古代東海道から旧東海道を歩き、吉原宿(新吉原)へと歩を進めています…
↑AM8:03…エリエールブランドで有名な大王製紙グループの「大日製紙」からの富士山♪

↑AM8:07…吉原宿(新吉原)の東木戸跡です。
木戸は宿場の入口に設けられ、夜間や非常時には閉じられたといいます。
この東木戸から西木戸までの1360mが新吉原宿でした。


↑AM8:12…岳南電車の7001形が吉原本町駅に着きました♪
シバザクラ(芝桜)のラッピングが可愛いですね~♪

↑AM8:19…吉原本町からアーケードの商店街(東海道 吉原宿)に入り、吉原天神社に立ち寄ります♪

↑AM8:20…吉原天神社、拝殿の向拝の蟇股には梅と松に雄雌のキジの彫刻が施されています♪
天神さまのお使いとして牛が選ばれています。それは学問の神様と慕われる菅原道真公が丑年生まれ(承知12年・845年)であったことが関係しています。
そして菅原道真公のもう一つの神号は「日本太政威徳天」で、密教の大威徳明王(だいいとくみょうおう)に由来しています。ちなみに大威徳明王は六面六臂六足(ろくめんろっぴろくそく)で炎を背負い、水牛にまたがったお姿をしています。
吉原天神社の参拝を終え、これから「富士山東泉院跡 / 日吉浅間神社」へと歩を進めます…

↑AM8:32…富士山東泉院跡 / 日吉浅間神社の参道沿いのソメイヨシノは満開を少し過ぎ、花びらがチラチラと舞う様子を楽しむことが出来ました♪

↑AM8:37…こちらは八重咲きの関山桜(かんざんざくら 別名 セキヤマ)

↑AM8:38…こちらは淡い緑色の花を咲かせる八重咲きの御衣黄(ぎょいこう)です。
ソメイヨシノが散り始める頃から開花が始まります。
咲き始めは濃い緑ですが、開花が進むにつれ淡い緑になり、花が成熟すると紅を引いたような条線が浮かび上がり、日に日に赤みを増していきます。

↑AM8:40…国の登録有形文化財になっている六所家の門をくぐり、富士山東泉院跡へと向かいます。
富士山東泉院は五つの有力神社を管理・運営していました。
その五つとは、今泉の日吉浅間神社、今宮の浅間神社、三日市場の冨士六所浅間神社、入山瀬の浅間神社、原田の滝川神社の下方五社です。(下方とは…富士山南麓の下方地域、現富士市を指します。)
文久3年(1863年)第14代将軍 徳川家茂(とくがわいえもち)が上洛の折、富士山東泉院を訪れました。
将軍家茂を迎えたのが当時の住持だった蕊雄(ずいゆう)でした。
蕊雄は富士山東泉院 第21代の住持で東泉院最後の住持でした。明治時代になると神仏判然の令(神仏分離令)により東泉院は廃され、蕊雄は六所家を起こし住持から神職へと移りました。

↑AM8:31…富士山東泉院跡のドウダンツツジ(灯台躑躅)♪

↑AM8:43…写真奥の蔵は国の登録有形文化財となっている「東泉院宝蔵」です。
安政4年に再建され、富士修験に係る東泉院唯一の遺構です。
富士山東泉院は、戦国大名今川氏のあつい庇護を受けていました。
草創当時は村山系の本山派修験で、一説では村山の富士山興法寺の一つだったと伝えられています。
なぜなら、富士修験(村山修験 大鏡坊)出身の「雪山」は、今川家の重臣として重用されていた裾野市の葛山氏一族の頼秀に養子入りし、今川家の使僧(他の大名家と交渉する僧)の役割を果たし、今川氏に対して村山修験として駿河東部の宗教政策の中心になると共に、軍事的奉公も務めたそうです。
雪山は富士山東泉院の初代住持(住職)になったのち「大納言頼恵」と名乗っています。
このように富士山東泉院は村山の富士山興法寺と深い繋がりがあったことが分かります。


↑AM9:00…日吉浅間神社となっているこの場所は、富士山東泉院の本堂でした。
拝殿の向拝を様々な彫刻が飾っています。写真で分かるように持送りには牡丹と千鳥、蟇股は龍に乗って琴をひく赫夜姫(かぐやひめ)が透かし彫りとなっています。
当初は彩飾の彫刻だったそうで、微かに龍の口元に彩飾が残っています。
改修などはせずに「自然のままに…」を大切にされておられます。

