この記事は 2022年に私が体験した事を「回想」として綴ったものです...
富士山最古の登拝道「村山道」は、春夏秋冬 様々な姿を見せてくれます。ふじ爺は これまで何度も歩いていますので、これまでのベストショットを織り込みながら綴っていきます。

7月31日...7月29日 PM17:34に 海抜0mの田子の浦 鈴川海岸をスタートして、村山道での勤行先(札打ち)及び修行場を巡拝しながら、約24時間32分 37.9kmを歩き続け、「村山口 旧四合目(現富士宮口 新六合目)」の雲海荘に宿泊。(1泊目)

二夜明けて、7月31日 AM3:43 雲海荘をスタートして、8時間20分かけて、執杖流しから「日本最高峰 富士山剣ヶ峰 」に登頂した後、友人達と再会を果たしました。
その後、東北奥宮 久須志神社を参拝した後、富士山本宮浅間大社 富士山頂奥宮の参拝を終え、村山の興法寺 池西坊発行の「蓮嶽真形図」を基に、八葉九尊の巡拝へと歩を進めています。
これから内濱道を進み、金明水に向かいます。
↑PM15:49..外濱道と内濱道の分岐点まで戻って来ました。これから右へと下り、内濱道へと歩を進めます。
↑PM15:50..左手に「阿弥陀ヶ窪」(現 小内院)を見ながら内濱道を進み、別れを惜しむ様に「釈迦ノ割石」を見上げます。
↑PM15:52..右手に西安ノ河原を見ながら、金明水へと向かいます。
正面に「虎岩」が見えます。真正面から見ると、獅子頭の様に見えます。
↑PM15:57..この場所は 神仏分離前の蓮嶽真形図では『金水』と呼ばれていました。また他では「金名水」とか「金銘水」、「御山水」とも呼ばれていたそうです。神仏分離後は「金明水」と呼ばれる様になりました。(海抜3687m)
写真の石碑 西側約50m先では、積雪が多い時は雪解け水が今でも湧き出る事があります。

延宝8年(1680年)には、金明水の事を「目洗い水」と呼ばれていたそうで、眼病を患う人が「薬師」の称号を唱え、目を洗ったとされる他、この水で目薬を作り領布したり、護符を書いたりされたそうです。
また、男女平等を唱えた富士講行者の異端派6世 食行身禄(じきぎょうみろく)が、富士講独自の書式で書かれた「御身貫」(おみぬき)を書く際には、金明水を用いた事や、岩倉三位(岩倉具選 イワクラトモカズ)が金明水を天皇に献上し、御所で和歌をしたためる際に用いられた事が、江戸中期の「隔掻録」(カクソウロク)に記録されているそうです。
そして明治維新後、富岡鉄斎は金明水で墨を磨り、芸術活動にも奔走していたそうです。
また、当時の登拝者も竹筒や徳利などに入れて、持ち帰ったりしていたそうです。
↑現在、建立されている『金明水』の石碑は 昭和55年、庚申 富士山御縁年に 東京の山吉講の系譜を継ぐ、「山吉〔◯す〕御水講」が奉納したものです。
↑現在、金明水の石碑に横たわっている石板の欠片には「扶桑教」と彫られている事から、この場所に扶桑教の天拝所があった事が分かります。
大宮の浅間大社(現 富士宮市の富士山本宮浅間大社)の初代宮司だった「宍野 半」(ししのなかば)が、明治9年(1876年)に 金明水の横、約100坪の土地を浅間大社より借用し、扶桑教の施設「天拝所」を建てました。
現在は 吉田口登山道八合目の元祖室に移動し、「天拝所」となっています。
↑PM16:00..金明水近くの大内院縁に鳥居跡があります。
大内院に向かって、斜め左頭上には『六岳・薬師』が聳えているので、眼病を患う人達が「薬師」の称号を唱え、遙拝している姿が脳裏に浮かびます。

近世では、釈迦ヶ嶽(現 白山岳)から下りる道は二筋あり、「金明水へと向かう道」と、「五岳・弥勒へ下りる道」があったそうなので、これから金明水から直登し、「四岳・釈迦」へと歩を進めます。

つづく...