江戸はエトゥである。

アイヌ語で「鼻」のことを「エトゥ」という。

鼻──すなわち岬のこと。

つまり江戸というのは『岬』と言う意味があるのだ。

この岬の先端に柴崎村というのがあり、そこに祀られていたのが神田明神である。

 

 

徳川家と神田明神の繋がりは相当古い。

徳川が北関東(上毛野=群馬)で世良田と名乗っていた鎌倉末期、

世良田親氏(せらたちかうじ)は幕府執権の北条氏に謀反を起こして敗れ、

信州へ落ちのびて剃髪し僧侶になっている。

その時、世良田親氏は「徳阿弥」と名を変えて各地を巡礼することになるのだが、

柴崎村の神田明神に立ち寄った際、武家に戻れという神託を受けている。

神託によれば「徳阿弥の1字をとって徳川と名乗れ」と。

徳阿弥は徳川親氏と名を改め、信州から三河の松平郷へと移り、

そこで在原保重に見いだされる。

これが徳川家誕生の伝承である。

のちに江戸幕府を開いた徳川家は、

鎌倉期以前から続く上毛野ゆかりの世良田姓を復活させて、

徳川と世良田のふたつの姓を名乗るようになる。

 

 

 

 

 

話は変わるが、

かつて東京には古墳がかなりあった。

明治以降に破壊された古墳の数は膨大で、残っているのは芝丸山古墳のみ。

そして驚くべきことに『将門塚』はかつての古墳付近に建っている。

そこにはかつて『柴崎村』という村があり、

古墳の規模としては20~30m。

非常に小型の前方後円墳だった。

もちろん平将門が出現する遙か以前からこの地に存在していたもので、

おそらく5世紀ぐらいまで遡る。

 

 

江戸(エトゥ=岬)の先端に当たるのが現在の大手町。

この大手町あたりが柴崎村と呼ばれていたらしい。

そこに将門塚が建つ遥か昔、小さな前方後円墳があったが、

関東大震災以降にオフィス街建設のためすべてが破壊されて現存していない。

 

 

 

 

1923年。大正12年。

鳥居龍蔵という人が大震災直後に撮影した写真が上の写真。

こんもりとした小さな丘の上に石碑がある。

この丘が前方後円墳である。

かつてこの場所には神田明神が祀られていた。

おそらく古墳時代末か奈良時代の初期──神田明神の歴史は相当に古いのである。

江戸(岬)の先端に位置する柴崎村に祭祀された神田明神だが、

なんと平将門自身も、この社を訪れたという記録(社伝)がある。

 

 

江戸後期の神田祭。幕府公式の祭礼であり一大イベントだった。

 

 

話が逸れた。

徳川は神田明神を『江戸総鎮守社』とした。

一時期、神田明神は柴崎村から神田山近くへ移されたようだが、

幕府が本格的な江戸の造成工事をスタートさせると湯島台へと社殿が移されている。

神田山の土砂を湿地帯や茅島の埋め立てに使いたい幕府としては、

徳川家ゆかりの神田明神の遷座はもっとも重要な課題の一つだった。

しかし──

問題はあの前方後円墳である。

江戸時代にはそこに将門塚があったわけだが。

神社は移築できるが古墳は動かせないので、

土井利勝に周辺域を屋敷地として与えて古墳の保存・管理を命じている。

こうして千代田城大手門前の大名小路(旧・柴崎村)に残った前方後円墳古墳は、

将門塚とともに麹町区大手町となった大正後期までその姿を残すことになった。

 

 

話は前後するが──

元和2年(1616年)。

神田明神は江戸城の表鬼門にあたる現在の地に遷座され、

江戸全体を守護する江戸総鎮守として尊崇された。

正式名称は神田神社という。



もともと神田明神は

将門塚(大手町=旧柴崎村)付近にあったが、

幕府により現在の地に社殿が造営された。

以後、江戸総鎮守として江戸庶民に崇敬されるようになったのである。

 

 

神田明神の祭神は、

大己貴命と少彦名命。そして平将門である。

もともと大己貴命を祀っていた神田明神では、

延慶2年(1309年)に遅れて平将門が奉祀されたという。

 

 

なぜ、将門が祀られることになったのか?
実はもともと神田明神があった武蔵国の芝崎村(現在の大手町付近)に、

将門の首を埋めたと伝えられる首塚があった。
だがこの塚を管理せず、ほったらかしにしていたところ、

地域一帯で天変地異が頻繁に起こり、疫病が流行したという。

塚をなおざりにしたために将門の祟りが起こったのではないかと噂され、

あらためて塚の整備と供養が執り行われ、

その霊が近隣にあった神田明神に奉祀されたということらしい。

 

 

神田明神を信奉していたのは太田道灌、北条氏綱など。
最も有名なのは徳川家康による戦勝祈祷である。

慶長5年(1600年)天下分け目の戦いとも言われた『関が原の戦い』が起こる。

家康はこの合戦の事前に勝利する願いをこめて神田明神で祈祷していた。
そのおかげか、家康は合戦に勝利!

神田明神を篤く信仰するようになる。

合戦に勝利した日が9月15日という神田祭の日にあたったことも不思議である。
以来、江戸幕府は神田明神を崇敬し、江戸城の裏鬼門に神田明神を移築。

江戸総鎮守とした。

 

 


 

 

平将門、徳川家康、神田明神、柴崎村、前方後円墳。

なんだかこれらのキーワードに『秘密』があるような気がする。

将門の首がこの辺りまで飛んで来て落ちた、という伝承を聞くにつけ、

将門自身、神田明神とはなんらかの因縁があったのかも知れないと思ってしまう。

そして徳川家康もまた神田明神に祈願して関ヶ原の戦いに勝利し、

天下統一を成し遂げている。

平将門と徳川家康──

柴崎村にあった前方後円墳(柴崎古墳と呼ばれていたらしい)との不思議な因縁。

上の絵は『平将門故蹟考』という書物に描かれていた柴崎古墳。

古墳の丘のふもとに将門塚があるのがわかる。

かつてはこの場所に神田明神も祀られていた。

天平2年(730年)武蔵国豊島郡江戸柴崎村に神田明神があった、という記録がある。
その時の祭神は素盞鳴尊。

今は大己貴命と少彦名命と平将門だが、古くは素盞鳴尊が祭神だったようである。

素盞鳴尊は現在、神田明神の摂社に祀られている。

が、もともとの地主神は素盞鳴尊(牛頭天王)だった。

ここら辺も関係するのか?

平将門と徳川家康を引き寄せたのは──

古くからこの地にあった謎の古墳なのだろうか?

それとも柴崎村の地主神、牛頭天王なのだろうか?

 

 

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