『塗りの輪島、漆器の駿河』と言われる様に 静岡は輪島に引けを取らない漆器の一大産地です。
では何故、静岡は漆器の産地となったのか?...
1560年、今川義元と織田信長の間でおきた「桶狭間の戦い」で 信長が義元を討つと、家康は人質生活から解放され自由の身となりました。
その後1582年、三河遠江の大名となっていた家康は 静岡にあった武田氏の城「賤機山城」(しずはたやまじょう)を攻撃する際、戦勝祈願として身近な存在だった静岡浅間神社を訪れ『無事に自分が勝利をおさめたならば、必ず社殿を再建する』と誓いをたて、社殿を焼き払いました。
そして1586年、5か国の大名となった家康は 浜松城から駿府城へ移り、10年後に誓いを果たすべく「静岡浅間神社」の再建 (慶長年間に) をおこないました。

さらに寛永11年 (1635年) 家光公 上洛の折、幕府は社殿の修造を命じ、日光東照宮や浅草寺などを手がけ 幕府御用であった幕府方の棟梁や地元大工方棟梁、また全国から漆職人が集められ「総漆塗り極彩色」の豪壮華麗な社殿群が造営されたわけです。
その後、安永と天明の両度、出火により社殿にも延焼しましたが、文化元年 (1804年) から60年余の歳月と、当時の金額で10万両の巨費を投じて再建されたのが現在の社殿群です。(全て国の重要文化財に指定され、その数は26棟にも及びます)

年月が戻りますが、1555年 家康が14歳の時、元服を迎え その元服式をおこなった場所が、今川氏の氏神様でもあった静岡浅間神社です。家康にとって静岡浅間神社は身近な存在だった事が分かります (元服式では、今川義元が親代わりをつとめました)

前述の寛永年間より、静岡浅間神社の造営に尽力した職人は、木工・模型・漆器などの工芸品を手がける様になり、静岡市の特産工業へと発展したわけです。
そして、静岡の漆職人が 試行錯誤を繰り返し、大正13年 ついに独自の砂の蒔地 (下地法) を完成させ「金剛石目塗」(こんごういしめぬり) という独創的技法で、今もなお 静岡の「鳥羽漆芸」さん (静岡県指定無形文化財) では 伝統的漆器づくりが伝承されています。
また伝統的な漆器だけでなく、ガラスに漆を塗った「うるしのGLASS」も制作されておられます。

↑上の写真は 富士山峯入り修行 完遂記念として「峯入り記念 漆のグラス」を別注で 静岡市の漆職人「鳥羽漆芸」さんに制作して頂いたものです。 
ふじ爺は 2022年7月29日~8月4日に ソロで「村山修験富士峯入り修行全工程 195km」を歩き通しました。
そして、今年の2023年8月20日~8月23日には「本山修験宗総本山 聖護院門跡 富士山峯入り修行」に参加させて頂き、2年続けての満願成就となりました。
その満願成就の記念として制作して頂いた漆のグラスは ふじ爺が「不動明王」をイメージし、デザインをイラスト化したものを 漆職人さんが形にして下さいました。
その伝統工芸の制作工程を記録📝として残したく、漆職人さんの許可を得て、このブログで公開させて頂きました。

★グラス中央の「群青富士」は 大日如来 (浅間大菩薩) を示しており、グラスの金箔は「八葉九尊」(大日如来を中心に四如来と四菩薩) の胎蔵界曼荼羅の世界を現し、富士山頂の火口 (大内院) をイメージしています。

★グラス底の赤箔は 正面から見ると「胎蔵」の蓮の花に包まれた仏の世界を意味し、蓮の赤い花弁のイメージが反射により表現されています。

★グラスを上から覗くと、グラス底の赤箔が金箔に反射し、不動明王の「迦楼羅炎」(かるらえん) 🔥のイメージが見事に表現されています。
グラス外側の 漆の金剛石目塗は「迦楼羅炎」(かるらえん) を表現しています。
※不動明王は迦楼羅 (かるら) という、人々の煩悩を喰らう霊鳥の姿をした炎である「迦楼羅炎」を背負っています。不浄なものを 焼き清める炎とされており、人間界の煩悩が天界に波及しない様に烈火🔥で焼き尽くす世界を表現しています。

