくなっていける」ということですね。コミュニティの外部に対して「私たちはこういうものです!」っていちいち言わなくても、何かやっていれば興味のある人が集ってきて、文化の純度を保ったままそれなりに大きなコミュニティになれる。「内輪で盛り上がってるだけじゃん」みたいなことを言って、消費しようとしない人がいても、もう相手にしなくてもいいんですよ。インターネットも普及しているし、そういう態度が許されるくらい確固としたコミュニティの形成が容易になっている。(以上、ぱるぼら)・・・

アニメが世代や性別を超えて、愉しめるものになってきた、
というのはここ数年、僕も感じていて、
特に「かわいい女の子」への萌えやリスペクトは、
男より女のほうが強く抱くようになってる気さえする。
そして、コミュニティの形成云々についても、
ネットでの執筆を通して、似たようなことを感じてる。

最初はひとりで、

「痩せ姫は美しい」と言っていただけなのに、
そのうち共感したり、

安心したりしてくれる人が増えてきて。
もちろん「まどマギ」のようなブームに

なることはあり得ないけど、
今後も現時点でのレベルくらいは維持しながら、
ひとつのささやかな場として機能するといいな。

もちろん、そのための努力は惜しまないつもりです。
あと「まどマギ」のように、世代や性別を超えて、
波長が合う人たちが支持することで盛り上がる動き、
これからも増えていくのでは。
たとえば「ネット縁」というものも

「地縁」や「血縁」と同じかそれ以上に、
今はかけがえのないものになってるはず。
この場も「ネット縁」によって

支えられてるところが大なわけで、
そんな時代に、感謝したい。

 

コメント、ありがとうございます。

人間も動物ですし、それも雑食性ですから、

生ぐささを消し去ることは不可能なわけですが、

そういうものを可能な限り、

消したいのが痩せ姫なのかもしれません。

その生ぐささの象徴が、生活だったり肉だったり。

なので、人形とか、妖精とか天使とか、

そういう存在に憧れ、理想にしたりするんでしょうね。
最低限の生活感、最低限の肉感だけで生きていく、

そういうことを本気で目指そうとする人たちに、

ただならぬ魅力を感じて、せつなくなります。

 

 



 

さっきの記事(大晦日に死ぬということ)

で触れた「詩」については、すでに紹介済みなので、

それをリブログすることにした。

 

 

今から73年前の大晦日、

久坂葉子は21歳の生涯を閉じた。

 

その日の午前2時頃、

遺作となる「幾度目かの最期」を書き上げ、

午後9時45分、特急電車に飛び込んで。

 

「女太宰」とも呼ばれた彼女は、

自分より4年半早く死んだ太宰治について、

こう書いている。

 

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「雨の日に」

 

雨のふるうすぐらい日に

作家が独り死にました

人がどんなにさわいでも

それは無益なことなんです

私は静かに黙っていて

のこして行った作品をよみます

(略)

 

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また、こんなことも。

 

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「逝った人に」

 

「ねえ、誰にもきかれないように、

そっと教えて下さいナ」

「この道ですよ。おじょうさんの道は」

とね

そうしたら私は黙って、ほんの少し笑って

さされた方へ進みます

雑草ばかりの小道でも

ぬかるみの多い細道でも

私は黙って歩いて行きますよ

「ねえ誰にもきかれないように、

そっと教えて下さいナ」

 

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彼女は太宰の生と死、そして作品から、

彼女にしか聞けない言葉を聞いたのだろうし、

その結果が、その後の生と死、

そして作品だったのだと思う。

 

だからこそ、太宰ほどではないにせよ、

彼女の文章も確実に読まれ続けているわけだ。

 

大晦日に死ぬということは、

彼女が優れて日本的な美意識の持ち主だったことの

証しでもある。

 

当時はすでに新暦だったとはいえ、

大晦日は本来、冬の終わりの日。

新春になれば、数え歳がひとつ増えるわけで、

区切りをつけるにはちょうどいい。

 

たとえば「源氏物語」でも、光源氏の退場は大晦日。

翌年には出家することを決意した彼は、

今でいう「節分」のような行事に、

孫の匂宮がはしゃぐのを眺めつつ、

世俗への念を断ち切っていく。

 

ちょっと飛躍してしまうけど、桜が満開の日に、

西行と岡田有希子が世を去ったのと似たようなものを、

久坂葉子の死と光源氏の退場にも感じてしまう。

 

あとで、彼女の短い作品をひとつ紹介するつもりです。