「冨士山諸人参詣之圖」
歌川国輝-二代/ 画       横川彫竹/ 彫
江戸末期 慶應元年6月(1865年)
大判錦絵三枚続-真作

念願の浮世絵(錦絵)を入手しました。

なかなかコンディションの良い物が無くて 長年探していました。
富士山世界遺産センターや博物館等で展示されている浮世絵(錦絵)と同じで、本物(真作)です。

国輝二代は 豊国三代の門人で、文久の頃から国綱二代と称して制作を開始しており、慶應頃に国輝二代と改めたと思われます。

国輝となって以降は 開化絵を多く描き、中でも鉄道絵が かなり多く、蒸気機関車の描写は他の絵師よりも精緻に観察して描いたそうです。幕末から明治初期の開化絵は資料的価値も高いそうです。

↑白装束に笠を身につけた富士講の一行が、富士登山をしている様子が描かれた錦絵です。
着物の背や笠には「砂糖」「味噌」「紙」「木綿」「そば」、「米」「青物」「竹」「油」 といった文字が見られ、物価の上昇と下落を風刺しているとされています。
この1枚では「大豆」「味噌」「豆」「墨」「そば」等の物価上昇が描かれています。
↑「諸人高山講」や「登山連」等の幟を持ち、富士登山をしている様子が分かりますね。
この1枚では「砂糖」「麦」「餅」「紙」「木綿」「下駄」「染物」等の物価上昇が描かれています。
↑金剛杖を両手で突きながら、大砂走りを滑り降りる姿を錦絵から見る事が出来ます。
この1枚では「竹」「油」「青物」「米」「茶」「魚」等の物価の下落が描かれています。
↑浮世絵とは、江戸時代初期に成立した風俗画です。
戦国時代を経て、嫌な事ばかりの「憂き世」ならば、せめて楽しい事を享受しようと、現世を「浮世」と読み替えた事に由来します。つまり当世である「今」を描いた絵画なのです。

浮世絵には 絵師が直接描いた肉筆画と、当時 技術が向上した木版画、版本があります。
木版画と版本は 絵師、彫師、摺師による協業体制の確立により、安価に大量の作品を流通させる事が可能となり発展していきました。
ことに木版画においては多色摺が開発され、やがて鮮やかな色彩が錦繍の様だと形容された「錦絵」が誕生し、江戸を中心に庶民に爆発的に広まり、大正期まで その命脈を保った版画芸術となりました。
現在は 主にこの版画作品を「浮世絵」と呼びます。

鮮やかな青「広重ブルー」は 浮世絵師 歌川広重の作品に多用した、透明感のある鮮やかな青を指す言葉です。この美しい青の正体は 露草や本藍ではなく、海外から渡って来た人工の顔料「ベロ藍」です。
葛飾北斎をはじめ、歌川広重と同時代に活躍した絵師たちがベロ藍を使ったそうです。
ベロ藍は 18世紀初頭、ドイツのベルリンの染料業者が偶然に発見した化学的な合成顔料で、日本には1747年に初めて輸入されたと伝えられています。
「プルシアンブルー」とも呼ばれるこの青色絵具は 発見された地名を取って「ベルリン藍」、略して「ベロ藍」と呼ばれる様になったそうです。
そして、ベロ藍が鮮やかに発色するには 日本独自の和紙と摺師の技が必要となります。
江戸時代から浮世絵に使われているのは 楮(コウゾ)を原料とした奉書という和紙です。奉書紙には 何度も色を摺り重ねても破れない耐久性と、水性の絵具で摺った時の発色や質感の良さがあり、まさに浮世絵に最適の和紙と言えます。

※ベロ藍の誕生は..
淡い緑色の硫酸第一鉄と、赤色のヘキサシアノ鉄(Ⅲ)酸カリウムを混ぜ合わせると、青色の沈殿物が出来たそうです。
↑これは作品の裏面です。
和紙の中に絵具が入り込んでいるのが分かります。
これが浮世絵・木版画の特徴であり、他の印刷物と異なる点です。和紙特有の長い繊維の中に 水性の絵具を熟練の摺師が しっかりと力を乗せて摺り込む事で、浮世絵独特の鮮やかな発色が生まれます。

今回入手した錦絵は 掛軸や額装による裏打ち(うらうち..本紙の裏面に紙などを貼り付ける事)はされていない物です。

錦絵は 初摺(しょずり)と後摺(のちずり..あとから増して印刷した物)では、微妙に色が変わります。
後摺の色が変わる理由には、初摺は絵師の指示通りに刷られ、後摺は摺師に任せられる物だったから、または増刷を重ねるうちに版木が廃れて、うまく色が乗らなかったからなど様々な要因があります。
ちなみに初摺は絵師が立ち会い200枚摺られたそうです。
今から150年以上前の作品となりますから、長期保存等による陽焼けなどの経年変化もみられる事から、初摺か後摺かの見分けは難しいですね。