この記事は 2022年に私が体験した事を「回想」として綴ったものです...
富士山最古の登拝道「村山道」は、春夏秋冬 様々な姿を見せてくれます。ふじ爺は これまで何度も歩いていますので、これまでのベストショットを織り込みながら綴っていきます。

7月30日...7月29日 PM17:34に 海抜0mの田子の浦 鈴川海岸をスタートして、約8時間30分が経過しました。
富士宮市杉田の八大金剛童子から村山道を北上し、富士宮市粟倉石原までやって来ました。
↑AM2:05..富士宮市粟倉石原に 道に背を向けた馬頭観世音菩薩が祀られています。(海抜341m)
↑【参考写真 2019年11月30日撮影】
お天気が良いと 道に背を向けた石仏からは この様に富士山が見えます。
↑AM2:09..村山道から少し外れて、ちょっと道草をします。富士宮市粟倉石原の「双体馬頭観世音菩薩」です。天保6年(1835年)造立のもので、富士宮市では この1基だけ確認されているそうです。
↑【参考写真 2022年4月1日撮影】
富士宮市粟倉石原の双体馬頭観世音菩薩(舟形)は 写真の様に立派な銅板屋根の祠に安置されています。
↑AM2:11..富士宮市粟倉石原の峠に馬頭観世音菩薩と道しるべ、祠2基が集められています。(海抜347m)
更に北上して歩き進めます。
↑AM2:16..粟倉を更に北上すると、古い墓地のすぐ近くに 藁とアスナロ(明日檜)で作られた、家みたいな物が左手に見えて来ます。「バンヤ」という 火伏せの神を石原集落内だけで祭ったものだそうです。
↑【参考写真 2022年4月1日撮影】
昼間に見ると この様に集落の道筋に置かれています。
↑AM2:23..枯れ沢の立堀沢の手前の「水神」石碑(海抜377m)を通過して歩き進めます。
↑AM2:28...富士市6基目の「石原」の村山道 道しるべ(海抜400m)です。
枯れ沢の立堀沢の手前の「水神」石碑を過ぎ、高度を上げて行くと変則の四辻に出ます。正面のお茶畑が高くなっていて、コンクリートの側壁が築かれており、レリーフの様に道標が はめ込んであります。
↑【参考写真 2023年4月1日撮影】
お天気が良いと 石原の道しるべからは この様に大きく富士山が見えます。
↑AM2:35..7基目の富士宮市「横沢」の村山道 道しるべ(海抜418m)までやって来ました。
この場所は 廃止されたバス路線の三角ロータリー(元 横沢バス停留所)です。
↑AM2:36..横沢の馬頭観世音菩薩 2基で、左側は三面馬頭観世音菩薩です。
↑AM2:49..村山三坊の一つ「池西坊(浄蓮院)」及び「富士家」の墓所(海抜486m)までやって来ました。
富士山を開山した「末代上人」や、村山道を開いた「頼尊上人」の墓標が造立されていますので、深夜ですが、お線香を焚いてお参りさせて頂きました。
ちなみに富士家の家紋は『丸に左離れ立ち葵』です。

↑【参考写真 2023年4月1日撮影】
..富士家 墓所奥には...
墓標上部には『開山』と彫られ、
『尊義上人   末代上人』
『役行者大士  先祖代々尊霊』
『頼尊上人  存譽上人』
と彫られている墓標が造立されています。

山岳修験の開祖...役行者(えんのぎょうしゃ)
村山修験の祖 富士山を開山...末代上人(まつだい)
大鏡坊を開山...頼尊上人(らいそん)
池西坊を開山...尊義上人(たかよし)
辻之坊を開山...存譽上人(ぞんよ)
村山修験のオールスターが揃っている墓標です。
↑AM2:55..富士家の墓所から約2分程で、村山道「東見付」(海抜484m)です。双体道祖神に見守られながら、村山修験の結界に入ります。

見付とは..
木戸と違って、敵を防ぐ施設です。戦国時代、村山修験が勢力を持っていた頃に木戸があり、番兵が居て 村山への出入りを監視していたそうです。村山修験は 戦国大名 今川家の軍事スパイを務めたともいわれています。村山には「東見付」と「西見付」があります。
↑【参考写真 2019年11月30日撮影】
双体道祖神とは..
この夫婦の道祖神は サルタヒコ(猿田彦大神)や アメノウズメ(天宇受売命)と結びついた事から来ているそうです。これらの神様が結びついたことから、旅や導きのご利益があるとされています。
↑AM2:56..村山道 東見付の筋向かいに馬頭観世音菩薩が祀られています。田子の浦 鈴川海岸から村山浅間神社・富士山興法寺大日堂までの村山道では最後の馬頭観世音菩薩となります。
青色の線が 田子の浦 鈴川海岸からスタートして、これまでのルートです。
東見付を過ぎ、村山修験の結界に入りましたから「村山浅間神社・富士山興法寺大日堂」は もう目の前です。

つづく...