浅間神社の読みが、アサマでも、センゲンでもどうでも良いと思っていたが、
世間には気にする人が多いようである。
富士山関連の講演会やフォーラムなどでも、質問をする人をよく見る。
しかし、これまで、明確な回答を聞いたことがない。
まぁ、私を含めて富士山の研究において、読み方はさほど重要ではなく、あまり気にしていないからであろう。
「富士の栞」という、明治10年に発行された富士山の案内書(静岡県の蒲原郡から大宮を通り、村山口登山道から山頂までの登山の案内)面白い記述があったので紹介したい。
著者は、土屋勝太郎という後に富士宮市の前身である大宮町の町長をやった人物である。校正者は冨士宗四郎という村山浅間神社の宮司である。
富士宮市の浅間大社の部分だけ抜粋して紹介をする。
”駿河国冨士郡浅間神社(名神、大)とあるは、この神社なり、
~ 中略 ~
社号を仙元(センゲン)などと字音に字音に唱うるは甚たしき妄誕にして、
必ずアサマと唱うるべきなり”
確かに、浅間神社の始まりは、富士山の噴火を鎮めるために、浅間大神(アサマノオオカミ)を祭ったのが始まりである。
冨士の栞でも主張しているように、センゲンではなく、アサマという読み方が本来的には正しいはずである。
私が、調べた限りにおいては、センゲンという言葉を最初に使用したのは富士講の人から、祖として仰がれている角行藤仏である。
彼は、富士山の神としていわれていた浅間大神や冨士権現ではなく、仙元大菩薩という新たな神を作り出し、自らの冨士信仰を広めていく。
富士講をはじめとする、角行系富士信仰の広がりとともに、多くの浅間神社は本来のアサマから、センゲンという読み方に変わっていったようである。
その証拠として、角行系冨士信仰の影響をまったく受けていない、河口の浅間神社は今でも、アサマ神社と読んでいる。
ではなぜ、角行系富士信仰の影響下になかった、富士宮の富士浅間大社が、アサマではなく、センゲンという読み方になってしまったのか。
これはあくまでも私の推測であるが、明治時代に浅間大社の宮司を勤めていた、宍野半は後に富士講諸派を集めて、教派神道ひとつである扶桑教を作る人物である。
おそらく、宍野半がアサマからセンゲンと読み方を変えたのではないだろうか。ちなみに、宍野半は「富士の栞」が発行されるより前に、浅間大社の宮司を務めている。
「富士の栞」は信州大学の近世日本山岳関係データベースにあり、そちらで読むこともできますので、
興味ある方はどうぞ。
手持ちの、「富士の栞」の刷りがあまりよくないので、時が見えにくいところはそちらを参照させていだきました。
近世日本山岳関係データベース 「富士の栞」
http://moaej.shinshu-u.ac.jp/?p=617