りまりまさんのブログ。

貝輪が繋ぐ琉球と阿波のこと。

スイジガイが沖縄の方言で「ユーナチモーモー」と言うことから、

考察は「牛」へとワープして、渡嘉敷島の阿波連のことや牛氏阿波連家のこと、

スイジガイを魔除けとして玄関に吊るすことから蘇民将来を連想したりまりまさん。

さらにみんつちさんのコメントが「蘇民将来と牛頭天王」を連結させる!

阿波と琉球・貝と牛。阿波忌部も浮上してカオスなんだけど面白い!

ではでは、わたしなりの「阿波〜琉球」考察をしてみよう。

 

 

まず糸口は阿波忌部。

古来より天皇の麁服(あらたえ : 神衣)を織り上げるのは阿波忌部である。

現代でも子孫の三木家がその伝統を受け継いでいる。

阿波忌部は6世紀の中頃、阿波国に進出したという。

もともと阿波国にいたわけではないらしい。

となると、それ以前はどこにいたのか気になるところ。

さらに『先代旧事本紀』によれば忌部・出雲・物部・三輪・吾道・卜部の六家は、

上古より続く史家と言われている。

 

 

 

 

ここで見てほしいものがある。

孝明天皇の礼服なのだが、背中に北斗七星が縫い込まれている。

キーワードは7だ。

これはわたしの妄想だが、

上古から続く六家に天皇家を合わせて「北斗七星を成す七家」となるのでは?

この七家が日本の秘密を握っていると思うのだ。

聖徳太子は歴史書を編纂するにあたり、六家が保管している書物を取り寄せた。

そしておそらく天皇家を含む「七家」は琉球と繋がっている。

 

 

 

 

沖縄の伊計島にあるセーナナー御嶽。

セーナナーというのは「古代の海人七氏族」のことである。

言い伝えによれば彼らは島内の西部へ移り住み、ある一族は九州へ、

ある一族は瀬戸内海を渡って丹後・出雲・紀伊・ヤマトへと北上した。

もしかしたらこの「海人七氏族」こそが、天皇家と六家なのかも知れない。

九州へ渡った一族がのちに天皇家となり、丹後・出雲・紀伊・ヤマトにたどり着いた一族が六家になったと考えるとしっくり来る。

 

 

それに沖縄には

神武天皇は伊平谷島で生まれたという伝説もあるし、

渡嘉敷島には阿波連という集落もある。

忌部が四国阿波に入って「阿波忌部」になったのは6世紀中頃。

確かに徳島は「阿波」と呼ばれていたが、

その地を「阿波」と名づけたのは琉球からやって来た海人たちではなかろうか?

四国阿波のルーツが渡嘉敷島の阿波連にあったとしたら面白い。

まあ、荒唐無稽なんだけどね。

 

 

りまりまさんのブログにも書いてあった。

琉球の貝輪(貝で作られた腕輪)は四国までしか普及してないと。

つまり四国と琉球のあいだで交易があったということ。

琉球から黒潮に乗って四国あたりまではたどり着けたということだ。

わたしの妄想では「阿波」は大和建国以前の雛型国家だ。

琉球を出発した「海人七氏族」のうちの1つが四国の地で雛型となる国家を作り、

準備万端整ったところでそれを紀伊に転写した。

作家の加門七海さんが言っておられたが阿波の地名と紀伊の地名には共通点があり、

「うつし鏡」になっているそうだ。

まあ、なかなか琉球と阿波の繋がりを発見するのは難しい。

でも行き詰まっていたらこんなブログを見つけた。

 

 

 

 

『追跡アマミキヨ』さん。

気になるところを引用させていただく。

 

 

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なぜ粟の収穫祭りのとき、

久高島の神女たちが、島軸(中心)の回りを7回も時計回りに回ったのか?