↑AM9:01…日吉浅間神社の屋根には飾り瓦として「阿吽」の獅子瓦となっています♪
神仏習合を色濃く残す「富士山東泉院 / 日吉浅間神社」で、赫夜姫(かぐや姫)伝説を記す書物「富士山大縁起」が発見されました。
縁起の中で語られる赫夜姫伝説のあらすじは…
作竹の翁と呼ばれるお爺さんは、竹の中から小さな女の子の赤ちゃんを見つけました。
お爺さんは赤ちゃんを家に連れて帰り、お婆さんと二人で大切に育てました。
赤ちゃんはスクスクと育ち、国中に並ぶものが無いほど美しい娘になりました。娘はいつもかぐわしい良い香りがしていて、体からは神々しい光を放っていました。
その光で辺りは夜でも昼間のように輝いていたので、赫夜姫(かぐや姫)と呼ばれるようになりました。
かぐや姫が16歳になった頃、全国でお后探しをしていた桓武天皇の使者がお爺さんの家に宿をとりました。使者はかぐや姫の美しい姿に驚いて桓武天皇の后に相応しいと伝え、桓武天皇に報告するため都へ帰りました。
しかし、かぐや姫は后になるのは望まず、富士山の洞穴に帰るため后にはなれないとお爺さんとお婆さんに伝え、自分に会いたくなったら富士山の洞穴に来てくださいと言いました。
この噂は国中に広がり、かぐや姫が帰る日になると多くの人々が集まって、別れを惜しんで涙を流しました。
その場所は憂涙川(現在の潤井川)と呼ばれました。
この時代、富士山は神仏の住む世界で登るのは恐れ多いと考えられていましたが、皆、かぐや姫を追って富士山に登りました。すると途中でかぐや姫は振り返って別れを告げ、お爺さんと最後の別れの歌を詠んで一人山頂へ登って行きました。この場所を中宮と呼んでいます。
かぐや姫は富士山頂に着くと、山頂にある釈迦ヶ岳の近くの大きな岩(現 白山岳 釈迦の割石と思われる)にある洞穴に入っていきました。
実は、かぐや姫は富士山の神様だったのです。そして人々を救うために「浅間大菩薩」という女性の神様の姿になって里に現れました。
それからは人々はかぐや姫に導かれ、女性は富士山の中宮まで、男性は山頂まで登れるようになったということです。
かぐや姫を育てたお爺さんとお婆さんは、それぞれ鷹と犬を可愛がり、お爺さんは愛鷹権現、お婆さんは犬飼明神と呼ばれる祭神になったそうです。
下方五社の一つ、原田の滝川神社はかぐや姫誕育の地とされ、竹取の翁を祀るともされています。

↑AM9:43…日吉浅間神社の真後ろに富士山剣ヶ峰が見えます♪
暖かい陽射しの中、富士山東泉院跡 / 日吉浅間神社の境内で、穏やかな時間を過ごさせていただきました♪
これから吉原のアーケードの商店街(東海道 吉原宿)へ戻ります。


↑AM9:55…吉原商店街に鯛屋旅館があります。
鯛屋旅館の創業は天和2年(1682年)から340年以上もの間、この場所で営業しているそうです。
また幕末から明治維新にかけて全国に名を轟かせた「清水の次郎長」や幕末の偉人の一人である「山岡鉄舟」の常宿としても知られています。
青年期は任侠の道を歩んだ次郎長ですが、慶応4年に駿府の街道警護役(警察署長)に任命され転換期が訪れました。55歳の時、社会事業家として水も出ない荒れ地だった富士裾野の大淵の開墾に着手しました。開墾されたその地は現在、次郎長町という地名が残されています。
その次郎長は、西郷隆盛と徳田寛豊(神道天照教 初代教祖)と鯛屋旅館で密談をしたと伝わっています。
次郎長開墾地より更に登った標高1000mに神道天照教の本部がありますが、次郎長は神道天照教開設にも関わっていました。神道天照教は日本国に国教を築く大理想に向かっての大事業でした。
当時の高官だった西郷隆盛が京都に向かう途中、吉原宿の鯛屋旅館に宿した時、富士山の瑞気、天に沖する姿を見てこの地を日本の中枢地と定めた遷都計画を話し合った記録があります。
その証として、縦に五十間の道路を8本海まで通し、横に三十間道路を12本碁盤目に交錯させて、海側の蒲原に信門、田子の浦に儀門、原に礼門を設けここから諸外国と交流するという「三大楼門構想図」という絵巻物が実在しています。
その絵巻物が下の写真です…
これらのことから、清水の次郎長、西郷隆盛、徳田寛豊の3人は富士市吉原の鯛屋旅館で、それぞれ大きな夢を描いていたことが分かります。
これから、吉原宿 西木戸跡へ向かい村山道へと歩を進めます…
つづく…


