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※座談会御書解説

「念仏無間地獄事(ねんぶつむげんじごくじ)」

・通解

法華経方便品第二には、

「仏は自ら大乗の法に「住」されている。

もし、小乗の教えをもって一人でも化導することがあったならば、仏は慳貪(けんどん)の罪に落ちてしまう。

このことは絶対にあってはならないことだ」とあります。

 

この文の意は、仏が、法華経を胸に秘し収めておいて、観経念仏(かんぎょうねんぶつ)等の四十余年の経ばかりを人々に授けて、

 

真実の教えである「法華経」を説かずに黙っていたならば、仏は慳貪の者であり、三悪道に落ちてしまう、という文なのである。

「慳貪(けんどん)」-慳は惜しむこと。貪はむさぼること。人に与えるのを惜しむことをいい、餓鬼道の「因」となる。

 

「観経念仏」-念仏宗の依経となっている「浄土」の三部経のうち観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)をさす。

 

「三悪道」-十界の中の最低の境涯である、地獄・餓鬼・畜生の三つのこと。

・解説

本抄は、南部六郎実長(なんぶろくろうさねなが)、すなわち波木井(はぎり)実長に対し、入信の当初に与えられた「御書」であります。

 

波木井一族は、甲州南部の波木井地方を治める「地頭(じとう)」であり、もとは念仏の信仰を持っていたようです。

 

念仏信仰を捨て、正法に帰依した「実長」に対して、

日蓮大聖人は本抄で、念仏の元祖・「法然(ほうねん)」の「選択集(せんちゃくしゅう)」をあげて、

 

「念仏は無間地獄の法である」と断破(だんぱ)されているのです。

 

波木井実長は、こうした大聖人や、二祖「日興」上人の御教導によって正法の信仰に励み、後には、大聖人を自分の領地である身延(みのぶ)にお迎えし、

 

堂宇(どうう)を建立供養するなど、その外護(げご)において多大な功績を築きましたが、大聖人の御入滅後は、日興上人からも遠のき、

 

「五老僧」の一人である民部日向(みんぶにこう)の誘惑に乗って四箇(しか)の謗法(ほうぼう)を犯すに至ったのでした。

 

そして、日興上人の再三の訓戒(くんかい)にも謗法を改めることもなく、それが要因となって、ついに日興上人が身延を離山なさるという、まことに残念な結果となっています。

 

本抄において大聖人は、法華経方便品に、

 

「仏が真実の悟りであるところの「法華経」を会得したにもかかわらず、

未顕真実(みけんしんじつ)(真実まで到達していない方便の教え)である方便の教えだけをもって衆生を教化するならば、仏は慳貪の罪によって三悪道に堕する」

 

とあることをもって、信実の「法華経」を秘して、はるかに劣った教えである「観経(念仏等) 」などを広めるようなことがあれば、

 

それは慳貪の「失(とが)」となり、堕地獄(だじごく)の業因になる、と教えられています。

 

この御文は、衆生を教化する仏の立場に約して説かれたものですが、凡夫である私たちの立場にやくしてもよくよく考えなくてはなりません。

それは、あらゆる「罪障(ざいしょう)」を消滅して、「絶対の幸福を得ることのできる仏法」を知った私たちが、

 

それを謗法の人々に向かって説かなかったならば、この御文でいましめるところの「慳貪の失」に当たるということであります。

 

よく「宗教は自分だけが信じていればよい、他人に勧めることなど余計なお世話だ」と言う人や、

 

「折伏すると、相手からバカにされたり嫌われたりして、自分が損をするからしたくない」などと言う人がいますが、これは大変なエゴイズムで誤った考え方であります。

 

自分が唯一最高の仏法をたもち、幸福への道をしたならば、他の人達にも教えて共に幸福になろうと願うのが真に人間らしい心情であります。

 

それを、あえて「黙示するならば」、その人は「最高の仏法を人に教えることを惜しんだ強欲の失(とが)」で自分が餓鬼会(常に不足を感じて満足できない苦しみ)に堕ちることになるのであります。

 

実際、せっかく日蓮正宗の信徒になった人々の中でも、まったく折伏を忘れ、あるいは臆病心のために折伏ができないなどと言う人は、必ず生活上に不平不満や行き詰まりが生じております。

 

しかも、長年にわたる創価学会の大謗法、また邪宗邪義の充満によって、日本がまさに大きな危機に瀕している現在では、折伏を精一杯行ずる者と、折伏に起てない者との間には、その境涯に雲泥の差が現れるでありましょう。