という疑問の主だった部分は私の場合「7回まわる」だったが、

語り部によれば「粟」が重要という。

「ホツマツタエにある“アワの歌”でも分かるように、

アとワは天地のエネルギーを表していると思います。

粟のお祭りの時、神女たちが島軸を回ったのは、うさち(上古)の頃からの儀礼の名残りだったのでは。粟、アワ、阿波、淡路島…語源は同じかもしれません」

 

 

「7はシュメールの聖数。

久高島でもそうでしたよね。

7回まわる、七つ橋、七ツ屋、七つ屋取(ヤードゥイ)

それから、 七つの川泉、七つの首の蛇…

あと玉城のミントングスクに残る創世神話では七日七晩の後、

アマミキヨが天降りした。

右回りは古事記の創世神話のイザナミを思わせます。

粟の収穫祭、確かになんだか深い意味がありそうな…」

いっぽう、語り部の話にも「七」は出てきた。

「大城(ウフグスク)のウメおばあが言ってました。

粟には餅粟、赤粟など、七つの種子があったんだよと。

あと、お米の前は粟が主食だったという伝えもあった」

 

 

実は「七つの首の蛇」こと海人七氏族とは、

粟の種子を携えて琉球に渡来した古代人だったのか。

 

 

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わたしは『追跡アマミキヨ』さんのブログを読む時、頭では読まない。

意味がわかるとか、わからないではなく、感覚だけで読むようにしている。

琉球の七つ首の蛇。

琉球を出発した海人七氏族。

おそらく琉球から旅立った「七つ首の蛇」こと海人七氏族のうちの1つが

四国の地にたどり着き、粟の国(阿波国)を作った。

 

 

四国阿波に粟をもたらしたのはオオゲツヒメだ。

記紀神話でオオゲツヒメは鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。

スサノオは「そんな汚い物を食べさせていたのか!」と怒り、

オオゲツヒメを殺してしまう。

ところが島根県石見地方にはこんな伝説がある。

少しばかり長いが。

 

 

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オオゲツヒメは身体のどこからでも食物を出すことが出来た。

あるとき、心の良くない神がオオゲツヒメの身体にはどんな仕掛けがあるのかと

面白半分にヒメを斬ってしまった。

息も絶え絶えなオオゲツヒメは娘の狭姫を呼び、

「お前は末っ子で身体も小さい。形見をやるから安国へ行って暮らすがよい」

と言って息を引き取った。

と、見る見るうちにオオゲツヒメの遺体から五穀の種が芽生えた。

狭姫は種を手にすると、そこにやって来た赤雁の背に乗って旅だった。

赤雁が高島(現益田市)で休もうとしたところ、

オオヤマツミの使いの鷹が出てきて、

我は肉を喰らう故、五穀の種なぞいらん」

と狭姫を追い払った。

続いて須津(現浜田市三隅町)の大島ので休もうとしたところ、

鷹が出てきて同じように追い払った。

仕方なく狭姫は鎌手大浜(現益田市)の亀島で一休みして、

そこから赤雁(現益田市)の天道山に降り立った。

さらに比礼振山(現益田市)まで進むと周囲に種の里を開いた。

神も人も喜び、狭姫を「種姫」と呼んであがめた。

ある日のこと、種の里を出た狭姫は巨人の足跡に出くわした。

巨人が迫って来たので土地の者は逃げ出した。

狭姫も命からがら逃げ帰ったが、

巨人たちがいると国を造ることは出来ないと考えた。

狭姫は赤雁の背に乗って出かけた。

とある山に空いた大穴からいびきが聞こえてくる。

「そこにいるのは誰か?」と問うと、

「自ら名乗らず他人の名を訊くとは何事だ」と返ってきた。

声の主はオカミ(淤加美神)といってオオヤマツミの子だった。

狭姫が「直接お会いしたい」と申し出ると、

オカミは「我は頭が人で体が蛇だから神も人も驚いて気を失うだろう。

驚かすのはよくないことだ。それより我が兄の足長土に会い給え」と言った。

狭姫は考えた。

オカミは雨を降らす良い神だが、

巨人と足長土はどこかに追いやらなければならない。

狭姫は三瓶山の麓を切り開いて巨人たちを遊ばせることを思いつく。

帰えり道、狭姫は手長土に出会った。

「夫はいるか?」と問うと、

「かような長い手ですもの」と手長土は自らを恥じた。

「私も人並み外れたチビだけど種を広める務めがある。御身にも務めがあるはず」

と言って、狭姫は手長土と足長土を結婚させた。

2人は夫婦で力を合わせて幸せに暮らしたという。

オカミは後に「八幡の神」と入れ替わって岡見にはいないが、

今でも時化(しけ)の前には大岩を鳴らして知らせてくれるという。

 

