この記事は 2022年に私が体験した事を「回想」として綴ったものです...
富士山最古の登拝道「村山道」は、春夏秋冬 様々な姿を見せてくれます。ふじ爺は これまで何度も歩いていますので、これまでのベストショットを織り込みながら綴っていきます。

7月30日...7月29日 PM17:34に 海抜0mの田子の浦 鈴川海岸をスタートして、村山古道の「札打場」で、約13時間40分が経過しました。
これから、村山古道沿いの天照教社へと歩を進めます。
AM7:36..大ケヤキ 札打場での札打ちを終え、天照教社に向かって歩を進めます。
AM7:37..村山古道の「シモツケ」(下野 バラ科)
「シモツケ」と「シモツケソウ」がありますが、花が似ており よく混同されやすいので特徴を書いておきます。
シモツケは木で、葉の形状は葉先の尖った、細長い卵型にギザギザの縁です。
シモツケソウは草で、葉の形状は57の掌状 (手の平) に深裂していてギザギザの縁です。
AM7:38..苔むした溶岩の道です。苔を痛めない様に歩を進めます。
AM7:46..村山古道のタマアジサイ (玉紫陽花)
AM8:00..もう少しで、林道「富士山麓線 (天照教林道) 」に出ます。
AM8:07..天照教社です。(海抜1005m)

天照教の創始者 徳田寛豊は14歳の時、幕末動乱の中で故郷(群馬)を後にして西郷隆盛などと一緒に国事に奔走し、水戸藩同士と共に「桜田門外の変」に関わり、明治時代には官職に就いて国事に参与。その後、官職を投げ打ち、高野山や羽黒山、善光寺、宇佐八幡、伊勢神宮など、宗教の深義を求めて精進した結果、明治12年 (1879年) に天照教の社殿を この地に設立したそうです。明治14年に伊勢の皇大神宮 (内宮) から分霊奉遷 (ぶんれいほうせん) されています。
現在は 5代目教主として徳田衣佳さんが継承されています。以前、個人的に村山古道を歩く際の休憩場所として使わせて頂ける様にお願いしたところ、快く承諾して下さいました。
また、天照教社は 富士市が設定した海抜0mから富士山頂を目指す「富士山登山ルート3776」にも協力されており、トイレ利用も可能です。
【参考写真 2022年5月1日撮影】
天照教社の広大な境内には「清水次郎長」お手植えの桜や、創始者「徳田寛豊」お手植えの桜があります。樹齢は100年を越えており、素晴らしい樹形です。標高約1000mの天照教社の桜は 平地より約1ヶ月遅れで満開になります。

富士山と次郎長といえば、富士市大淵の開墾が知られていますが、天照教社の造成にも関わっていたそうです。
【参考写真 2021年6月27日撮影】
天照教社境内に自生する「ユキノシタ」(雪の下)
【参考写真 2023年7月2日撮影】
天照教社境内に自生する「クモキリソウ」(蜘蛛切草) 湿った林の中に育つ 貴重なラン科の植物です。
霧がかかる場所に育つ事から「雲霧草」とも呼ばれています。

参考写真の様に天照教社の境内では、よく観察して歩くと 貴重なラン科の植物や山野草が自生しています。それは標高1000mで霧が多く発生し、林床が程好く湿り気があるので、植物にとっては楽園の様な場所なのでしょうね♪
AM8:15..天照教奥之院参道を進み、奥之院に向かいます。
AM8:22..天照教奥之院に参拝させて頂きます。
青色の線が 田子の浦 鈴川海岸からスタートして、村山古道沿いの「天照教社 奥之院」までのルートです。
これから、村山古道を歩き「2基目の馬頭観世音菩薩」へと歩を進めます。

つづく...