この記事は 2022年に私が体験した事を「回想」として綴ったものです...
富士山最古の登拝道「村山道」は、春夏秋冬 様々な姿を見せてくれます。ふじ爺は これまで何度も歩いていますので、これまでのベストショットを織り込みながら綴っていきます。
 
8月4日...7月29日 PM17:34に 海抜0mの田子の浦 鈴川海岸をスタートして、村山道での勤行先(札打ち)及び修行場を巡拝しながら、約24時間32分 37.9km歩き続け、「村山口 旧四合目(現富士宮口 新六合目)」の雲海荘に宿泊。(1泊目)

二夜明けて、7月31日 AM3:43 雲海荘をスタートし、執杖流しから「日本最高峰 富士山剣ヶ峰 」に登頂した後、村山の興法寺 池西坊発行の「蓮嶽真形図」を基に八葉九尊の巡拝を実行し、村山口 旧四合目(富士宮口 新六合目)まで下山し雲海荘に連泊。(2泊目)
この日は 約16時間13分、16.5kmを歩き通しました。

三夜明けて、8月1日 AM7:40 連泊した雲海荘をスタートし、村山修験行者の下山路であった須山口を下山しながら勤行場を巡拝し、須山 十里木高原のペンションに宿泊。(3泊目)
この日は 約10時間17分、20.7kmを歩き通しました。

四夜明けて、8月2日 AM5:34 十里木高原のペンションをスタートし、村山修験行者の富士山峯入り帰路(復路)での勤行先(札打ち)及び修行場を巡拝し、御殿場市内のビジネスホテルに宿泊。(4泊目)
この日は 約12時間20分、25kmを歩き通しました。

五夜明けて、8月3日 AM5:10 御殿場駅近くのビジネスホテルをスタートし、再度 裾野市に戻り、村山修験行者の富士山峯入り帰路(復路)での勤行先(札打ち)及び修行場を巡拝し、三島駅近くのビジネスホテルに宿泊。(5泊目)
この日は 約16時間26分、40.6kmを歩き通しました。

六夜明けて、8月4日は「ソロでの富士山峯入り修行」最終日となります。村山修験行者の富士山峯入り帰路(復路)での勤行先(札打ち)を辿りながら歩を進めます。
PM14:15..富士市 田子の浦の鈴川海岸で昼食を終え、水垢離として海水に触れます。
↑PM14:34..鈴川の富士塚、浅間宮に参拝します。
7月29日のPM17:34に田子の浦 鈴川海岸をスタートして、7日間歩き通し、無事に戻って来られた事に感謝し、お礼参りをさせて頂きました。
往路と同じ古代東海道→旧東海道と歩き、吉原宿西木戸に向かいます。
PM15:52..吉原宿 西木戸跡から伝法小東交差点へと向かい、復路は富士山本宮浅間大社へと歩を進めます。
PM18:01..吉原西木戸→伝法→鷹岡→入山瀬→天間と歩を進め、中道往還(甲州街道)に合流します。
PM18:09..富士宮市小泉の道祖神を通過し、同市小泉の富士根南公民館までやって来ました。(海抜125m)
こちらには4つの石碑が並んでおり、左側から「向原の双体道祖神(年代不詳)」→「題目塔 2基」→「甲子碑」と並んでいます。
題目塔には、元禄年間の文字と「駿河國富士郡下小泉村  南無妙法蓮華経」と彫られています。

※甲子とは「きのえね」と呼び、十干十二支の第一番目同士の組み合わせで、陰陽道では祭を行うのに最も吉日とされています。年単位では60年に1度廻って来ますが、長過ぎるため1年に6度の甲子の日の夜に行われる様になったのが甲子講です。
子(ね)の刻(午前0時の前後2時間)まで起きて大黒天を祀り、諸願成就や福徳円満を願います。
PM18:39..小雨が降って来ました。弓沢橋を渡り、弓沢川右岸を進むと「登山杖」と書かれた看板が目に留まります。ここは「金剛杖」を製作している木工所(富士宮市弓沢町)です。
木工所の左手には道祖神と題目塔があり、中道往還の形跡が残っています。

以前、作業場を見学させて頂いた事があるので、下に写真を載せておきます。
↑【参考写真 2019年7月10日撮影】金剛杖を製作されておられる、川田木工所さんの作業場です。
PM19:03..「富士山本宮浅間大社」にやって来ました。
古くから人々は、噴火する富士山に怒る神の姿を重ね「富士神」(ふじのかみ)として畏れていました。
富士山本宮浅間大社の社伝によると、紀元前27年に神の怒りを鎮めるために山足之地(やまあしのち=富士山麓)に富士神を祀った事が、浅間大社の始まりとされています。富士神は西暦110年に山宮浅間神社に遷され、平安時代になると「浅間大神」(あさまのおおかみ=火山の神)と呼ばれるようになりました。
西暦806年、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が山宮浅間神社の里宮として、現在の地に社殿を創り、浅間大神を祀りました。
現在の富士山本宮浅間大社では、浅間大神を木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)として祀っています。