以下の写真は「峯入り記念 漆のグラス」の制作工程となります。
↑横山大観の「夏之不二」を想わせる「群青富士」の絵付けが、青色の顔料を混ぜた漆で施されます。
漆で描かれているので「漆風呂」に入れて乾かしてから 次は底の赤箔🟥を貼ります。
↑絵付けした「群青富士」が乾いたところで、グラスの底にマスキングし「純銀箔 光陽」という赤箔🟥を貼ります。
↑赤箔🟥を均等に優しく貼ります。
↑「群青富士」の雪の部分に純銀箔を貼ります。
↑「群青富士」の雪の部分の純銀箔を整えると、写真の様な仕上がりになります。
↑次に「八葉九尊」 (大日如来を中心に四如来と四菩薩) の胎蔵界曼荼羅の世界を表現する様に 金箔✨を貼ります。「金箔4号色」という、金94.43%、銀4.9%、銅0.66%を 厚さ約0​.0001mmに伸ばしたもので、23Kの金箔✨です。
↑金箔✨を均等に優しく、手作業で貼ります。
金箔のシワは 1客1客 異なりますから、同じデザインでも「オンリーワン」となります。
↑グラスの上から見ると、赤箔🟥が金箔✨に反射しているのが分かると思います。
金箔✨は 純金の含有率が高い程、赤みを帯びます。
↑いよいよ、鳥羽漆芸さん独創的技法による「金剛石目塗」をグラスの外側に施し、黒の漆⚫を塗ります。

漆は 生漆や黒の呂色漆が 本来 強固だそうです。
赤などの装飾漆は 顔料などの混ぜ物が入っている為、 ある意味 弱いそうです。
なので「下塗り→中塗り」までは強い漆を使い、ガッチリと しっかり土台を作ってから 好みの色で仕上げていくそうです。
↑下塗りが乾いたところで、サンドペーパーで凹凸をならし、再度 黒の漆⚫で中塗りをします。
↑黒の漆での中塗りが乾いたら、いよいよ赤の装飾漆🔴を塗り始めます。
↑写真は 1回目の赤の装飾漆🔴を塗り終え、乾燥させているところです。
この後、2回目の赤の装飾漆🔴を塗り重ねます。
↑木造の「漆風呂」に入れて、ゆっくり乾燥させます。
漆は湿度で乾燥させる為、乾燥させる必要な湿度は70%~85%です。

鳥羽漆芸さんの工房では、湿度と温度が管理された 木造の「漆風呂」に漆器を入れて乾燥させています。

漆は塗ってから徐々に色が明るく変化する性質があり、湿度を調整することで色の出方が変わります。
湿度が低いとゆっくり乾き、ゆっくり乾いた方が 色が明るく出るわけです。
逆に、湿度が高いと早く乾きますが、色がより濃く変化してしまいます。 (例えば赤ですと焦げ茶の様になってしまいます)


今回は 鮮やかな赤を出すために、ゆっくり乾かします。但し 始めは濃い赤ですが、3年くらい経過すると鮮やかな赤に色変してきます。
その様な事から、漆は かなりゆっくりとした成長と変化をする天然素材だという事が分かります。

↑赤の装飾漆の表面が乾いたら、グラス底に「ふ」文字を入れます。黒の漆上に銀粉をくっ付けます。
記念となる別注なので、特別に「ふじ爺・ふじさん」の頭文字「ふ」を入れて頂きました。
↑純金 (24K) の粉を蒔き、粉をくっ付ける為、黄色🟡の漆で線を引きます。
↑筆で黄色🟡の漆で線を引いた上に「粉筒」(ふんづづ) という葦 (アシ)で作った筒に金粉を入れ、パラパラと落とすと 写真の様に綺麗な縁取りとなります。
なぜ?葦 (アシ) の筒かというと、樹脂やプラだと静電気が起きてしまい、金粉を落とす事が出来ないそうです。
そして再度「漆風呂」に入れ、時間をかけて ゆっくりと乾かしていきます。
この様に 手間暇かかる手作業で、丁寧に作られています。

最後に...2023年1月号 静岡市の広報誌「静岡気分」に鳥羽漆芸さんのインタビューが掲載されましたので、その一部を抜粋しておきます。↓
【昔からの技術を未来に繋いでいくためには、時代に合わせる事も大事だと感じました。
そして、新しいものづくりへのチャレンジを始めました。約20年程前に思いついた、ワイングラスへ漆を塗る事でした。
ガラスへ漆を塗る事が出来ても、乾くと剥がれてしまいます。そこで、昔から甲冑 (かっちゅう) に漆が塗られていた様に 漆は金属との相性が良い事をヒントに、ガラスに金箔を貼った上に漆を塗る事で「うるしのGLASS」が誕生しました。
(中略)
伝統工芸品が作られても、それを使う人がいないと成り立ちません。伝統工芸における美しさの本質は「用の美」です。つまり、使ってこそ価値があります。
今までとは違った新しい使い方を 見つけてもらえれば嬉しいです。】
↑右側は 畠堀操八先生が書かれた「富士山 村山古道を歩く」の初版本です。2023年9月3日 富士宮市の村山浅間神社 富士山興法寺で執り行われた「富士山閉山式」で畠堀先生からサインを頂きました♪(次の写真です)
この本を読み返しながら、村山古道を思い出し、漆のグラスを使ってお酒を嗜んでいます🍶これが ふじ爺流の楽しみ方です🍀
グラスは 2021年に村山古道をイメージして制作して頂いた「うるしのGLASS」です。
↑畠堀操八先生から頂いた、直筆サインです♪
畠堀先生、ありがとうございました。