新選組隊長・近藤勇は、
慶応4年4月25日(新暦1868年5月17日)に
板橋平尾宿にあった一里塚で斬首の刑を受け、首は京都三条河原に晒された。
胴は滝野川三軒家の無縁塚に埋葬されたという。
あれはいつ頃だったろう?
たしか雪が積もっていたから冬だと思うが、会津若松にある天寧寺に行った。
そこに近藤勇の墓があるというので行ったのだが、なにせ真冬のこと。
天寧寺に辿り着いたはいいが、あまりの雪に足を取られて身動きがとれず、
仕舞いにはキレて(笑)うっわーーー!!となり、断念。
また来るか、ということになってその日は帰路に着いた。
春になり、桜が咲く頃に再び天寧寺を訪れた。
雪で遭難しかけたのが嘘のように桜の季節の天寧寺は美しく、
近藤勇の墓を目指して山道を登った。
墓はすぐに見つかった。
近藤勇の墓の横に、
北海道で亡くなった土方歳三の墓が、並んで建っていた。
そう言えば、新選組4番隊組長の斎藤一は会津に残ったと聞く。
この墓を守ったのも彼だろうか?
会津には何度か行ったが、あそこには独特の氣風がある。
街のあちらこちらに「ならぬものはならぬのです」の看板を見かける。
これは什の掟(じゅうのおきて)と言うらしい。
6歳〜9歳までの会津藩士の子供たち(男子のみ)は、
町ごとに10人前後でグループを作っていた。
この集まりを什(じゅう)と呼んだ。
会津藩では藩士の子弟は10歳になると藩校日新館に通った。
一方、什には9歳以下の子たちが集まる。
什は日新館入学前に会津武士の心構えを身につけさせるための幼児教育の場だった。
ならぬものはならぬのです。
だからだろうか?
車で街を走っていても、礼儀正しい。
ちゃんと止まって譲ってくれる。
長野県に行った時にも同じ体験をした。
長野も会津と似て、車のマナーが良い。
庭先の手入れもマメにしてある感じで、人間がしっかりしていて、かつ優しい。
そういうとこ、会津と通ずるものがある。
会津藩には過酷な歴史があるから、それを糧に人に優しくなれるのだろう。
会津若松の街をブラついたが、ちょっとレトロでいい感じ。
会津の三泣き、と言うのがあるけれどわかる。
会津に来た人は、はじめは会津の人の「よそ者」に対する厳しさに泣き、
2回目は会津の人の温かな心と人情に触れて泣く、
そして3回目は会津を去る時に離れることの辛さに泣くという。
ほんとにそうだよ。
会津という所は不思議に人を包み込む温かさがある。
一度行くと離れ難くなる。
あんなに辛い思いをしたのに、会津の人は強い。それに優しい。
どんな過酷な過去があろうと腐らず、今も昔と変わらずに丁寧に生きている。
会津は──会津若松は愛すべき街である。
またいつか行こうと思う。