日本の神々を仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたものとする「本地垂迹思想」(ほんじすいじゃくしそう)によれば、富士山本宮浅間大社は「大日如来」です。
PM19:09..写真の楼門は 三間一戸の二階入母屋造で、屋根は檜皮葺きです。慶長9年(1604年)に拝殿・舞殿・本殿と共に、徳川家康によって造営された建築物です。
楼門下層左右に、一対の随身像が安置されています。
日中は 格子と硝子により随身像が目立ちませんが、夜になると照明により随身像が浮かび上がって見えます。
随身像の背に「慶長十九年二月」(1614年)の銘があるそうで、左像は「甲州河内下山住番匠 石川清助作」、右像は「大工 山城國上原住 櫻井三蔵作」です。色彩鮮やかな束帯姿で、面立ちは穏やかで共に髭を生やし、左像の髭は白く、右像の髭は黒いです。
PM19:09..楼門に掲げる扁額は、聖護院門跡 盈仁入道親王(えいにんにゅうどうしんのう)の揮毫で、文政2年に制作されたものです。
PM19:15..夜の富士山本宮浅間大社は 朱色がひときわ美しく幻想的な佇まいです。
夜なので分かりにくいですが、拝殿の後ろには二階建ての本殿となっており、慶長9年(1604年)徳川家康が、関ヶ原合戦 戦勝のお礼と徳川幕府の安泰を祈願して造営した社殿の一つです。
全国でも珍しい「浅間造り」という浅間大社独自の造りで、二階建ての楼閣造りになっています。一階は5間4面 葺卸 (ふきおろし)の宝殿造り、二階は間口3間、奥行き2間の流造りで、国の重要文化財になっています。
↑PM19:16..無事に富士登拝が出来た事に感謝し、参拝させて頂きます。
↑【参考資料 寛文10年(1670年)富士山本宮浅間大社境内絵図写(社頭古絵図)】
古絵図でも分かる様に、富士山本宮浅間大社もかつては神仏習合で、社僧が神前で奉仕し、境内には「阿弥陀堂」「薬師堂」「大日堂」「普賢延命堂」「摩利支天社」「帝釈堂」「五大堂」「三重塔」「鐘楼堂」「経蔵」「護摩堂」などの仏堂がありました。
これらの仏堂は 江戸期の大地震などで大きな被害を受けました。やがて明治を迎えると、神仏分離令による廃仏毀釈運動で一掃されてしまい、遺構はほとんど残されていませんが、湧玉池 水屋神社近くの石灯籠が、神仏習合時代を物語る数少ない遺産のひとつとなっています。
PM19:23..この写真が、神仏習合時代を物語る石灯籠です。元禄五年と彫られているので1692年(江戸幕府 五代将軍 徳川綱吉の時代)に建立されたもので、石灯籠には『富士浅間大菩薩 廣前』と彫られています。
神仏分離前の富士山は、神仏が混交した霊場であり、仏教優位の考えでは、富士山の神は「浅間大菩薩」と呼ばれ、その本地仏(本来の仏の姿)は「大日如来」とされました。

富士山本宮浅間大社の敷地内には、神仏習合時代の遺跡として一部 残っている場所がありますので、参考として下に載せておきます。
↑【参考写真 2020年1月19日撮影】湧玉池(上池)の水屋神社の西側に鎮座する「天神社」の右奥には、石垣が組まれた「摩利支天社跡」があります。

※摩利支天(まりしてん)とは、陽炎(かげろう)や日の光が神格化された女神で、自在の神通力を持ち、姿は見えなくても 常に身近で陽炎の如く、人々を守護する神として信仰を集めました。昔から、武士や忍者、力士らの必勝祈願の神としても信仰されていました。
↑【参考写真 2020年1月19日撮影】湧玉池(上池)の北方向に石垣が組まれている場所があります。
この場所が仏教施設『富士山本宮淺間神社 護摩堂跡(現 富士山本宮浅間大社)』で、3間4面、7尺間の規模だったようです。
2008年の発掘調査により、湧玉池北側で護摩堂跡(寛文10年の社殿配置図に基づく)が確認されました。護摩堂は慶長9年(1604年)の徳川家康による造営時に建立されたものだそうです。
この発掘調査は 報道関係のみに公開されました。

富士山本宮浅間大社へのお礼参りを終え、これから村山道(西見付へと)を歩き、「村山浅間神社・富士山興法寺大日堂」へと向かいます。

つづく...