 

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阿波のオオゲツヒメ。

オオゲツヒメは粟の神。

その娘の狭姫は島根県へ「種」を広めに行っている。

たぶん琉球から出発した「海人七氏族」は粟を始めとする種を携えて旅に出た。

その船団はいくつかのルートに分かれたが、

九州へ行ったものは天皇家となり、

このグループは「稲」を広めたのかも知れない。

四国阿波にたどり着いたグループは粟をもたらした。

このグループのことを「オオゲツヒメ」と呼んだのかもね。

そして次世代のグループは石見でさらに種を広めることとなる。

稲が先か、粟が先か、それはわからない。

でも琉球から来た海人たちが、おそらく「五穀の種」を運んで来たのだ。

 

 

なんか長々と書いたが「これ!」という決め手はなかった。

それでも沖縄に語り継がれる「神武天皇伊平谷島生誕説」とか、

天皇家がお忍びで沖縄を訪ねる理由とか、気になることは多々ある。

なにゆえ天皇家の世継ぎが途絶えそうになった時、秋篠宮家は久高島を訪ねたのか?

紀子様は久高島の聖地であるクボー御嶽へ案内されたという。

そしてその直後にご懐妊となり、悠仁様がお生まれになった。

久高島を訪れたのは秋篠宮家だけではない。

これはあまり知られてないが、

愛子様がお生まれになった後に、

(現今上天皇と雅子様が?)お礼の報告をしに久高島を訪れたという。

知られていることも伏せられていることも含めて、

天皇家が沖縄と何らかの繋がりを持っていることだけは確かだろう。

では阿波はどうだろう?

 

 

 

 

こちらの記事に面白いことが書いてあった。

気になるところを引用する。

 

 

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徳島藩は江戸時代、

蜂須賀家が領主として阿波に入国しましたが、

そこで阿波が天皇家の古代の聖地であることを知り、

密かにいろいろと調査していたようです。

一方江戸幕府は、現在は幻となっている『阿波風土記』を密かに入手し、

その実態把握に乗り出したわけです。

現在、淡路にある一宮、伊弉諾神宮は、

その時の調査報告をもとに、そこが伊邪那岐の御陵であると判断し、

その跡地に社殿を建立したものなのです。

 

 

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阿波は

古代天皇家の聖地。

淡路にある伊弉諾神宮は伊邪那岐の御陵。

おそらく阿波には「神武以前の痕跡」が残っているのだろう。

琉球の「海人七氏族」は同時期に琉球を出発したわけではなさそうだ。

九州へたどり着いたグループよりも先に阿波へたどり着いたグループがいるのかも。

彼らはそこで雛型となる国家を作り、やがてそれが阿波から紀伊へ転写されて、

熊野などを本拠地としていたグループが東征の折、神武天皇を大和へと案内した。

そう考えるとしっくり来る。

ちなみに「牛」に関してのことだが、牛と言えば牛頭天王だ。

牛頭天王の后は「南海の娑伽羅竜宮城」に棲む竜王の娘・頗梨采女(はりさいじょ)。

牛頭天王は「スサノオ」と同一神のように扱われている。

南海の娑伽羅竜宮城…

これは琉球のことなのかも知れない。

そして『追跡アマミキヨ』さんのブログで知ったのだが、

沖縄には天王加那志(てんのうガナシー)と呼ばれる神がいて、

この神は日本神話のスサノオと同名異神であり、

『追跡アマミキヨ』さんのブログによれば「古代天孫氏王朝」の始祖であるスサノオだということだ。とりあえず天王加那志についての記事も載せておくね。

 

 

 

 

決定的証拠はないが、

これがわたしの「阿波と琉球」妄想考察である。

まあ、妄想好きのエンタメだと思って読んで下さい。

 

 

りまりまさーん。

リブログさせて頂いてありがとうございます!

これからも面白いワクワクする記事をたくさん書いて下さいね🧡