通奏低音──

これは音楽用語だけれど、

わたし的には『常に底流としてある考えや主張』という意味で。

 

 

わたしは『たまに』不思議体験をする。

そういう記憶は普段の時間軸とは少しズレた感じで、わたしの中に存在している。

不思議だな〜と思うのは『現実かどうかわからない記憶』があること。

 

 

 

 

例えば──

幼稚園の頃、わたしはオルガンを習っていた。

オルガンの先生は女性で全盲だった。

どういう経緯か忘れたけれどその先生の家を訪ねた記憶があり、

先生の家は幼稚園にほど近い場所にあって、細い小道を入ってゆくと黒い鉄格子の門があって、そのずっと奥に御伽話に登場するような洋館が建っている。

その光景が脳裏に焼きついていたのだが──

実際、その場所を探してみたがどうしても見つからない。

小道はあるのだが、洋館も、洋館の建っていた草原も存在しなかった。

 

 

 

 

オルガンの先生の家の記憶は、わたし個人の記憶。

だがもう1つの記憶は『妹と共有している記憶』である。

わたしたち姉妹が小さい頃、駅前からほど近いところに古びた旅館があった。

木造で、いつも正面玄関の引き戸が開いていて──

ところがいつの間にかその旅館はなくなっており、その場所は駐車場になっていた。

まるで最初から旅館なんかなかったように。

で、ある日わたしは妹に確認したのだ。

「◯◯のところに古い旅館があったよね?」

すると妹は、

「あった、あった」

と答えた。

「入口あたりにヤツデの葉っぱがあってさ」

とわたし。

「ああ、憶えてる。あったよヤツデ」

妹も確かにその旅館を記憶していた。

けれど後日、今は駐車場になっているその場所に行くと、

どう考えても旅館が建っていたほどのスペースはなく「あれ?」と思った。

こんな狭い場所にあんなに大きな旅館が建つがわけない。

どう考えても妙だった。

でもわたしは確かに幼い頃、そこに古びた旅館が建っていた記憶があるし、

妹にもまた同じ場所に旅館があったという記憶があったのだ。

 

 

記憶の食い違い──

今はこういうのを『マンデラエフェクト』と呼ぶのかも知れないが、

こういう記憶の矛盾がわたしには多々ある。

それは幼い頃の、一種独特な時間枠の中で生じたであろう記憶。

それは鮮やかな色を伴い、むせ返るような草の香り、鉄格子の冷たい手触り、

陽光とは正反対の暗い屋内と黒味がかった木目の細部──それらが通奏低音となってわたしの子供時代の記憶に置き換えられているのである。

 

 

**********

 

 

お知らせ

風邪気味なので、

金土日とブログをお休みします。

皆様も夏風邪にはお氣をつけ下さい〜

ではでは〜